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第十六話

『断ち切ります』


 ロゴスの声が、黒い本の奥で響いた。


 風撃ウインドショットが迫る。


 圧縮された風の弾。


 避けるには近すぎる。


(断ち切るって、何を!?)


『魔力の流れです』


(どうやって!?)


『音を使います』


 黒い本から、青白い補助線が走った。


 いや。


 その線は途中で色を変えた。


 青白い光が、エルネの魔力を伴って淡い緑へほどけていく。


 空中に浮かんだのは、五線譜のような緑の魔力線だった。


 細く、震え、揺れている。


 ミュゼの乱響風ノイズ・ゲイルがばらまいた音。


 その音が、空気を震わせている。


 その震えを、ロゴスが道として拾っていた。


『音は空気の振動です。振動は、道になります』


(音を、道にするの?)


『はい』


 五線譜の上に、何かが浮かんだ。


 音符ではない。


 エルネの指先から伸びる、半透明の刃。


 二枚。


 薄く、透明で、風のように揺れている。


 けれど形は、はっきりと鋏だった。


『ほどくのではありません』


 ロゴスの声が響く。


『断ち切ります』


 エルネは息を吸った。


 風撃が目の前に迫る。


 音が鳴っている。


 空気が震えている。


 その震えの上を、緑の刃が走る。


 エルネは指先を閉じた。


 しゃきん。


 一拍だけ、音が途切れた。


 ミュゼの乱響風ノイズ・ゲイルが散る。


 同時に、迫っていた風撃ウインドショットの形が崩れた。


 消えたわけではない。


 圧縮されていた風が、ばさりとほどけるように左右へ割れた。


 強い風が、エルネの髪と外套を大きく揺らして抜けていく。


 だが、直撃はしなかった。


「……え?」


 ミュゼの声が、演武場に落ちた。


 エルネは立っていた。


 黒い本を抱えたまま。


 自分でも、何が起きたのかよく分からなかった。


「シオン先輩」


 リシアが、珍しく目を見開いていた。


「あれは、風魔法なんですか?」


「形はね」


 シオンは、消えかけた緑の五線譜を見ていた。


「でも、見たことない。ミュゼに乱される前に、ミュゼの魔法ごと断ち切った」


「魔法ごと……」


「恐らくね。乱響風ノイズ・ゲイルがエルネさんの術式を散らすより速く、音に乗っていた魔力の流れを切ったんだ」


『新規術式。初回起動を確認』


(今の、私がやったの?)


『はい。補助はしました。魔力を通したのはあなたです』


「今の魔法は?」


 シオンが、エルネへ視線を戻す。


 エルネは黒い本を見た。


(先生、今の名前ある?)


『仮称。空律鋏シルフ・シザー


「……空律鋏シルフ・シザー、だそうです」


「空律鋏」


 シオンはその名を、静かに繰り返した。


 ミュゼは一瞬、言葉を失った。


 けれど、すぐに表情を戻す。


 勝ち気な笑みではない。


 術者の目だった。


「……もう一度」


 ミュゼが音叉型の髪留めに指を添えた。


 ちん、と澄んだ音が鳴る。


 乱響風ノイズ・ゲイルが、再び演武場の空気を震わせた。


 その奥で、ミュゼの手のひらに風が集まる。


風撃ウインドショット!」


 だが、風は弾にならなかった。


 緑の五線譜が一瞬だけ走る。


 エルネの指先から伸びた半透明の刃が、音の上を滑った。


 しゃきん。


 一拍だけ、音が切れる。


 ミュゼの手元に集まりかけていた風撃が、形になる前に散った。


「また……!」


 ミュゼの空色の瞳が、大きく揺れる。


 今度は、防がれたのではない。


 撃つ前に、魔力の流れを断たれた。


 エルネも、息を詰めていた。


(先生、今の……)


空律鋏シルフ・シザー。再現成功』


(再現できちゃった……)


 ミュゼは一瞬だけ唇を噛んだ。


 けれど、退かなかった。


「まだ!」


 ミュゼの足元で、風が弾けた。


風歩エア・ステップ!」


 ミュゼの姿が、ふっと消えた。


 いや、消えたのではない。


 足元の風が体を押し、横へ滑らせたのだ。


 距離が、一気に詰まる。


(速い!)


『外部へ射出する術式ではありません。身体補助です』


(つまり?)


空律鋏シルフ・シザーでの迎撃は困難です』


(早く言って!)


 ミュゼが腰から訓練用の短杖を抜く。


 風歩エア・ステップで踏み込み、短杖をエルネの肩口へ伸ばした。


 エルネは反射的に体をひねる。


 直撃は避けた。


 けれど、風をまとった短杖が肩をかすめる。


 ぱしん、と弾かれたような衝撃。


 赤い幻傷印が、肩口に浮かんだ。


「っ!」


「外に出すから切られる」


 ミュゼが言った。


「なら、近くで撃つ」


 足元でまた風が弾ける。


 十歩あった距離は、もう一歩しかない。


 ミュゼの手のひらに、風が集まっていた。


 遠くへ飛ばすための風撃ではない。


 至近距離で叩き込むための、圧縮された風の塊。


「これなら、間に合わないでしょ!」


(先生!)


蒼炎針アズール・ニードル。記録済み条件を、つなぎ直します』


(つなぎ直す!?)


 散らされたはずの青白い小魔法陣が、エルネの周囲に戻ってきた。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 バラバラになっていた絡繰りの歯車が、時間を巻き戻すように噛み合っていく。


 ミュゼの空色の瞳が、驚きに揺れた。


「速すぎる!?」


『散らされた条件は、消滅していません。記録済みです』


(先生、そういうことは先に言って!)


『魔力を』


(はい!)


 エルネは指先へ魔力を通した。


 狙うのはミュゼ本人ではない。


 その手のひらで、今まさに形になろうとしている風撃ウインドショット


 風を押し固めるための、小さな魔力の核。


蒼炎針アズール・ニードル!」


 青白い火点が、ミュゼの手元で灯った。


 爆発ではない。


 燃焼でもない。


 ほんの一点。


 風撃の形を作ろうとしていた魔力の核に、針を刺す。


 次の瞬間、風撃ウインドショットが形を崩した。


 圧縮されていた風が、行き場を失って弾ける。


「っ――!」


 ミュゼの体が、後ろへ吹き飛ばされた。


 幻傷演武場の床に、白い判定光が走る。


 結界管理教師が制御盤を見た。


「ダメージ判定、高。試合停止です」


 演武場が静かになった。


 ミュゼは床に膝をつき、肩で息をしていた。


 実際の傷はない。


 だが、胸元と腕に白い幻傷印が浮かんでいる。


「ミュゼ先輩!」


 エルネは思わず駆け寄ろうとした。


 グラント教官が手を上げる。


「止まれ。結界管理が先だ」


「でも!」


「実損傷はない」


 結界管理教師が確認する。


「幻傷判定のみ。意識もあります」


 ミュゼはゆっくり顔を上げた。


 空色の瞳が、エルネを見ている。


「……今の、私の風撃を撃つ前に刺したの?」


「たぶん……はい」


「たぶんでやったの?」


「私も、いま結構びっくりしてます」


「でしょうね」


 ミュゼは悔しそうに唇を尖らせた。


 リシアが小さく息を吐いた。


 グラント教官は腕を組んだまま、ミュゼとエルネを見比べる。


「身体を直接狙わず、相手の術式核を狙ったか」


「はい」


「判断としては悪くない」


 悪くない。


 その言葉に、エルネは少しだけ安心しかけた。


 だが、すぐに指先が冷えた。


 ダメージ判定、高。


 幻傷とはいえ、ミュゼは吹き飛ばされた。


 勝てた。


 けれど、少し怖かった。


『魔力消耗、および集中負荷を確認』


(先生)


『はい』


(今の、やりすぎ?)


 ロゴスは、ほんの少しだけ沈黙した。


『出力は許容範囲内です』


(答えになってない)


『結果として、試合停止判定は妥当でした』


(やっぱり答えになってない)


 シオンがゆっくり近づいてきた。


 いつもの穏やかな笑み。


 けれど、その目はさっきよりずっと鋭い。


「鎧人形の時は、条件を外に並べていた」


 シオンは黒い本を見る。


「だから、ミュゼの音なら散らせると思った。実際、散らせた」


 それから、エルネへ視線を戻す。


「でも、あの補助具は条件そのものを手放していなかった。表に出した魔法陣が散っても、内側に残していたんだね」


 エルネも黒い本を見る。


(先生、そういうことなの?)


『正確には、記録済み条件の再起動です』


(保存してたってこと?)


『はい』


 ミュゼがゆっくり立ち上がる。


 まだ少しふらついていた。涙目である。


「副会長の前で、一年生に負けちゃった……」


 そこを気にするのか、とエルネは思った。


 シオンは小さく笑う。


「いい検証だったよ、ミュゼ」


 ミュゼは一瞬で顔を上げた。


「本当ですか!」


「うん。君がいなければ、これは見られなかった」


 その一言で、ミュゼの表情がぱっと明るくなる。


 切り替えが早い。


 エルネは少しだけ羨ましくなった。


 グラント教官が重く息を吐く。


「今日はここまでだ」


 シオンが、静かにエルネを見ている。


 リシアも、同じように見ている。


 エルネは黒い本を抱え直す。


 蒼炎針。


 霧星糸。


 空律鋏。


 火球が出せない落ちこぼれが、また一つ、変な魔法を増やしてしまった。


 強くなった。


 たぶん、それは間違いない。


 でも。


 相手の魔力を断った感触。


 風撃が弾け、ミュゼが吹き飛ばされた瞬間。


 その冷たい手応えだけは、胸の奥に残っていた。

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