第八十三話 魔法の使えない聖地
朝。
エルネが目を覚ますと、見慣れない天井があった。
「……あ」
しばらく眺めてから、昨日のことを思い出す。
ヴァレルに連れられ、辿り着いた聖地。
魔法の使えない、不思議な場所。
身体を起こして部屋を見回す。
寝台と机。
棚が一つ。
壁際には小さな灯り。
牢屋のような場所を想像していたが、そんなことはなかった。
扉にも鍵はかかっていない。
ただ、静かだった。
いつもなら聞こえてくる声も、今はない。
エルネは少しだけ天井を見上げた。
そのとき、扉が軽く叩かれる。
「エルネ様。起きていらっしゃいますか?」
「起きてる」
「入ってもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
扉が開き、昨日会ったフィーネが入ってきた。
手には朝食の載った盆を持っている。
「おはようございます」
「おはよう」
「よく眠れましたか?」
「たぶん」
「たぶん、ですか」
「知らない場所だったから」
「それはそうですね」
フィーネは笑いながら、盆を机の上へ置いた。
「お身体に変わりはありませんか?」
「魔法が使えない」
「それは変わりません」
「やっぱり?」
「はい」
エルネは自分の手のひらを見た。
試しに魔力を動かそうとしてみる。
やはり、何も起こらない。
「フィーネさんも使えないの?」
「もちろんです」
「ヴァレルも?」
「ここにいる間は同じですよ」
「へえ……」
昨日は自分だけがおかしくなったのかと思った。
「なんで?」
「この場所そのものが、魔法から切り離されているからだと聞いています」
「切り離されてる?」
「魔力がなくなるわけではありません。ただ、術として外へ働かせることができない、と」
エルネは再び指先を見る。
「不便じゃない?」
「とても」
「だよね」
「ですが、慣れますよ」
「慣れたくないなあ」
「そうですね」
フィーネはあっさり同意した。
エルネは椅子へ座り、朝食へ手を伸ばす。
「ねえ、フィーネさん」
「はい」
「ここって、なんで聖地なの?」
フィーネがエルネを見る。
「ヴァレル様から何も?」
「ほとんど」
「そうでしょうね」
「やっぱりそうなんだ」
少しだけ考えてから、フィーネは口を開いた。
「聖地アルブレヒトは、始祖様が最期を迎えられた場所だからです」
パンをちぎろうとしていたエルネの手が止まった。
「ここで死んだの?」
「そう伝えられています」
エルネは周囲を見た。
「……ここで?」
「当時から、このような場所だったわけではありませんよ」
「あ、そっか」
「今ある通路や部屋の多くは、後から造られたものです」
「じゃあ、最初はただの洞窟?」
「それも正確には分かりません。ずいぶん昔のことですから」
「ふうん」
パンを一口食べる。
「でも、始祖がここで死んだなら、すぐ見つかりそうじゃない?」
「それが、見つからなかったそうです」
「なんで?」
「この場所が魔法から切り離されているからです」
フィーネは壁へ目を向ける。
「探知の魔法も、探索の術式も、ここには届きません」
「隠してるの?」
「いえ」
フィーネは首を横に振った。
「隠しているというより、魔法では見つけることができないんです」
「見えない?」
「近いかもしれません」
エルネは少し考える。
「そこにあるのに?」
「そこにあっても、です」
「変なの」
「変な場所ですよ」
また、あっさり同意された。
「じゃあ、教団はどうやって見つけたの?」
「記録を辿ったそうです」
「記録?」
「古い文献や土地の伝承。始祖様が最後に目撃された場所。そういったものを、長い時間をかけて一つずつ」
「魔法を使わないで?」
「はい」
「大変そう」
「何十年どころではなかったと聞いています」
「そんなに?」
「教団にとっても、ここは長い間、失われた場所だったんです」
エルネはパンを咀嚼しながら部屋を見回した。
「見つけてから、ここを聖地にしたの?」
「はい」
「じゃあ、フィーネさんはずっとここにいるの?」
「ほとんどは」
「外に出ないの?」
「出ることもありますよ」
「教団の偉い人なの?」
「いいえ」
「じゃあ普通の人?」
「それも少し違いますね」
「どっちなの」
フィーネが困ったように笑った。
「聖地で働くことを許されている者は、それほど多くありません」
「やっぱり偉いんじゃん」
「偉くはありません」
「めんどくさいなあ、教団」
「よく言われます」
「言われるんだ」
少しだけ、エルネも笑った。
「じゃあさ」
「はい」
「私がここに連れてこられた理由は?」
フィーネの笑顔が少しだけ固まった。
「それは……私からはお話しできません」
「知らない?」
「知らないこともありますし、知っていてもお話しできないこともあります」
「どっち?」
「それを申し上げると、答えになってしまいますので」
「ずるい」
「申し訳ありません」
「ヴァレルに言われた?」
「それについても、お答えできません」
「絶対言われてる」
フィーネは否定しなかった。
エルネは残ったパンを口へ放り込む。
少なくとも、フィーネは怖くない。
分からないことだらけなのは変わらないけれど。
ヴァレル一人を相手にするよりは、ずっとましだった。
◇
「イスト神父でしたら、退職されました」
セレスティアは、一瞬だけ返事が遅れた。
「……退職?」
「はい」
聖環学院の職員が、手元の書類を確認する。
「いつ?」
「数日前になります」
「急ね」
「私どもも驚きました」
「理由は?」
「詳しい事情までは。ご本人の申し出だったと聞いております」
「今はどこに?」
「申し訳ありません。そちらも把握しておりません」
セレスティアは少し考えた。
「どなたか、親しい人物とか」
「生憎、存じ上げません」
「そう」
それ以上、ここで聞いても同じだろう。
「ありがとう。お邪魔したわ」
職員へ礼を告げ、セレスティアは聖環学院を後にした。
校門を抜ける。
シオンは、実家にも寮にもいない。
イストは、数日前に突然学院を辞めた。
そしてエルネは、ヴァレルに連れ去られたまま見つかっていない。
どこまでが関係しているのか。
そもそも、本当に関係しているのか。
分からない。
「……いよいよ、なりふり構っていられないかもしれないわね」
◇
学院へ戻ったセレスティアは、自室には寄らなかった。
そのまま学院長室へ向かう。
二度、扉を叩いた。
「入れ」
「失礼するわ」
扉を開け、中へ入る。
後ろ手に扉を閉めると同時に、指先を動かした。
魔力が広がる。
壁、窓、扉。
部屋全体を薄い膜が覆った。
学院長が書類から顔を上げる。
「部屋に入るなりそれはやめなさい」
「時間が惜しいの」
「だからといって、いきなり遮音魔法を張るな」
セレスティアは聞き流して机の前まで歩く。
「殿下とお話をする機会を設けてくださらない?」
「なに?」
学院長の表情が変わった。
「エルネのこと、行き詰まっちゃったのよ。どうしても確かめたいことがあるの」
「断界のヴァレル……といったか」
「ええ」
「だからといって、それを口にすることの意味が分からぬお前でもあるまい」
「恐らく手がかりは、私の秘密にある」
学院長が眉を寄せる。
「ヴァレルが知っていることと関係するのか?」
「今は何も分からないわ。手がかりになるかもしれないってだけ」
「しかし……」
「お願い」
セレスティアは学院長をまっすぐ見た。
「私、分からないことは嫌いなのよ」
学院長は何も言わなかった。
セレスティアも急かさない。
やがて、学院長が椅子へ深く腰を下ろした。
「……分かった」
「ありがとう」
「殿下の都合もある。すぐにとは約束できんぞ」
「構わないわ。できるだけ早くお願い」
「まったく……」
学院長が小さく息を吐く。
セレスティアは鞄へ手を入れた。
「それと、もう一つ」
取り出したのは、一冊の薄い書だった。
それを机の上へ置く。
「これを、殿下に」
「これは?」
学院長が書へ手を伸ばす。
「待って」
その手が止まった。
「……なんだ」
「中は見ないで」
学院長が眉をひそめる。
「私にもか?」
「ええ」
「私に面会を取り次げと言っておいて?」
「だからお願いしてるの」
「相変わらず無茶を言う」
「ごめんなさい」
珍しく素直に謝った。
学院長は、机の上の書を見る。
「殿下に直接渡せばいいのだな」
「ええ」
「説明も?」
「いらないわ」
セレスティアは頷いた。
「これを、殿下に」
学院長はしばらく書を見つめたあと、それを開くことなく机の引き出しへしまった。




