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第十三話

 翌日の検査室は、朝から妙に人が多かった。


 白い術式円が床に刻まれた小部屋。


 壁には魔力遮断の符。


 机の上には、検査用の術式板、魔石片、補助魔法具の反応測定器。


 そして、その中央に、エルネ・フィルが黒い本を抱えて座っている。


 完全に、見られる側だった。


(先生。帰りたい)


『本日一回目の帰宅要求を確認しました』


(数えなくていい)


『昨日より開始が早いです』


(そこも記録しなくていい)


 正面にはグラント教官。


 横には術式理論担当のセラム・ノーティス教師。


 少し離れた場所に、リシア・アルヴェルトが立っていた。


「リシアさん、本当に来たんだ」


「申請が通りました」


「通るんだ」


「参考意見を求められましたので」


 リシアはいつも通り静かだった。


 だが、その視線は黒い本へ向いている。


 昨日の霧星糸ミスト・ステラを見た目だ。


 警戒している。


 そして、知りたがっている。


「では始めましょう」


 セラム教師が嬉しそうに言った。


 嬉しそうに言ってはいけない場面だと思う。


「第一検査。非使用者接触反応」


「つまり?」


「私が触ります」


「分解しませんよね?」


「触るだけです」


「半分だけとか言いませんよね?」


「努力します」


「言った!」


 グラント教官がセラム教師を睨む。


「セラム先生」


「冗談です。本当に触るだけです」


 セラム教師は、黒い本の表紙に指先を伸ばした。


 エルネは思わず息を止める。


 だが、何も起きなかった。


 黒い本は黙っている。


 ページも開かない。


 文字も浮かばない。


 ただの黒い本のふりをしている。


(演技上手いわね)


『隠蔽行動中です』


(言っちゃった)


「反応なし」


 セラム教師は素早く記録した。


「次。使用者接触時」


「はい」


 エルネは表紙に指を置いた。


 黒い本の縁が、淡く光る。


 青白い線が一筋、ページの端に浮かんだ。


 セラム教師の目が輝いた。


「出ましたね」


「出ました」


「では、その状態で検査用術式板に魔力を流してください」


「壊れませんか」


「壊れたら記録します」


「壊さない方向でお願いします!」


『低出力を推奨します』


(分かってる)


 エルネは机の上の小さな術式板に手を置いた。


 学院で使う基礎術式板だ。


 火、水、風、土の反応を見るためのもの。


 今は、火の紋章だけが薄く刻まれている。


 普通なら魔力を流せば、小さな火花が出る。


 だが、エルネが魔力を流した瞬間、火の紋章の線がふるりと震えた。


 そして、端から静かにほどけた。


「あっ」


「ほどけましたね」


 セラム教師が嬉しそうに言った。


「嬉しそうに言わないでください」


「すみません。興奮しています」


「もっと駄目です」


 グラント教官が眉を寄せる。


「やはり既製術式そのものには適合しないか」


「いえ、適合しないというより、既製術式には通常の生徒が扱いやすいよう、ある程度の遊びがあります。エルネさんの魔力は、その遊びの部分まで細かく拾いすぎている」


 セラム教師は紙へ線を描き始めた。


「通常の生徒は、術式が許容する幅の中で魔力を流します。多少のぶれは術式板側が吸収する。しかしエルネさんの魔力は細すぎる。隙間に入って、留めていた部分まで外してしまう」


「つまり?」


「術式板からすると、異常に器用な指で縫い目をほどかれているようなものです」


「……褒めてるんですか?」


「かなり」


 エルネは複雑な気分になった。


『私の初期分析と一致します』


(先生、ちょっと得意そう)


『否定します』


 その時、検査室の扉が軽く叩かれた。


「失礼するよ」


 穏やかな声だった。


 リシアが、わずかに姿勢を正す。


「シオン先輩」


 扉の前に立っていたのは、学院指定の黒外套を隙なく着た上級生だった。


 背が高く、細身。


 淡い栗色の髪は、風に撫でられたように自然に流れている。


 細い銀縁眼鏡の奥には、灰緑の瞳。


 口元には穏やかな笑みがある。


 けれど、その目だけは少しも笑っていなかった。


 風の流れを読む鳥のように、静かで鋭い。


 胸元には、生徒会のものらしい銀章が光っていた。


「リシアさん。昨日、君が話してくれた一年生は、彼女で合っているかな」


「はい。エルネ・フィルさんです」


「君がわざわざ僕に見てほしいと言うくらいだ。よほどの術式なんだろうね」


 シオンはエルネへ視線を向けた。


「初めまして。生徒会副会長、シオン・レイヴァンだ」


「エルネ・フィルです」


 エルネは黒い本を抱え直した。


 優しそう。


 たぶん、実際に優しい。


 でも、絶対にごまかせない人だ。


『警戒度を上方修正します』


(先生、私も今した)


「シオン先輩は、生徒会の副会長をされています」


 リシアが短く説明した。


「リシアさんを生徒会に誘っている最中でもあるよ」


 シオンが、困ったように笑った。


「まだ返事はもらえていないけれどね」


「保留です」


「そうだった。保留だった」


 シオンはセラム教師を見る。


「見学の許可は?」


「私は歓迎します」


「俺は歓迎していない」


 グラント教官が言った。


「ですが、生徒会副会長として危険術式の噂を確認する必要はあります。見学だけなら認めます」


「ありがとうございます」


 シオンは一礼し、壁際に立った。


 足音が薄い。


 室内に風もないのに、外套の裾だけがわずかに揺れている。


 それだけなのに、エルネはなぜか、部屋の空気まで見られているような気がした。


「続けましょう」


 セラム教師は検査用の術式板を替えた。


「次は補助線の発生確認です。エルネさん、目的を設定してください」


「目的?」


「火球を出す、ではなく。あなたとその本は、目的に応じて線を引くのでしょう?」


「そう、ですけど」


「では、この小さな紙片に、焦げ目だけをつけてください。燃やし切らず、焦がすだけ」


(先生、できる?)


『可能です。紙片表面の一点に、低温の焦げ条件を設定します』


(低温の焦げ条件って何)


『焦がしすぎない火です』


(最初からそう言って)


 エルネは指先を伸ばした。


 黒い本から、細い青白い線が空中へ伸びる。


 火球の時のような巨大な絡繰り魔法陣ではない。


 小さな補助陣が、紙片の上に一つだけ浮かぶ。


 かちり。


 音がしたような気がした。


 紙片の端に、針で突いたほどの焦げ目がつく。


 それだけだった。


 セラム教師が息を呑む。


 リシアの瞳がわずかに動く。


 シオンは笑みを浮かべたまま、目だけを細めた。


「なるほど」


 シオンが言った。


「魔力が飛んでいない」


「え?」


「少なくとも、普通の火術式のようには飛んでいない。発生させる場所だけを決めているように見える」


 セラム教師が勢いよく頷いた。


「その通りです! 火を運んでいない。火が成立する条件を対象側に置いている。先日の火術式再試験で見せた、あの青白い点火術式の極小版と見ていいでしょう」


「あの、名前をつけないでくださいね」


「まだつけていません」


『既に識別名は存在します』


(黙って)


 シオンは小さく笑った。


「リシアさんが気にするわけだ」


「危険だと思います」


「うん。危険だ」


 あっさり言われた。


 エルネの肩が少し固くなる。


 シオンはそれに気づいたように、声を柔らかくした。


「けれど、危険だからすぐ禁止、という話でもない。制御できるかを見るべきだ」


「制御……」


「検査室では分かりにくい。術式は、実際に相手が動き、障壁を張り、攻撃を返す場で性質が変わる」


 シオンはグラント教官を見た。


幻傷演武場ミラージュ・アリーナを使うべきだと思います」


 その言葉に、エルネは瞬いた。


「ミラージュ……?」


「学院の模擬戦用施設だ」


 グラント教官が言った。


「正式には、幻傷結界ミラージュ・フィールドを備えた演武場。攻撃を実際の傷ではなく、幻傷として記録する。痛みや衝撃はあるが、切断や火傷は残らない」


「……つまり、痛いけど怪我しない訓練場?」


「雑に言えばそうだ」


『高度な損傷変換結界と推定します』


(先生、興味あるでしょ)


『非常に』


(隠さない)


 シオンは穏やかに続けた。


「君の術式が、障壁や鎧、動く相手に対してどう働くのか。結界内なら確かめやすい」


「模擬戦、ですか」


「そうなるね」


 エルネは黒い本を抱えた。


 皆の前で戦う。


 また見られる。


 また、何かを試される。


 怖い。


 でも。


 少しだけ、試してみたいと思ってしまった。


 自分が使ったものが、本当に何なのか。


 それを、知りたい。


『使用者の好奇心上昇を確認』


(言わないで)


『同時に不安も上昇しています』


(それも言わないで)


 グラント教官はしばらく黙っていた。


 それから、深く息を吐く。


「許可はすぐには出せん。幻傷演武場の使用には申請がいる。結界管理担当、医療教師、生徒会の立ち会いも必要だ」


「申請は僕が通します」


 シオンが言った。


「生徒会としても、危険術式の噂を放置するより、管理下で確認した方がいい」


「面倒な話にしてくれる」


「もう面倒な話ですよ、教官」


 シオンは笑ったまま言った。


 グラント教官は否定しなかった。


「エルネ」


「はい」


「やるかどうかは、お前にも確認する。無理にとは言わん」


 意外だった。


 命令されると思っていた。


 エルネは黒い本を見る。


 ロゴは黙っている。


 珍しく、答えを急がせなかった。


「……やります」


 エルネは言った。


 声は少し震えた。


 でも、出た。


「私も、自分が何をしているのか、知りたいので」


 リシアが静かにエルネを見た。


 セラム教師が記録を始めた。


 シオンは、穏やかに笑った。


 ただ、その灰緑の瞳だけは、やはり少しも笑っていなかった。


     ◇


 その夜。


 黒い本の奥で、ロゴスは記録を更新していた。


 補助魔法具検査。


 使用者固定反応。


 既製術式板への適合失敗。


 目的指定型補助線の発生。


 観測者、セラム・ノーティス。


 観測者、リシア・アルヴェルト。


 新規観測者、シオン・レイヴァン。


 生徒会副会長。


 周辺気流の微細変化を確認。


 属性、未確定。


 警戒対象。


 そして、深層に残った反応。


 ――第一層。


 ロゴスはその情報を、まだエルネには表示しなかった。


 未確定情報による不安増大は、有益ではない。


 ただし、次の検証では、これまでより危険な条件がそろう。


 幻傷演武場。


 大型結界。


 模擬戦。


 攻撃と防御。


 術式と術式の衝突。


 エルネの現象干渉が、結界の安全判定式に触れる可能性。


 ロゴスは、静かに演算を続けた。


 そして、ひとつの結論を仮保存する。


 エルネ・フィルの力は、強くなっている。


 同時に。


 黒い本の奥の何かも、目を覚ましつつある。

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