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第十話

 翌日の昼休み前。


 レオル・バルガンは、廊下の真ん中でエルネを待ち構えていた。


 取り巻き二人を連れ、眉間に皺を寄せている。機嫌が悪いのは、廊下の反対側からでも分かった。


「エルネ・フィル」


 わざとらしく名前を呼ばれ、周囲の視線が集まる。


 エルネは黒い本を抱え直した。


(先生。迂回失敗)


『回避判断が遅れました』


(反省会はあとで)


「補助具に頼った危険術式で騒がれて、ずいぶん偉くなったみたいだね」


 レオルが言った。


「火球も出せないくせに」


 以前なら、そこで笑い声が起きた。


 けれど今は違う。


 誰もすぐには笑わない。


 皆が、エルネの反応を見ていた。


「じゃあ、火術式って何?」


 エルネが言うと、レオルは杖を取り出した。


「決まっているだろ。これが正しい火術式だ」


 廊下で魔法を使えば、普通に怒られる。


 かなり怒られる。


 だが、レオルは周囲の視線に酔っているようだった。


「火よ、形を成せ。赤き球となり――」


 小さな赤い魔法陣が浮かぶ。


 火を作る線。


 球にまとめる線。


 前へ飛ばす線。


 形を保つ線。


 その中の、細い維持線が見えた。


(先生。止められる?)


『可能です。火球が火球であり続ける理由を、ほどきます』


 エルネは指先を伸ばした。


 火球には触れない。


 ただ、火球の外側を包む術式の線へ、細い魔力を差し込む。


 ぱちん。


 生まれかけていた火球が、飛ぶ前に消えた。


「……は?」


 レオルが固まる。


 取り巻きたちも口を開けていた。


「不意打ちだ!」


 レオルがもう一度杖を構える。


 だが、今度は火が生まれる前に、エルネは中心線をほどいた。


 ぱちん。


 赤い光は、火になる前に消えた。


「火を消したんじゃないわ」


 エルネは黒い本を抱え直した。


「火球になる前に、ほどいただけ」


 廊下が静まり返る。


 レオルの顔が赤くなった。


 彼は唇を噛み、取り巻きたちを乱暴に振り返ると、そのまま廊下の向こうへ歩いていった。


『対象レオル・バルガン、強い羞恥反応を確認』


(確認しなくていい)


『敵対再接触の可能性があります』


(……あるでしょうね)


     ◇


 放課後。


 エルネは、旧実技場裏の通路で足を止めた。


 そこは学院の中でも人通りが少ない場所だった。


 使われなくなった標的板や、割れた訓練用の石材が積まれている。夕方の光が斜めに差し込み、壁の影が長く伸びていた。


 そして、その影の中に、レオルたちがいた。


「待っていたよ」


 レオルが言った。


 昼よりも、声が硬い。


 取り巻き二人が左右に立っている。


 正々堂々とは、だいぶ遠い配置だった。


「何の用?」


「昼のあれは不意打ちだ」


「廊下で火球を出したのはあなたでしょ」


「黙れ!」


 レオルが叫ぶ。


 その手には、小さな赤い石が握られていた。


 内側に火が灯っているような、透明な赤い魔石。


 ただの魔石ではない。


『火属性保存式の魔道具を確認』


(魔道具?)


『内部に、火術式らしき構造が保存されています。術者の魔力ではなく、外部媒体を核にして発動する形式です』


(嫌な予感しかしない)


 レオルは勝ち誇ったように笑った。


「基礎火球をほどいたくらいで、僕に勝ったつもりか」


「勝ち負けの話をしてるんじゃ」


「これは学院の既製術式じゃない」


 赤い石が強く輝く。


「バルガン家の火種石だ。火術式の核を石の中に保存してある。君が僕の魔力線をほどいても、これは止まらない」


『呼称を記録。火種石。火属性術式保存媒体として分類します』


(記録してる場合?)


『今後の脅威識別に有用です』


 レオルは火種石を握りしめ、声を張った。


緋鎖火レッドチェイン!」


 緋色の火が、鎖の形を取った。


 一つ一つの輪が、燃える鉄のように赤く脈打つ。


 輪の内側では火が渦を巻き、表面には火の文字のような細い紋様が浮かんでいた。


 ただの炎ではない。


 火種石に刻まれた術式が、炎を鎖の形に縛っている。


 火でありながら、金属のように硬そうに見えた。


 取り巻きの一人が笑う。


「本、置いたら許してやるよ」


「補助具なしなら何もできないんだろ」


 エルネは黒い本を抱きしめた。


 怖い。


 正直、怖い。


 火鎖はじりじりと近づいてくる。


 熱が頬を撫でる。


 黒い本の表紙が、かすかに熱を持った。


『敵対行動を確認。対処案を提示します』


(人は傷つけない)


『条件を確認。人的損傷を除外』


(魔道具を壊すのも危なくない?)


『火種石を直接破壊した場合、暴発確率が高いです』


(却下)


『同意します』


 火鎖が近づく。


 昼の火球とは違う。


 レオルの魔力線をほどいても、火種石から火が供給される。


 火の鎖は、エルネを囲む輪として形を保っていた。


『代替案を提示します』


(何?)


『昨日のリシア・アルヴェルトの対処を参照します』


 その言葉で、エルネの脳裏に昨日の中庭が浮かんだ。


 噴水の水。


 リシアの細い指先。


 空中に広がった、水の膜。


 火を消す水ではない。


 火が生まれる場所を、先に流す水。


(リシアさんの……)


『はい。火を消すのではなく、火が成立する条件を崩します』


(でも、私、水属性なんて使えないわよ)


『水属性術式の完全再現は不要です』


(水を一から生成なんてしたこと……)


『水ならあります。いたるところに』


(どういうこと?)


『空気中の微小な水分。石畳の隙間に残った湿り気。あなたの呼気。燃焼によって生じる水蒸気』


(途中から言い方が嫌!)


『それらを集めます』


 黒い本から、青白い補助線が伸びた。


 火を組み上げた時とは、まるで違う線だった。


 細い。


 静かで、透明で、触れれば切れてしまいそうな水糸。


 それがエルネの周囲へ、蜘蛛の巣のように広がっていく。


 石畳の隙間。


 壁の影。


 エルネの吐息。


 火鎖が熱で揺らした空気。


 見えないほど小さな水の気配が、糸に触れて光る。


 一つ。


 二つ。


 十。


 百。


 水を作っているのではない。


 そこに散っているものを、拾い集めている。


(火がある場所じゃなくて)


 エルネは、リシアの水の動きを思い出す。


(火が火でいようとする場所を見る)


『正解です』


 青白い水糸が、火鎖へ向かっていく。


 赤い火の輪に、外から水をかけるのではない。


 輪と輪の間。


 火種石から伸びる維持式の継ぎ目。


 熱と魔力が噛み合っている、細い留め金。


 そこへ、水糸が静かに潜り込んだ。


 じゅ、と小さな音がする。


 火は消えない。


 けれど、火鎖の輪が一つだけ、わずかに浮いた。


『接続部、解除可能』


(そこ?)


『はい。留め金を外します』


 エルネは指先を動かした。


 引きちぎるのではない。


 壊すのでもない。


 絡まった糸をほどくように、火鎖の根元へ魔力を通す。


 かちり、と。


 小さな音がした。


 火種石と火鎖をつないでいた最初の輪が、外れた。


 次の瞬間、緋鎖火レッドチェインは勢いを失った。


 赤い輪が一つ、また一つと薄れていく。


 火鎖は爆ぜなかった。


 燃え尽きたのでもない。


 鎖でいる理由を失い、静かにほどけて消えていった。


緋鎖火レッドチェインが……消えた?」


 レオルの声は、かすれていた。


 エルネは黒い本を抱え直す。


「消したんじゃないわ」


 火鎖の残り火が、細い煙になって消えていく。


「留め金を外しただけ」


 レオルの顔が歪んだ。


 恐怖ではない。


 屈辱だ。


 昼に火球を消され、放課後には家の術式までほどかれた。


「ふざけるな……」


 レオルは割れかけた声で呟いた。


「魔力を寄こせ!」


 取り巻き二人が顔を見合わせる。


「え、でも」


「早くしろ!」


 レオルが叫ぶ。


 取り巻きたちは慌てて火種石へ手をかざした。


 赤い石の光が、どろりと濃くなる。


 緋鎖火レッドチェインが、再び形を取った。


 ただし、さっきとは違う。


 一重だった火の鎖が、二重に絡む。


 輪と輪の間に、さらに細い火の縄が巻きつく。


 火鎖は太く、熱く、重くなった。


『警告。火鎖の構造が変化しました』


(強くなったってこと?)


『はい。三人分の魔力で接続部が補強されています』


(同じやり方でほどける?)


『訂正します。あれは今のやり方では解除できませんね』


(さらっと絶望を告げないで!)


 強化された緋鎖火レッドチェインが、エルネを囲む。


 赤い輪が二重に絡み、火の縄がその隙間を埋める。


 熱が、近い。


 逃げ道が、細くなる。


 黒い本を抱く腕に、力が入った。


 レオルが、荒い息で笑う。


「どうした、ほどき屋」


 火の輪が、エルネの前で赤く脈打つ。


「今度は、ほどけないだろ?」


 ロゴスの声は、いつも通り淡々としていた。


『現状の手段では、解除困難です』


 熱風が、エルネの前髪を揺らした。


 火鎖が、閉じる。

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