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第十一話

 少し離れた渡り廊下で、リシア・アルヴェルトは足を止めた。


 旧実技場裏から、強い火属性反応がある。


 授業時間でも、実技試験でもない。


 しかも、一人分ではなかった。


 リシアは眉をひそめた。


 ひとつの核へ、複数の魔力が流れ込んでいる。


 火の魔力が、危険な形で重なっていた。


「グラント教官」


 近くを通りかかった実技担当教官へ、リシアは即座に声をかけた。


「旧実技場裏です。無許可の火属性術式。複数人分の魔力反応があります」


 グラント教官の目が細くなる。


「案内しろ」


     ◇


 火鎖が、閉じる。


 赤い輪が二重に絡み、火の縄がその隙間を埋めている。


 熱が近い。


 息を吸うだけで、喉の奥が乾いた。


 エルネは黒い本を抱きしめたまま、目の前の緋鎖火レッドチェインを見た。


 さっきの火鎖とは違う。


 一つ一つの輪が太い。


 輪と輪の継ぎ目も硬い。


 火種石へ、レオルだけでなく取り巻き二人の魔力まで流れ込んでいる。


 火鎖は、もう一本の鎖ではない。


 絡み合った、火の檻だ。


「どうした、ほどき屋」


 レオルが荒い息で笑った。


「今度は、ほどけないだろ?」


『現状の手段では、解除困難です』


(だから、さらっと絶望を告げないで!)


『事実です』


(他の方法は?)


『提案します』


 黒い本から伸びていた青白い水糸が、ぴん、と震えた。


 一本だった糸が、二本に。


 二本が、十本に。


 十本が、さらに細く裂けていく。


 まるで、空気そのものにひびが入ったように。


『火鎖の輪ではなく、魔力の合流点を狙います』


(合流点?)


『三人分の魔力が火種石へ流れ込む場所です。そこを乱せば、鎖全体の維持が崩れます』


(水で?)


『はい。ただし、先ほどより多くの水分が必要です』


(どこから集めるの?)


『周囲一帯からです』


(さっきみたいに集めるの?)


『はい。ただし、範囲を広げます』


 ロゴスの声と同時に、青白い水糸がさらに震えた。


 水糸はエルネの足元だけではなく、旧実技場裏の空気全体へ広がった。


 石畳。壁。積まれた標的板。割れた訓練用の石材。


 そして、火鎖に熱せられた空気。


 そこに散っていた小さな魔力が、青白い糸に触れて、ふっと浮かび上がる。


 最初は、薄い霧のようだった。


 けれど霧はすぐに水をまとい、無数の雫へ変わっていく。


 魔力をまとった雫が、炎に照らされて青白く輝いた。


 霧は、星へ育つ。


 星は、糸で結ばれる。


 強い魔力をまとった雫ほど明るく光り、エルネの周囲に小さな夜空を描いていく。


 それは雨ではなかった。


 ただの霧でもなかった。


 夕暮れの空気の中に、もう一つの星座が生まれていた。


 青白い雫の星座。


 その中心に、黒い本を抱えたエルネが立っていた。


『水分収束干渉。仮称、霧星糸ミスト・ステラ


(待って。また名前つけたの?)


『識別名です』


(霧で、星で、糸……ちょっと綺麗なのが腹立つ)


 強化された緋鎖火レッドチェインが迫る。


 赤い輪が二重に絡み、火の縄がその隙間を埋める。


 その中心。


 三人分の魔力が火種石へ注ぎ込まれる一点に、青白い星座が向きを変えた。


『今です』


「…霧星糸ミスト・ステラ!」


 エルネが魔力を流した。


 雫の星座が、一斉に落ちる。


 星と星を結ぶ水糸が、火鎖の内側へ伸びた。


 青白い雫が、線に沿って吸い込まれていく。


 最初の雫が、火の輪の奥で蒸気になる。


 続く雫が、さらに奥へ入る。


 雫は火を消さなかった。


 火の中で白い花を咲かせ、熱と魔力の結び目を内側から押し開いていく。


 緋色の火鎖に、青白い亀裂が走った。


 無数の亀裂が、赤い鎖を星座の線のように結んでいく。


 そして。


 ぱんっ。


 火鎖が、内側から花開いた。


 赤い火輪が弾ける。


 白い蒸気が花びらのように広がる。


 青白い水糸が、そのすべてを上へ引き上げる。


 ぱん、ぱん、ぱん、ぱんっ。


 連続した破裂音が、旧実技場裏に響いた。


 絡み合っていた火の縄がほどけ、二重の鎖がばらばらの火花になって舞い上がる。


 それは爆発ではなかった。


 火を押し潰したのでもない。


 無数の露が、火の鎖の内側で一斉に弾け、鎖であり続けるための結び目をほどいたのだ。


 緋鎖火レッドチェインは、赤い火花と白い蒸気と青い水糸に分かれ、夕暮れの空へ大きな花火のようにほどけていった。


 最後の火の輪がほどけた瞬間、レオルの手の中で火種石が悲鳴のような音を立てた。


 ぱきん。


 赤い光が消える。


 火種石は、黒い亀裂を走らせて割れていた。


 もう二度と火を宿すことはない。


「そんな……」


 レオルの声が、かすれた。


「バルガン家の火種石が……」


 取り巻き二人も、手をかざした姿勢のまま固まっていた。


 エルネは肩で息をした。


 指先が震えている。


 膝も少し笑っていた。


 でも、火はもうない。


 それだけで、胸の奥の息が少しだけ抜けた。


 その時、通路の入口に足音が響いた。


 駆けつけたリシアは、その光景の前で足を止めた。


 青く透き通った長い髪が、残った熱風に揺れる。


 赤い火花。


 白い蒸気。


 その間を縫う、青白い水糸。


 そして、炎に照らされて輝く無数の雫。


「これは……何?」


 リシアの声が、かすかに揺れた。


 水壁でも、水刃でも、治癒でもない。


 水を大きくまとめているわけですらない。


 散っている水の気配を一粒ずつ拾い、魔力で光らせ、糸で結び、必要な場所へ通している。


 その精密さは、水属性の術者だからこそ分かった。


 まさか。


 同い年でここまで、水を扱える者が。


 そこまで考えて、リシアはすぐに首を振った。


「……違う」


 今のは、水属性術式ではない。


 水の紋章もない。


 水属性の詠唱もない。


 だが、間違いなく水の動きだった。


「今のは、水属性ではありません」


 リシアの声が、静かに落ちる。


 だが、その静けさの奥に、ほんのわずかな動揺が混じっていた。


「でも、紛れもない水の魔法でした」


 エルネは、まだ少し震えている指先を見た。


 昼には火球をほどいた。


 放課後には、緋鎖火レッドチェインをほどいた。


 さらに、強化された火鎖まで空へほどいた。


 もしかして。


「私、もしかして無敵?」


『否定します』


(早い!)


『魔法の構築は、対象の魔力が大きく、術式が強固であるほど崩しにくくなります』


(つまり?)


『相手が未熟だから勝てました』


(もう少し言い方!)


『あなたも未熟です』


(私まで!?)


『未熟者同士の戦闘において、あなたの精密干渉が有効だった、という評価です』


(勝った気分を返して)


『過信防止を優先しました』


「そこまでだ」


 低い声が響いた。


 グラント教官が、レオルと取り巻きたちを見据えていた。


「放課後の無許可術式使用。複数人での威圧行為。登録外魔道具の持ち込み。取り巻き二名による術式補助」


 レオルの顔が青ざめる。


「ち、違います。これは、その、フィルさんが危険な術式を――」


「言い訳はあとで聞く」


 グラント教官の短い一言で、レオルの口が閉じた。


「レオル・バルガン」


 グラント教官の声は、いつもよりさらに低かった。


「今度は、言い訳では済まん」


 黒く割れた火種石が、石畳の上で小さく音を立てた。


 エルネは、ようやく黒い本を抱く腕の力を緩めた。


 リシアが一歩近づく。


「エルネさん……今の術式を、あなたは理解して使いましたか」


 いつもの静けさの中に、確かな緊張がある。


 エルネは少し考えて、首を横に振った。


「全部は、分かってない」


「そうですか」


 リシアは、まだ空中に残っていた青白い雫を見る。


 それらは糸から離れると、ただの水粒に戻り、夕暮れの光の中で消えていった。


「けれど、分からないまま使っているだけではない」


「え?」


「私の術式の流れを、見ていたのですね」


 エルネは黒い本を抱え直す。


「えーと……そうね、参考に……」


「同じ使い方ではありません」


 リシアは静かに言った。


「だから、気になります」


 その言葉は、警戒にも聞こえた。


 興味にも聞こえた。


 そして、ほんの少しだけ悔しそうにも聞こえた。


『対象リシア・アルヴェルトの関心上昇を確認』


(言わなくていい)


『警戒、興味、競争心が混在しています』


(細かい分析をしないで)


『重要な人間関係です』


 エルネは返事に困った。


 グラント教官が、レオルたちを連れていく。


 旧実技場裏には、まだ少しだけ熱と水の匂いが残っていた。


 エルネ・フィルは、まだ火球を出せない。


 けれどその日、学院の何人かは理解した。


 この少女はもう、ただの不発娘ではない。


 火を出す者ではなく、火を黙らせる者なのだ。


 そして、黒い本の奥で、ロゴスは記録を保存した。


 火属性術式への干渉。


 水属性術式に類似した水分操作。


 既存属性体系との照合、失敗。


 仮分類、現象干渉。


 万象解体書との接続安定度、()()


 私は、その記録をエルネに表示しなかった。

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