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第九話

 エルネ・フィルが火球を出さなかった。


 それなのに、的は爆ぜた。


 そんな噂は、昼前には学院じゅうを駆け回っていた。


 もちろん、噂は勝手に育っていた。


「的が丸ごと消えたらしい」


「青い火柱が天井まで上がったとか」


「レオル様が吹き飛ばされたって」


「吹き飛んではないわよ」


 食堂の隅で、エルネは小さく訂正した。


 誰にも聞こえていない。


 いや、聞こえていたとしても、噂の方が強かった。


 エルネは黒い本を膝に置き、スープの匙を止めた。


(先生。帰りたい)


『本日三回目の帰宅要求を確認しました』


(数えなくていいのよ)


『精神的負荷の推定に必要です』


(そういう正しさが今はいらないの)


 見られている。


 昨日までは、火球も出せない落ちこぼれとして。


 今は、何をしでかすか分からない生徒として。


 どちらも居心地はよくない。


 その時だった。


「エルネ・フィルさん」


 涼しい声がした。


 顔を上げる。


 そこに立っていたのは、一人の少女だった。


 青く透き通った長い髪が、昼の光を受けて水面のように揺れている。


 色白で、細く無駄のない立ち姿。


 華奢というより、すっと研ぎ澄まされた印象のスレンダーな体つき。


 表情は冷静で、凪いだ水のように静かだった。


 リシア・アルヴェルト。


 水属性の名門に生まれた、一年でも指折りの優等生。


 エルネとは、ほとんど話したことがない。


「少し、お時間をいただけますか」


「……ここで?」


「できれば、もう少し静かな場所で」


 断る隙がない。


 けれど、横柄ではない。


 必要だから声をかけている。


 そんな雰囲気だった。


『対象リシア・アルヴェルトを確認。敵意、低。警戒心、高』


(つまり?)


『真面目な用件です』


(それは分かる)


 エルネはスプーンを置き、黒い本を抱えて立ち上がった。


     ◇


 中庭は食堂より静かだった。


 噴水の近く、少し人目から外れた石畳の一角で、リシアは足を止めた。


「単刀直入に言います」


 振り向いた彼女の目は、やはり静かだった。


「今朝の再試験、見ていました」


「……そう」


「あなたの術式は、火球ではありません」


 リシアは断定した。


「普通の火球なら、進行方向があります。熱源の位置も明確です。どこを冷やし、どこを受け、どこで勢いを殺すか、水属性なら対処は組み立てられます」


 噴水の水が、彼女の指先に応じてするりと浮かび上がった。


 水は細い帯になり、空中で丸く巡り、薄い壁となる。


 綺麗だ、とエルネは思った。


 自分の大仰な多層魔法陣とは違う。


 無駄がなく、完成されている。


「火球なら、私は恐れません」


 リシアは続けた。


「ですが、あなたの火は違う」


 水の壁が崩れ、今度は小さな水球へ変わる。


「あなたの火は飛んでこない。対象の側で、いきなり燃焼点を作る」


 朝の光景が蘇る。


 的の中心に灯った青白い点。


 そこから内側へ走った亀裂。


 そして、爆ぜた音。


「だから怖いのです」


 淡々とした口調だった。


 けれど、その一言は思ったより重かった。


「私、誰かを傷つけようとしたわけじゃ」


「分かっています」


 リシアはすぐに言った。


「悪意があるかどうかではなく、性質の話です。意図に関係なく、危険な術式は危険です」


 エルネは言葉に詰まった。


『妥当な評価です』


(先生まで)


蒼炎針アズール・ニードルは既存防御を迂回しやすい性質があります』


(怖いことをさらっと言わないで)


 リシアは、黒い本へ一瞬だけ視線を落とした。


「その補助魔法具が、術式を組み上げているのですね」


「補助してもらってる、って感じだけど」


「なるほど」


 リシアはわずかに頷いた。


 それ以上、黒い本のことを詮索しなかった。


 代わりに、まっすぐエルネを見た。


「私は、あなたの魔法を禁止しろと言いに来たわけではありません」


「え?」


「危険だから使うな、で終わらせるのは簡単です。でも、それでは何も分からない」


 リシアの声は冷静だった。


 けれど、弱くはない。


「私は、水属性の術者として、あなたの火をどう止めるべきか知りたい」


「止める?」


「はい」


 リシアは噴水の水を小さく揺らした。


「今のままでは、普通の水壁では間に合いません。ですが、止められないとは思っていません」


 静かな自信があった。


 エルネは思わず黒い本を抱え直す。


「……もう止め方が分かってるの?」


「いくつか仮説はあります」


「仮説?」


「あなたの火は、対象の内側に燃焼点を置く。ならば、水で火を消すだけではなく、燃焼点そのものへ干渉する必要があります」


 エルネは目を瞬いた。


「燃焼点に?」


「はい。発生する前か、発生した直後に」


 リシアの水色の瞳が、静かにエルネを見た。


「それを確かめたかったのです」


 ぞくり、とした。


 脅されたわけではない。


 でも、朝に自分が見せたものを、この少女はもう正面から見返している。


『対象は対抗手段の構築を開始しています』


(分かってるわよ)


『強い個体です』


(個体って言わないで)


 エルネは負けず嫌いの虫がむくむくと顔を出すのを感じた。


「でも、それって実際にできるの?」


 言ってから、少しだけしまったと思った。


 挑発のように聞こえたかもしれない。


 だがリシアは怒らなかった。


 むしろ、ほんのわずかに目を細めた。


「試しても?」


「え?」


「あなたが嫌でなければ、ここで小さく確認したいです」


 さっきまでの強気な言葉とは違い、そこだけはきちんと確認だった。


「人にも、建物にも向けません。出力は最小。的はこちらで用意します。異常があれば、すぐに止めます」


 エルネは少し黙った。


 勝手に話を進められると思っていた。


 でも、違う。


 リシアは強気だが、乱暴ではない。


 危険を理解しているからこそ、手順を踏んでいる。


『検証条件としては適切です』


(先生はどう思う?)


『危険性の把握には、制御された試験が有効です』


(急に研究者みたいになった)


『私は元々、研究支援にも対応可能です』


(そういう話じゃない)


 エルネは小さく息を吐いた。


「分かった。でも、絶対に弱くする」


「お願いします」


「それと、危ないと思ったらすぐ止めて」


「そのために来ました」


 即答だった。


 本当に強気だ。


 リシアは噴水脇に落ちていた小さな木片を拾い上げた。


 それを水で包むのではなく、空中に浮かせる。


 周囲に水の粒が薄く漂う。


 濡らすというより、木片の周りに透明な流れを作っているようだった。


「この木片を狙ってください」


 エルネは黒い本を抱え直した。


(先生、出力は最低で)


蒼炎針アズール・ニードル、出力一割未満。発生点を木片中央へ設定』


(毎回フルネームで言わなくていいのよ)


『正式名称です』


 目の前に、小さな青白い補助線が浮かぶ。


 大掛かりな魔法陣ではない。


 ごく簡易の構築。


 それでも、普通の火球術式とはまるで違った。


 エルネは魔力を細く、細く絞る。


 火球は作らない。


 飛ばさない。


 木片の内側に、条件だけを置く。


 青白い火点が、木片の中心に灯りかけた。


「……っ」


 リシアの指先が動く。


 木片の周囲を漂っていた水の粒が、すっと流れを変えた。


 水が木片の細かな割れ目に入り込み、内部の魔力の通り道をほんの少し押し広げる。


 同時に、空気の流れがずれる。


 エルネが見ていた発火点が、半指分だけ滑った。


『警告。発生点指定が不安定化しています』


(え?)


 もう一度、点を置こうとする。


 だが、置いた瞬間に流される。


 火を灯すための条件が、集まりかけてはほどけていく。


『燃焼条件、固定不能』


 青白い火は、灯らなかった。


 エルネが火を置こうとした場所を、リシアが先に動かした。


 リシアは静かに指先を下ろした。


「今のは……?」


「あなたが火を置こうとした場所を、流しました」


 エルネは言葉を失った。


「あなたの術式は、火を飛ばさない。対象の内側に発火点を作る。なら、その発火点を固定させなければいい」


 リシアの声は冷静だった。


「発火点をずらす。魔力の通り道を乱す。熱の集まる場所を散らす。対象内部の空気の道を塞ぐ」


 そこで、リシアは一度言葉を切った。


「火を消すより先に、火を生まれさせない」


 強い。


 静かなのに、強い。


 エルネは負けたような、教わったような、奇妙な気分になった。


『評価を更新します』


(何を?)


『対象リシア・アルヴェルト。対蒼炎針戦術を構築可能』


(つまり)


『強いです』


 ロゴが短く言った。


 それが少しだけ悔しくて、でも納得もしてしまう。


「……あなた、私を馬鹿にしに来たわけじゃないのね」


「その必要がありますか?」


「今までの学院生活だと、割とあったのよ」


 そう言うと、リシアはほんの少しだけ考える顔をした。


「理解できないものを笑うのは、怠慢です」


「……真面目」


「よく言われます」


「自分で言うのね」


「事実です」


 この人、いちいち真っ直ぐだ。


「エルネさん」


 リシアは声を少しだけ柔らかくした。


「私は、あなたの術式を危険だと思っています」


「うん」


「ですが、それは排除したいという意味ではありません」


「じゃあ?」


「制御された形で、理解したいのです」


 その言葉に、エルネは少しだけ息を吐いた。


 怖がられている。


 でも、見捨てられてはいない。


 それは不思議と、少し救われる感覚だった。


「次に使う時は、事前に教えてください」


「また止めるの?」


「もっと良い止め方を考えます」


「負けず嫌いね」


「そちらこそ」


 言い返されて、エルネは口をつぐむ。


 否定できない。


 リシアは小さく会釈すると、そのまま踵を返した。


 青く透き通った長い髪が、背中で静かに揺れる。


 細いのに、背筋は驚くほど強く見えた。


 エルネはその背中を見送りながら、黒い本を抱きしめる。


(先生)


『はい』


(私の魔法、やっぱり危ないのね)


『危険性はあります』


(でも)


『制御可能性もあります』


 エルネは目を伏せた。


 朝は、ただ勝った気がしていた。


 笑ってきた相手を黙らせられた。


 少し、気持ちよかった。


 けれど今、その先を見せられた気がする。


 この力は、派手に当てれば終わりではない。


 止められなければ、ただ怖いだけだ。


「……ちゃんと、扱えるようにならないと」


『同意します』


 ページに細い文字が浮かぶ。


蒼炎針アズール・ニードル


『対水妨害条件、確認』


『出力制御、継続』


『非致死用途への再設計、優先』


 その下に、エルネには見えない一文が静かに刻まれる。


『使用者、危険性を自覚』


 ロゴはそれを記録した。


 それが、力に飲まれないための小さな一歩になることを知っているかのように。


 中庭には、まだ昼の光が差していた。


 落ちこぼれは、ただ笑われるだけの少女ではなくなった。


 その代わりに。


 止める価値のある術者として、誰かに見られ始めていた。

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