第十四話
幻傷演武場は、学院の北棟地下にあった。
階段を下りるにつれ、空気が少しずつ冷たくなる。
壁には古い魔法灯。
床には、幾何学模様のような術式線。
そして、重い扉の前には、結界管理担当の教師と、医療教師ミリアが待っていた。
「本当に使うんですね」
ミリア教師が、少し困った顔で言った。
「一年生の補助魔法具検証で、幻傷演武場を開けるとは思いませんでした」
「俺も思っていない」
グラント教官が言う。
「言い出したのは生徒会だ」
「責任は取ります」
シオン・レイヴァンは、いつもの穏やかな顔でそう答えた。
その隣にはリシアもいる。
さらにセラム教師は、紙束と筆記具を抱えて、ものすごく楽しそうだった。
楽しそうすぎて不安になる。
エルネは黒い本を抱え直した。
(先生。帰りたい)
『本日二回目の帰宅要求を確認しました』
(一回目はいつ?)
『寮の廊下です』
(細かい)
『記録精度は重要です』
重い扉が開いた。
中は、広い円形の演武場だった。
天井は高く、壁には結界柱が等間隔に並んでいる。
床には大きな魔法陣。
白い線、赤い線、青い線、緑の線。
それらが重なり合い、まるで巨大な織物のように床全体を覆っていた。
中央には、訓練用の人形が一体立っている。
木と金属で作られた、簡易鎧つきの人形だ。
「今日の検証は、対人ではなく訓練人形で行う」
グラント教官が言った。
「動く標的に対して、どこまで術式を維持できるかを見る。攻撃は低出力。幻傷判定も最小にする」
「はい」
エルネは頷いた。
声が少し硬い。
シオンが軽く手を上げる。
「補足するよ。ここでは攻撃を受けても、本物の傷にはならない。結界が損傷を幻傷として記録するからね」
「痛くはあるんですよね」
「ある。ただし、現実の負傷と同じ痛みではないよ。結界が危険域に入る前に痛覚を抑えて、幻傷印として記録する」
「つまり、痛いけど手加減される?」
「雑に言えばそうだね」
『痛覚制限付き損傷変換結界と推定します』
(先生、ちょっと嬉しそうね)
『非常に興味深いです』
(やっぱり)
結界管理教師が制御盤に手を置いた。
床の魔法陣が淡く光る。
空気が変わった。
薄い膜の内側に入ったような感覚。
肌に、細かな魔力の粒が触れる。
『大型結界の起動を確認。損傷変換式、熱量判定式、衝撃分散式を検出』
(分かるの?)
『一部のみです。複雑です』
(先生が複雑って言うと怖い)
訓練人形の目に当たる部分が光った。
かくん、と首が動く。
次いで、足が一歩前へ出た。
思ったより速い。
「では、検証開始」
グラント教官が言った。
「エルネ・フィル。火術式、低出力で標的の右肩を狙え」
「右肩……」
エルネは黒い本を片腕に抱え、もう片方の手を前へ出した。
右肩を見る。
木材。
薄い金属板。
鎧を留める金具。
動く標的。
(先生、動く標的に蒼炎針って)
『不向きです。元々、固定標的を燃焼させる手順でしたので』
(やっぱりね。どうすればいい?)
『改善案を提案します』
(難しい?)
『…………』
(先生!?)
『できます』
(ほんと?)
『今のあなたなら』
その言葉に、エルネは一瞬だけ息を止めた。
今のあなたなら。
ロゴは、あまり気休めを言わない。
だからこそ、その一言は妙に重かった。
『工程を分割します。条件を一度に完成させるのではなく、戦闘中に一つずつ設定してください』
(戦いながら?)
『はい。条件を小魔法陣として保持し、最後に接続します』
(絡繰りの部品を先に作る感じ?)
『近似しています』
訓練人形が動く。
右肩の位置がずれる。
『条件一。対象材質、木材および薄金属』
エルネの前に、小さな青白い魔法陣が一つ浮かんだ。
巨大な絡繰り魔法陣ではない。
その部品。
小さな輪。
歯車の一つ。
訓練人形が踏み込む。
『条件二。肩当ての留め具、位置推定』
二つ目の輪が浮かぶ。
模擬剣が振られた。
「わっ!」
エルネは横へ跳ぶ。
剣先が肩をかすめる。
服は切れていない。
代わりに、肩口に淡い赤い印が一瞬だけ浮かび、すぐ消えた。
痛みはある。
けれど、思っていたほどではない。
指で弾かれたような鋭い痛みが走り、すぐに薄れていく。
『幻傷判定を確認。軽微』
(痛いものは痛い!)
『軽微です』
(軽微でも痛い!)
『条件三。幻傷結界の損傷判定範囲、推定』
三つ目の輪が浮かぶ。
エルネは後退しながら人形を見る。
右肩。
留め具。
動きの癖。
踏み込む時、肩当てがわずかに浮く。
そこ。
『条件四。肩当て内側の熱滞留点』
四つ目。
訓練人形の腕が上がる。
また来る。
今度は逃げるだけではなく、エルネは一歩だけ横へずれた。
模擬剣が空を切る。
右肩が、見えた。
『条件五。発火点候補、仮固定』
五つ目の小魔法陣が浮かぶ。
ばらばらの輪が、エルネの周囲を漂っている。
まだつながっていない。
まだ発動していない。
けれど、一つずつ、部品は増えていく。
シオンが、壁際で目を細めた。
「なるほど。撃つ前に、もう組んでいるのか」
リシアも静かに頷いた。
「以前、彼女の術式を発動前に止めてみました。しかし、この方法では無理かもしれません」
「どういう意味だ」
グラント教官が聞く。
「発火点をずらすだけでは足りません。今のエルネさんは、発火点だけを見ていません」
エルネには、その会話を聞く余裕はほとんどない。
訓練人形がさらに踏み込む。
今度は、腕ではなく足元を払ってきた。
「きゃっ」
エルネは跳び退く。
足首に淡い幻傷印が浮かんだ。
痛みが走る。
その瞬間、浮いていた小魔法陣の一つが揺れた。
『条件四、維持不安定』
(消えないで!)
『不要なら捨ててください』
(え?)
『今は条件四を破棄。条件五を優先します』
(捨てていいの?)
『全条件の保持は不可能です』
エルネは唇を噛む。
もったいない。
せっかく組んだ条件を捨てるのは、怖い。
でも、しがみつけば遅れる。
「……捨てる!」
四つ目の小魔法陣が消えた。
代わりに、五つ目の輪が強く光る。
『再接続。条件六。人形の踏み込み後、肩当て上部が露出』
六つ目が浮かぶ。
訓練人形がもう一度剣を振るう。
エルネは逃げた。
いや、逃げながら見た。
肩当て。
留め具。
剣を振り切った直後の、ほんの一瞬。
右肩の内側が開く。
『条件接続、可能』
(今?)
『今です』
ばらばらに浮いていた小魔法陣が、一斉に回り始めた。
輪が重なる。
歯車が噛む。
細い針のような線が、中心を指す。
巨大な絡繰り魔法陣ではない。
その縮小版。
戦いながら組み上げた、未完成で、小さくて、それでも確かに噛み合った魔法陣。
エルネは指先を伸ばした。
「蒼炎針」
青白い火点が、訓練人形の右肩の内側に灯った。
爆発ではない。
的を内側から吹き飛ばした時のような火でもない。
小さな針の先ほどの火。
その火が、肩当てを留めていた金具だけを赤くした。
ぱきん。
小さな音。
右肩の鎧板が外れ、床へ落ちた。
訓練人形の腕が、がくんと下がる。
結界の床に、青白い火の残り香だけが散った。
「止め」
グラント教官の声が響いた。
訓練人形が動きを止める。
床の光が少し弱まった。
エルネは息を吐いた。
発動した。
的を爆ぜさせた時より、ずっと小さい。
けれど、動く相手に届いた。
「……できた」
『成功です』
(先生)
『はい』
(今の、できたよね)
『はい。蒼炎針。条件分割運用、初回成功です』
セラム教師が、ものすごい速さで記録していた。
「固定標的用の点火術式を、条件分割により動的標的へ適用。保持不能な条件を破棄し、候補点を再接続。対象本体ではなく、鎧の留め具を焼き切る。素晴らしい。とてもまずい。非常に素晴らしい」
「まずいと素晴らしいを並べないでください」
「研究上は褒め言葉です」
「最近そればっかりです」
グラント教官は落ちた肩当てを見ていた。
「人形本体ではなく、鎧を狙ったか」
「はい。人形を壊すより、動きを止める方がいいと思って」
「判断としては悪くない」
悪くない。
グラント教官から出ると、それはかなりの褒め言葉だった。
エルネは黒い本を抱え直す。
胸の奥が熱い。
でも、浮かれすぎてはいけない。
さっきも何度か痛い目を見た。
まだ遅い。
まだ不安定。
でも、進んだ。
「もう一度だ」
グラント教官が言った。
「今度は胸部装甲の固定具を狙え。人形本体は焼くな」
「はい!」
訓練人形が再起動する。
右肩の鎧板を失ったまま、今度は左手で模擬剣を構えた。
エルネは息を整える。
条件を拾う。
捨てる。
つなぐ。
最後に、噛み合わせる。
『条件一。胸部装甲、薄金属』
一つ目。
『条件二。固定具、左右二箇所』
二つ目。
人形が踏み込む。
エルネは横へずれる。
さっきより、少しだけ体が動いた。
『条件三。踏み込み後、胸部正面が露出』
三つ目。
模擬剣が振られる。
エルネは大きく避けすぎない。
避けすぎると、見失う。
ぎりぎりでずれる。
胸部装甲の下、細い固定具が一瞬だけ見えた。
『条件接続、可能』
(早い!)
『学習しました』
(先生っぽい!)
『教師評価の上昇を確認』
(今は集中!)
小魔法陣が一斉に噛み合う。
青白い火点が、胸部装甲の内側に二つ灯った。
ぱきん。
ぱきん。
二つの固定具が弾ける。
胸部装甲が前へずれ落ち、訓練人形の腕部駆動線が露出した。
「続けろ!」
グラント教官の声。
エルネは息を詰める。
今度は焼かない。
止める。
『条件追加。腕部駆動線。熱に弱い接合部を確認』
(そこだけ)
『はい』
小さな青い火点が、腕部の接合部に灯る。
爆ぜない。
燃え広がらない。
ただ、一点だけを赤くして、力を抜く。
がくん。
訓練人形の左腕が下がった。
胸部の幻傷印が白く光る。
人形の目の光が消えた。
結界管理教師が制御盤を見て、短く告げる。
「戦闘不能判定です」
演武場が静かになった。
床には、外れた肩当てと胸部装甲。
腕を下げた訓練人形。
そして、黒い本を抱えたまま肩で息をするエルネ。
「……できた」
今度の声は、さっきより小さかった。
けれど、確かだった。
『蒼炎針。条件分割運用、連続成功』
(うん)
『対象本体への過剰損傷なし』
(うん)
『制御、改善しています』
エルネは、黒い本を抱える腕に力を込めた。
制御。
それが、今は一番嬉しかった。
「今日の検証はここまでだ」
グラント教官が言った。
「え、まだできます」
「できるから止める」
その言葉に、エルネは口を閉じた。
確かに、少し気持ちが前のめりになっていた。
できる。
もっとできる。
そう思い始めていた。
グラント教官は、それを止めたのだ。
シオンが、穏やかに笑う。
「次は、人形ではなく人を見るべきだね」
「人……?」
「もちろん、幻傷演武場の中で、だよ」
リシアが静かに視線を上げた。
「対人になるなら、私も見届けます」
セラム教師は、すでに次の紙を用意していた。
準備が早すぎる。
エルネは黒い本を抱える腕に力を込めた。
動く人形には、届いた。
では、考えて動く相手には。
火球を出せない落ちこぼれは、幻傷演武場の中央で、初めてそう考えた。
次は、人と戦う。




