第十五話
幻傷演武場の床には、訓練人形から外れた肩当てと胸部装甲が転がっていた。
エルネは黒い本を抱え、肩で息をする。
動く人形には、届いた。
蒼炎針は、固定された的だけを壊す魔法ではなくなった。
条件を拾う。捨てる。つなぐ。噛み合わせる。
それができれば、動く相手にも届く。
そう思った直後だった。
「では、次は僕が相手をしようか」
シオン・レイヴァンが、穏やかに言った。
「え」
エルネは固まった。
「副会長が、ですか?」
「うん。人形では確認できないこともあるからね」
シオンはいつも通り笑っている。
ただし、目だけは笑っていない。
『警戒度を上方修正します』
(先生、私も今した)
リシアも、わずかに表情を硬くしている。
グラント教官は腕を組んだ。
「シオン。お前が相手をするには、少し早い」
「そうですね。僕もそう思います」
「思うなら言うな」
「ですが、見たいものがあります」
その時、重い扉の外から、かすかな風が滑り込んだ。
風に、声が乗る。
「お待ちください、副会長!」
扉が開く。
そこに立っていたのは、エルネより少し年上に見える女子生徒だった。
肩口でふわりと跳ねる蜂蜜色の髪。
空色の瞳。
動きやすいよう短めに留めた黒外套。
左耳の上には、二股に分かれた銀の髪留め。
小さな音叉のような形をしていた。
可愛らしい顔立ちなのに、表情はやけに勝ち気だった。
「ミュゼ」
シオンが名前を呼ぶ。
「盗み聞きは褒められないね」
「も、申し訳ありません!」
ミュゼは背筋を伸ばした。
「生徒会の実技補佐まで増えたか」
グラント教官が、面倒そうに息を吐く。
「ですが、副会長が一年生の検証相手になる必要はありません!」
エルネは思わず黒い本を抱え直す。
(誰?)
『新規対象。ミュゼ。詳細不明。風属性反応あり』
(風属性)
『左耳の装飾具に微細振動を確認。音に関係する補助具の可能性があります』
ミュゼは胸に手を当てる。
「私が相手をします」
シオンはしばらくミュゼを見ていた。
その笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。
けれど、すぐに灰緑の瞳が細くなった。
「……いや。君の方がいいかもしれないね」
「本当ですか!」
ミュゼの顔がぱっと明るくなる。
エルネは嫌な予感がした。
「シオン先輩?」
リシアが静かに声をかける。
「ミュゼの風は、少し特殊だ。音を運び、音で揺らし、音で乱す」
シオンはエルネを見る。
「エルネさんにとっては、かなり相性が悪い」
「それ、今から私に当てるんですか?」
「検証だからね」
「検証って便利な言葉ですね」
『同意します』
シオンはミュゼへ歩み寄り、何事もないように言った。
「ミュゼ。彼女の蒼い火は、撃つ魔法じゃない。組む魔法だ」
「組む魔法……?」
「条件を集めさせなければ、発動しない。狙うなら、彼女本人ではなく、周囲に浮かぶ小さな魔法陣だよ」
「敵に弱点を教えてません!?」
「検証だからね」
「やっぱり便利に使ってる!」
『検証者としては合理的です』
(味方としては最悪!)
ミュゼは得意げに笑った。
「なるほど。条件を組ませなければいいんですね」
その瞳が、エルネを向く。
「じゃあ、始めよっか。エルネ・フィル」
◇
床の魔法陣が再び光る。
「模擬戦形式。幻傷判定、低」
グラント教官が確認する。
「双方、過剰出力は禁止。相手の身体を直接焼く術式は認めん」
「はい」
「承知しています」
エルネとミュゼが、演武場の中央に立つ。
距離は十歩ほど。
ミュゼは杖を抜かない。
ただ、左耳の音叉型髪留めに指を添えた。
ちん、と。
澄んだ音が鳴った。
けれど、すぐに細かく震え始める。
その音に合わせて、演武場の空気が揺れた。
『微細な音波振動を確認』
(もう始まってる?)
『はい』
「開始」
グラント教官の声が落ちた。
エルネはすぐに指を伸ばした。
『条件一。対象材質、制服留め具、金属』
小さな青白い魔法陣が浮かぶ。
だが、ふるり、と輪郭が揺れた。
「え?」
ミュゼの周囲で、風が鳴っている。
大きな風ではない。
そよ風ほどの細い流れ。
けれど、その中に細かい音が混じっていた。
ちりちり。
しゃらしゃら。
耳元で細い鈴を鳴らされているような、不安定な音。
小魔法陣の線が乱れる。
『条件一、保持不安定』
(早い!)
「副会長の言った通りね」
ミュゼが言った。
「君の魔法、組み上がる前が一番揺れやすいみたい」
エルネは唇を噛む。
もう一度、条件を取る。
『条件二。胸元の留め具』
二つ目の魔法陣が浮かぶ。
しかし、ミュゼの風がそこへ触れた。
風というより、音。
音の波が魔法陣の輪郭を震わせる。
線がぶれ、接続点がずれる。
小魔法陣は、火花のように消えた。
「消えた!?」
『音波による魔力線攪乱。対象は小魔法陣の維持点を乱しています』
(対策済みすぎる!)
「悪く思わないでね。これも検証だから」
ミュゼは軽やかに踏み込む。
風が足元で跳ねる。
「乱響風」
細かな風が、エルネの周囲で一斉に鳴った。
音のない場所がない。
どこを見ても、空気が震えている。
蒼炎針の条件を拾おうとしても、輪郭が定まらない。
相手を見る。
条件を取る。
浮かべる。
乱される。
消える。
「先生!」
『再構築中です』
(間に合う?)
『困難です』
ミュゼの手が前へ出た。
「風撃」
圧縮された風の弾が飛んだ。
風を一点に固めて撃ち出す、中位の風属性魔法。
目には見えにくい。
だが、空気の塊が真正面から押し寄せてくるのが分かった。
エルネは避けようとした。
間に合わない。
どん、と衝撃が肩に当たる。
幻傷印が赤く浮かび、エルネは一歩後ろへよろめいた。
「痛っ……!」
『幻傷判定、中。実損傷なし』
(中!?)
『痛覚は制限されています』
(制限されてこれ!?)
ミュゼは止まらない。
「ほら、もう一回いくよ」
「待って、早い!」
「待たないよ」
音叉型の髪留めが震える。
エルネの周囲では、乱響風がまだ空気を細かく震わせていた。
その乱れの向こうで、ミュゼが片手を前へ出す。
「風撃」
二発目。
エルネは横へ跳ぶ。
避けきれず、脇腹に衝撃が入る。
幻傷印。
息が詰まる。
床に膝をつきかける。
「エルネさん!」
リシアの声が飛ぶ。
「まだ大丈夫!」
大丈夫ではない。
だが、言った。
言わないと、止められてしまう気がした。
『継戦リスク上昇』
(分かってる)
『蒼炎針、発動条件を満たせません』
(霧星糸は?)
『水分収束前に攪乱されます』
(じゃあ、何もできないじゃない)
ミュゼの風が、演武場を細かく鳴らす。
音が多すぎる。
風が多すぎる。
線が定まらない。
ほどこうとしても、どの線が本物か分からない。
エルネは初めて、蒼炎針を覚えた時より強く思った。
これは、相性が悪い。
最悪だ。
シオンは壁際で静かに見ていた。
「なるほど。想像以上だね」
「シオン先輩」
リシアが低く言う。
「追い込みすぎです」
「まだ止める段階ではないよ」
「ですが」
「エルネさんは、まだ目を逸らしていない」
シオンは、淡く光る黒い本を見た。
「それに、あの補助具の線も、まだ止まっていない」
◇
ミュゼは三度目の風を構えた。
「これで終わりにするね」
風が集まる。
音叉型の髪留めが、先ほどより強く震えた。
乱響風で周囲を乱し、その上から風撃を撃つ。
単純だが、今のエルネには防げない。
(先生)
『解析中です』
(何か、ない?)
『問題は、音による妨害でした』
(音?)
『はい。これまでの術式は、構築に時間をかけすぎています』
ミュゼの手の先で、圧縮された風が形を取り始める。
中位風魔法、風撃。
目に見えにくい、空気の弾。
それが、エルネへ向けられている。
(じゃあ、どうするの?)
『妨げられる前に、最速で処理します』
(最速?)
ミュゼが叫ぶ。
「風撃!」
風弾が放たれる。
エルネの前髪が、風圧で揺れた。
逃げられない。
防げない。
蒼炎針は間に合わない。
霧星糸も、形になる前に散らされる。
エルネは黒い本を抱きしめた。
(先生!)
ロゴスの声が、静かに響いた。
『断ち切ります』
風撃が、迫った。




