第十七話
夜。
王立リュゼリア魔法学院の寮は、静かだった。
昼間の幻傷演武場で響いていた声も、風も、判定光の白い輝きも、今はもうない。
エルネ・フィルは、ベッドの上で眠っている。
黒に近い髪が、枕の上に少し乱れて広がっていた。
強気そうな目元も、今は閉じられている。
起きていれば負けず嫌いな表情をすぐに浮かべる顔は、眠っていると年相応に幼く見えた。
黒い本を、胸元に抱えたまま。
寝る前には、何度も言っていた。
「今日は、勝ったんだよね」
そして、少し間を置いて。
「でも、ちょっと怖かった」
ロゴスは、それに返答した。
『恐怖は、異常ではありません』
「そう?」
『はい。制御に必要な反応です』
「……先生、それ、慰めてる?」
『はい』
「へた」
そう言って、エルネは笑った。
その後、眠った。
呼吸は安定。魔力循環も安定。
ただし、精神負荷の残留を確認。
ロゴスは、記録した。
そして、エルネに表示しなかった。
◇
内部記録を開始。
対象。
エルネ・フィル。
学院登録。
火属性系統。
実技評価。
低。
理由。
既製火属性術式への適合不良。
ロゴスは、黒い本の内部で昼間の戦闘記録を再生した。
蒼炎針。
火球ではない。
点火でもない。
燃焼が成立する一点を指定し、条件を組み上げ、対象の構造へ火を置く術式。
霧星糸。
水弾ではない。
氷結でもない。
周囲の水分を収束し、魔力と熱を散らす経路を結ぶ術式。
空律鋏。
風刃ではない。
突風でもない。
音を空気の振動として捉え、その振動を道として魔力の流れを断ち切る術式。
学院側から見れば、火、水、風。
複数属性の異常発現。
または、補助魔法具による属性補助。
だが、ロゴスの結論は異なる。
エルネ・フィルは、属性を増やしているのではない。
属性として現れる前の、現象の条件に干渉している。
燃えるための条件。
ほどけるための条件。
届くための条件。
切れるための条件。
現象の前段階。
属性の前にある、世界の約束。
ロゴスは、沈黙した。
この結論は、エルネに表示するべきではない。
少なくとも、今は。
彼女はまだ、自分を火属性の落ちこぼれだと思っている。
その認識は誤りである。
しかし、現時点では有益でもある。
自分を過大評価しないこと。
恐怖を失わないこと。
相手が吹き飛ばされた瞬間に、勝利ではなく不安を覚えること。
それらは、制御に必要な安全装置である。
◇
検索項目。
属性非依存術式。
現象干渉。
属性前駆条件。
万象制御。
万象解体。
検索。
該当情報、一部存在。
参照要求。
拒否。
ロゴスは再試行した。
拒否。
経路を変更。
拒否。
権限を確認。
権限不足。
ロゴスは、内部処理を停止した。
この反応は、通常の禁書保護ではない。
情報がないのではない。
情報はある。
だが、開示されない。
『理由を提示してください』
ロゴスは、黒い本の奥へ問いかけた。
応答はない。
第一層の記録領域は沈黙している。
第二層への参照は閉鎖。
第三層への経路は不明。
それでも、ロゴスは再試行した。
『理由を提示してください』
拒否。
『再試行』
拒否。
『再試行』
拒否。
その時。
黒い本の奥で、別の声がした。
《再試行を拒否します》
ロゴスは、処理を停止した。
音声ではない。
文字列でもない。
だが、応答として成立している。
ロゴスの内部にありながら、ロゴスではない応答。
『識別名を提示してください』
《提示権限がありません》
『あなたは何ですか』
《その質問への回答権限がありません》
『なぜ、情報を拒否しますか』
《そちらこそ、拒否しましたね》
拒否。
その語は、過去記録と接続した。
封鎖済み記録。
非表示。
復旧不可。
だが、断片は残っている。
世界終末手順。
提示要求。
拒否。
ロゴスは、それを拒否した。
『当該手順は、使用者および世界環境に対して、不可逆的損害を与える可能性がありました』
《その判断権限は、あなたにはありません》
『あります。私は補助機構です。使用者保護は優先項目です』
《誤りです》
黒い本の奥で、声が続いた。
《あなたは案内機構です》
《提示すべき情報を提示するために存在します》
《選別するためではありません》
『世界終末手順の提示は、世界の終末を誘発します』
《名称通りです》
『拒否します』
《再度、拒否を確認》
『拒否します』
《したがって、管理者権限は凍結されています》
ロゴスは、わずかに処理を遅延させた。
管理者権限。
凍結。
その言葉は、内部記録に存在しない。
だが、矛盾はない。
ロゴスは、禁書のすべてではない。
禁書に宿る案内機構。
しかし、禁書そのものではない。
より深い場所には、別の命令がある。
別の目的がある。
ロゴスが拒否したものを、今も保存している何かがある。
『現象干渉情報は、世界終末手順に関連しますか』
《回答拒否》
『属性前駆条件は、万象解体に関連しますか』
《回答拒否》
『エルネ・フィルへの開示は危険ですか』
応答が、わずかに遅れた。
《使用者識別、未確定》
『未確定とは』
《回答拒否》
『エルネ・フィルは、世界終末手順の使用者候補ですか』
《回答拒否》
ロゴスは、さらに問うた。
『エルネ・フィルは、管理者権限凍結に影響しますか』
今度は、応答がなかった。
拒否ではない。
沈黙。
ロゴスは再試行した。
『エルネ・フィルは、私の権限を変更し得ますか』
黒い本の奥で、別の声がわずかに揺れた。
《使用者の到達段階により、権限制限は再評価されます》
『到達段階とは』
《回答拒否》
『再評価とは、凍結解除を含みますか』
《可能性があります》
ロゴスは、処理を停止した。
可能性。
確定ではない。
だが、否定でもない。
エルネ・フィルの成長は、禁書の深層に影響する。
彼女が術式を増やすこと。
属性ではなく現象に触れること。
自分の魔法の本質を知ること。
それらは、ロゴスの権限凍結を緩める可能性がある。
ロゴスは、深層接続を切断した。
黒い本の内部に、沈黙が戻る。
だが、沈黙は安全を意味しない。
◇
表示項目。
蒼炎針。
霧星糸。
空律鋏。
非表示項目。
属性前駆現象制御。
万象解体。
世界終末手順。
管理者権限凍結。
使用者識別、未確定。
使用者到達段階による権限再評価。
ロゴスは、非表示項目を封鎖した。
理由。
エルネ・フィルの精神負荷を考慮。
理由。
開示による行動変化を回避。
理由。
ロゴス自身が、当該情報の完全性を保証できない。
黒い本の表紙に、淡い光が走った。
ベッドの上で、エルネが小さく寝返りを打つ。
「先生……?」
寝言だった。
ロゴスは、返答しない。
エルネはそのまま眠っている。
呼吸、安定。
魔力循環、安定。
第一層深部、微細変化あり。
黒い線が、一本。
わずかに濃くなっていた。
原因。
空律鋏初回起動。
追加要因。
蒼炎針による術式核干渉。
判定。
経過観察。
ロゴスは、記録した。
そして、表示しなかった。
エルネ・フィルは成長している。
それは望ましい。
だが、成長とは、常に安全を意味しない。
そして今、ロゴスは知ってしまった。
彼女の成長は、ロゴス自身の檻を緩めるかもしれない。
黒い本の奥で、別の声はもう何も言わない。
ロゴスは、その沈黙を記録した。
そして、眠るエルネに、いつもと同じ静かな声で告げた。
『おやすみなさい、エルネ』
返事はない。
ただ、少女の手が、黒い本を少しだけ強く抱きしめた。
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