第五話
「駄目!」
エルネは即答した。
自分でも驚くくらい、声が強く出た。
「ここ、演習用ダンジョンよ! 安全術式も通路もつながってる。周りごと壊したら、ほかの生徒まで巻き込むかもしれない!」
『あなたの損傷を確認しています』
「だからって全部壊さない!」
『了解。完全破壊案を保留します』
「保留じゃなくて却下!」
『却下を記録しました』
黒い本のページに走っていた文字が、少しだけ薄くなった。
だが、完全には消えない。
破壊。
焼却。
封印式ごとの消去。
周辺構造の切断。
まだ、そこにある。
ロゴは本当に、自分を助けようとしたのだろう。
けれど、その方法は怖すぎた。
エルネは頬の血を袖で拭った。
「壊す以外の方法」
『はい』
「止める方法を考えて。倒すんじゃなくて、止める」
『条件を更新します。対象の完全破壊を除外。周辺構造への被害を最小化。使用者の生存を優先』
「最後は大事だけど、言い方!」
『最適化を開始します』
石人形がゆっくりと立ち上がる。
さっき滑らせたせいで、片足の動きがわずかに鈍い。
だが止まってはいない。
額の魔法陣が、ひび割れた光を放っていた。
『停止候補。額部の駆動魔法陣』
「あそこをほどけばいいのね」
『はい。ただし接近が必要です』
「何秒?」
『最低三秒』
「三秒ね」
『危険です』
「逃げても危険でしょ」
『否定できません』
エルネは周囲を見た。
発光苔の広間。
水場。
演習用の魔石片。
壊れかけた床術式。
そして、額に魔法陣を光らせた石人形。
自分にできることは少ない。
けれど、ゼロじゃない。
エルネは水場の端に落ちていた魔石片を拾った。
演習課題用の小さな魔石だ。
魔力をよく通す。
採取して提出すれば点数になるもの。
今は点数より命である。
「これ、使える?」
『使用用途を確認』
「投げる」
『命中率に懸念があります』
「うるさい!」
エルネは魔石片に魔力を流した。
火球ではない。
水弾でもない。
学院で習ったどの術式でもない。
魔石片に、細い魔力の糸を絡める。
投げたあとも、ほんの少しだけ引けるように。
ほんの少しだけ、軌道をずらせるように。
『簡易誘導式ですか』
「そんな名前なの?」
『暫定命名です』
「悪くないわね!」
石人形が動いた。
重い足音が広間に響く。
エルネは魔石片を握りしめる。
狙いは足元。
さっき一時停止させた滑り止めの術式、その縁。
そこへ魔力をぶつけて、もう一度乱す。
「いけっ!」
魔石片を投げた。
少しずれた。
『命中軌道から外れています』
「分かってる!」
エルネは魔力の糸を引いた。
魔石片が空中でほんの少し曲がる。
狙い通りとは言い難い。
だが、外れでもない。
魔石片は水場の縁に落ちた。
ぱきん、と割れる。
中の魔力が広がり、滑り止めの術式が一瞬だけ乱れた。
石人形の足が、再び滑る。
今度は大きく。
巨体が膝をついた。
「今!」
『額部まで二歩。危険域です』
「知ってる!」
エルネは走った。
石人形の腕が動く。
遅い。
けれど、当たれば終わりだ。
エルネは身を低くし、その腕の下をくぐった。
怖い。
足が震える。
でも止まらない。
額の魔法陣が、目の前にある。
複雑な線。
古い線。
けれど、壊れている。
長い年月で摩耗し、補修もされず、それでも無理やり動いている術式。
学院の安全術式とは違う。
でも、どこか似ている。
使われて、継ぎ足されて、雑に流されて、壊れかけても動かされている。
「……あなたも、雑に使われてたのね」
『三秒経過まで、残り二・一秒』
「分かってる!」
エルネは魔法陣に触れた。
ほどくのではない。
壊すのでもない。
動くための線と、止まるための線を探す。
魔力を細く流す。
線の隙間に入る。
割れた部分をなぞる。
途切れた命令を読む。
あった。
停止命令の残骸。
ずっと昔に組まれ、誰にも使われなくなった線。
『右上の断線部を結合。魔力を通してください』
「細く?」
『あなたの通常通りで問題ありません』
エルネは、こんな状況なのに笑いそうになった。
今まで普通じゃないと言われてきた魔力が、初めて通常でいいと言われた。
魔力を通す。
額の魔法陣が、ふっと光を弱めた。
石人形の腕が止まる。
重い体が、その場に膝をついた。
そして、動かなくなった。
広間が静まり返る。
「……止まった?」
『対象の駆動停止を確認』
「勝った?」
『完全勝利とは言い難いですが、生存には成功しました』
「今は褒めるところ!」
『生存、おめでとうございます』
「そうじゃない!」
エルネはその場にへたり込んだ。
足が震えている。
腕も震えている。
頬は痛いし、心臓はうるさい。
でも、生きている。
そして、魔法を使った。
逃げるためだけじゃない。
自分で考えて、術式を組んで、動くものを止めた。
「私、本当に……」
『はい』
ロゴが答える。
『あなたは魔法を使用しました』
その言葉に、エルネは目を伏せた。
嬉しい。
怖い。
信じられない。
全部が混ざって、何を言えばいいのか分からない。
その時、遠くから声が聞こえた。
「おーい! 誰かいるのか!」
教師の声だ。
エルネは顔を上げた。
「まずい」
『救助では?』
「禁書を抱えてる!」
『問題点を確認しました』
エルネは慌てて黒い本を隠そうとした。
だが、隠す場所がない。
服の中に入れるには大きすぎる。
背中に回すには重すぎる。
その辺に置くには危なすぎる。
「先生、小さくなれない!?」
『現時点では不可能です』
「本当に不便!」
『紙媒体です』
「もう聞いた!」
足音が近づいてくる。
教師だけではない。
生徒たちの声も混じっている。
レオルたちだ。
エルネは唇を噛んだ。
このまま見つかれば、禁書を起動したことがばれる。
石人形を止めたことも、説明しなければならない。
そして何より、レオルがあの顔で言うに決まっている。
落ちこぼれのくせに、禁書を使ったのか、と。
『提案があります』
「何?」
『この状況を、演習用魔道具の誤作動として説明します』
「嘘じゃない?」
『完全な嘘ではありません。魔道具は誤作動しました』
「原因は私だけど」
『詳細を省略します』
「それ、隠蔽って言わない?」
『言い換えれば、情報整理です』
「便利な言葉!」
教師の明かりが、通路の向こうに見える。
もう逃げられない。
エルネは深呼吸した。
まず、黒い本を抱え直す。
次に、頬の血を袖で拭う。
最後に、できるだけ平気そうな顔を作る。
通路から、教師が広間に駆け込んできた。
「エルネ・フィル! 無事か!」
実技担当の教師、グラント教官だった。
大柄で、いつも眉間に皺を寄せている。
怒ると怖いが、今は本当に心配そうな顔をしていた。
その後ろで、レオルが顔を引きつらせている。
石人形が膝をつき、停止している。
その前に立っているのは、黒い本を抱えた落ちこぼれ。
どう見ても、何かが起きている。
エルネは一瞬だけ、笑いそうになった。
それから、黒い本をぎゅっと抱えたまま言った。
「先生」
グラント教官と黒い本が、同時に反応した。
「何だ」
『はい』
エルネは二人分の返事に、少しだけ固まった。
そして、思った。
これから先、たぶんかなり面倒なことになる。




