第十二話
記録室の机の上に、黒く割れた火種石が置かれていた。
赤い光はもうない。
さっきまで、エルネを囲む火の檻の核だったものだ。
緋鎖火。
レオル・バルガンが持ち出した、バルガン家の火種石。
それが今は、ただの黒い石片になっている。
「レオル・バルガン、および同行二名については、放課後の無許可術式使用、登録外魔道具の持ち込み、複数人での威圧行為として記録する」
グラント教官の声は低かった。
レオルは何か言いかけたが、その目がグラント教官の顔を見て、すぐに口を閉じた。
「詳細な聞き取りは別室で行う。今は出ろ」
「ですが、教官」
「出ろ」
短い一言だった。
レオルと取り巻き二人は、青ざめた顔で記録室を出ていった。
扉が閉まる。
部屋に残ったのは、グラント教官、リシア、セラム教師、そしてエルネだった。
エルネは黒い本を抱えたまま、椅子に座っている。
正面にはグラント教官。
少し横には、銀縁眼鏡の術式理論教師、セラム・ノーティス。
セラム教師は、さっきから黒い本を見ている。
見るというより、観察している。
かなり怖い。
『観測者セラム・ノーティス。視線集中率、高』
(分かってる)
『好奇心過剰です』
(それも分かってる)
「さて」
グラント教官が言った。
「レオルたちの処理は学院側で行う。エルネ、お前の話は別だ」
「はい」
「まず、その本だ」
来た。
エルネは黒い本を抱く腕に力を込める。
「現時点では、魔導書型補助魔法具として暫定扱いしている」
「はい」
「だが、通常の補助魔法具として扱うには、事例が少なすぎる」
「まあ、少ないでしょうね」
セラム教師が、嬉しそうに眼鏡を押し上げた。
「使用者固定型。自律応答らしき挙動。術式補助。火術式再構築。水属性術式ではない水分干渉。珍しいという言葉では足りません。正直、解剖したい」
「しないでください!」
エルネは思わず叫んだ。
『同意します。分解は非推奨です』
(先生も拒否してるから!)
「冗談です」
セラム教師は真顔で言った。
「半分ほど」
「半分も本気じゃないですか!」
「セラム先生」
グラント教官が低く言う。
「生徒の前で危険物を分解したがるな」
「危険物と認定するには早いです。むしろ、極めて高度な補助具である可能性があります」
セラム教師は、黒い本ではなく、今度はエルネを見た。
「エルネさん。その本は、あなたに何を見せていますか」
「何を、ですか」
「火術式再試験の時、あなたの前に巨大な多層魔法陣が展開されました。既製火球術式ではありません。今日の霧星糸ですか? 水属性の紋章ではないと聞きました。では、その本は何を補助しているのですか」
言われて、エルネは困った。
ロゴに聞けば答えは返ってくる。
でも、それをそのまま言えば、たぶん余計に怪しまれる。
(先生。どう説明すればいい?)
『回答案を提示します。目的に対し、既製術式を使用せず、使用者の魔力精度に適合する補助線を提示している、と説明してください』
(長い)
『短縮します。目的に合わせて、私が線を引いています』
(それ、完全に先生が喋ってる感じになる)
『あなたの言葉に変換してください』
「えっと……」
エルネは黒い本の表紙を撫でる。
「この本は、火球を出しなさい、とは言いません」
セラム教師の目が細くなる。
「ほう」
「たとえば、的に火で有効打を与えるのが目的なら、火球じゃなくてもいい。火を飛ばすんじゃなくて、的の中に火が生まれる条件を置く。そういう線を、見せてくれます」
「条件を置く」
「はい」
「水分干渉も同じですか」
リシアが静かに口を開いた。
エルネは頷く。
「一度目の火鎖は、留め金みたいなところを外しました。火種石と火鎖をつないでいる部分です。でも二度目は、三人分の魔力が絡まっていて、一つ外してもほどけませんでした」
「だから、一点ではなく、火鎖全体の結び目へ干渉したのですね」
「たぶん、そうです。火種石に集まる魔力の流れが何本も絡まって見えて……そこへ、周りの水分を通しました」
「火を消すためではなく、火鎖が鎖でいるためのつながりを緩めるために」
「……はい」
リシアは小さく頷いた。
「水なのに、水属性の魔法には見えませんでした」
セラム教師は紙束を机に置き、ものすごい勢いで何かを書き始めた。
「属性を直接発動しているのではなく、属性現象の成立条件へ干渉している……? いや、仮説です。まだ仮説ですが、これは非常にまずい。非常に面白い」
「まずいと面白いを並べないでください」
「研究対象としては褒め言葉です」
「私は研究対象じゃないです」
「今のところは」
「今のところも嫌です」
グラント教官が軽く咳払いをした。
「セラム先生。結論は」
「通常の補助魔法具ではありません」
セラム教師は即答した。
エルネの背中が冷える。
「ただし、禁書と断定する材料も不足しています。現時点で分かるのは、この本がエルネさんの魔力精度に合わせ、既製術式外の補助線を提示しているということです」
「危険性は」
「高いです」
やっぱり。
エルネは黒い本を抱える腕に力を込めた。
「ですが、危険だから即没収、というのは短絡的です。下手に使用者から切り離した場合、挙動が読めません」
『妥当です』
(先生、ほっとしてる?)
『否定します。安定管理の観点から妥当と評価しています』
(ほっとしてるでいいじゃない)
グラント教官は腕を組んだ。
「補助魔法具管理課へ照会をかける。必要なら禁書庫の記録も確認する」
「禁書庫……」
その言葉だけで、エルネの胸が冷たくなった。
黒い本を開いた時、ロゴは確かに言った。
あなたは禁書を起動しました、と。
『警告。禁書という分類が再浮上しています』
(言わなくても分かってる)
「断定ではない」
グラント教官が言った。
「まずは照会だ。現時点で、お前から無理に取り上げるつもりはない」
「本当ですか」
「今取り上げて、また何か起きても困る」
「理由が現実的ですね」
「現実的で悪いか」
「いえ。助かります」
エルネは素直に頭を下げた。
それだけは本当に助かった。
セラム教師が、黒い本を見つめたまま言う。
「ただ、明日以降、いくつか検査をさせてください」
「何の検査ですか」
「基本的な反応確認です。誰が触ると反応するのか。どの程度の魔力で補助線が出るのか。既製術式板と併用した時に、術式を補助するのか、上書きするのか、あるいは解体するのか」
「最後の言い方が嫌です」
「私も嫌です。だから確認します」
セラム教師の声が、少しだけ真面目になった。
「エルネさん。あなたの術式は、今の学院の分類では説明しにくい。説明しにくいものは、怖がられます。禁止したがる者も出ます」
エルネは何も言えなかった。
それは、もう感じている。
廊下の視線。
レオルの叫び。
危険だという言葉。
「でも、分からないから禁止する、で終わらせるのは術式理論教師として敗北です」
「敗北なんですか」
「敗北です」
そこは力強かった。
「ですから、調べます。あなたが何をしているのか。その本が何をしているのか。危険性も、可能性も、両方です」
エルネは黒い本を見る。
ロゴは何も言わない。
珍しく、黙っていた。
「……分かりました」
エルネは小さく頷いた。
「でも、分解は嫌です」
「半分だけ」
「全部嫌です」
「努力します」
「絶対努力しない顔です」
セラム教師は少しだけ笑った。
◇
記録室を出るころには、学院の廊下に夕闇が落ちていた。
遠くから、生徒たちの声が聞こえる。
「旧実技場裏で火鎖が爆発したって」
「爆発じゃなくて花火みたいにほどけたらしい」
「エルネ・フィルが水属性まで使ったとか」
「違うって。水属性じゃないのに水を星にしたんだって」
「もっと意味分かんないだろ」
ものすごく広まっている。
しかも、もう育っている。
エルネは黒い本を抱きしめた。
(先生。帰りたい)
『本日四回目の帰宅要求を確認』
(数えないで)
『帰宅の実現可能性は高いです』
(じゃあ帰る)
「エルネさん」
隣を歩いていたリシアが声をかけた。
「明日以降の検査ですが、可能なら私も同席を申請します」
「え、どうして?」
「あなたの術式を、私は一度止めました。そして今日、止めきれない術式も見ました」
リシアは真っ直ぐ前を見ていた。
「参考意見を求められる可能性があります」
「真面目」
「それに」
リシアは少しだけ視線を逸らした。
「私も、知りたいので」
「何を?」
「あなたが使ったものが、本当に何なのか」
そう言ってから、リシアは少しだけ迷うように間を置いた。
「それと、もう一人」
「もう一人?」
「あなたの術式を見たがっている人がいます」
エルネは黒い本を抱え直した。
「……誰?」
「今は、私からは言えません。ただ、悪意のある人ではありません」
「そう言われると、逆に怖いんだけど」
「怖がらせるつもりはありません。ですが、あなたの術式はもう、私たち一年生だけの話ではなくなっています」
「一年生だけの話じゃない……」
リシアは小さく頷いた。
「その人は、上級生です」
それだけ言って、リシアは先に廊下を曲がっていった。
エルネはその背中を見送る。
心強い。
気もする。
怖い。
気もする。
(先生)
『はい』
(私、明日から何人に見られるの?)
『現時点では不明です』
(不明って、一番嫌なやつ)
『同意します』
黒い本は、珍しく否定しなかった。
◇
その夜。
エルネが寮の部屋で眠ったあとも、黒い本の奥では、ロゴスが静かに記録を整理していた。
火属性術式への干渉。
水属性術式に類似した水分操作。
既存属性体系との照合、失敗。
仮分類、現象干渉。
そして、もう一つ。
黒い本の深層で、ロゴス自身が発したものではない反応があった。
細い線。
絡まり、ほどけ、結び直される黒い線。
意味は不明。
だが、最後に一つだけ、識別不能な情報片が残っていた。
――第一層。
ロゴスはその記録を、エルネには表示しなかった。
理由は単純だった。
未確定情報による使用者の不安増大は、現時点で有益ではない。
ただし。
黒い本の奥に、ロゴスの知らない何かがある。
その事実だけは、もう無視できなかった。




