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第八十一話 聖地へ

本日より更新再開です。


今回から新章「聖地集結」に入ります。

湖畔で起きた出来事をきっかけに、教団、そしてこれまで表に出てこなかった存在たちも動き始めます。

 陽の光など決して届かぬ、深海の底。


 そこには、海底の岩盤をくり抜いて作られたような、巨大な球状空間が存在していた。


 だが、それは自然の地形には見えなかった。


 内壁は滑らかな黒灰色の材質に覆われ、岩肌らしい起伏はどこにもない。継ぎ目一つ見当たらぬ壁面には、細い青白い光の筋が幾何学模様のように走り、ゆっくりと脈打っている。


 球状空間の外縁を、巨大な海獣たちが静かに回遊していた。


 長い首をくねらせる首長竜めいたもの。甲羅に珊瑚を背負った大亀。淡い光を点滅させる巨大なクラゲ。脚を広げて内壁に張りつく大蛸。さらに遠く、白銀の巨体をゆるやかにうねらせる大王イカ。


 それらは争いもせず、ただ中心を避けるように巡っている。


 球状空間の中央には、黒い台座めいた構造物が浮かんでいた。


 その周囲を、いくつもの細い環が異なる角度で回転している。まるで何かを封じ、同時に守っているかのように。


 その中心に―― 一人の老人がいた。


 長い白髪と髭をたたえ、深海の暗闇の中にありながらなお輪郭がはっきりと見えるほどの杖を、その傍らに置いている。杖は青白く、しかし冷たいだけではない奇妙な光を放ち、この空間そのものの心臓のように脈動していた。


 老人は長く、長く眠っていた。


 どれほどの時が過ぎたのか、もはや数える者もいない。


 だが。


 ふいに、杖の光が強く明滅した。


 空間を巡っていた海獣たちが一斉に動きを止める。


 青白い導光線が、内壁から中心へ向かって流れ始めた。


 老人の瞼が、ゆっくりと開く。


「……再び」


 掠れた声が、深海の沈黙に落ちた。


「あの力を感じるとは」


 老人は顔を上げる。


 その双眸は、隔絶された海の底にありながら、遥か遠くの異変を確かに捉えていた。


 傍らの杖が、ひときわ強く輝く。


 それだけで、球状空間全体が低く震えた。


     ◇


 上下も奥行きも曖昧な暗闇の中を、ヴァレルは迷いなく進んでいた。


 足元は見えない。だが、確かに踏みしめる感覚だけはある。


 その後ろを歩きながら、エルネは何度目かの溜息をついた。


 目の前の男は、ここまでの間、必要最低限のことしか口にしていない。


「ねえ」


 呼びかけても、ヴァレルは振り返らない。


「どこに行くの?」


「我々教団の聖地に向かう」


「聖地?」


「ああ」


 また、それだけだった。


 エルネは眉をひそめる。


 聖地。


 あまりに不穏な響きだ。きちんとした本人の同意もなく連れ去っておきながら、その行き先が“聖地”と言われても、不安が増すばかりである。


「私、やっぱり帰りたいって言ったら……ダメよね?」


「今は無理だ」


「即答なんだ……」


 不満を漏らしても、ヴァレルは気にも留めない。


 その横顔は相変わらず硬く、感情を読ませない。


 エルネは小さく唇を尖らせた。


「聖地って何? そこに行ったら、何をするの?」


「話すべきことがある」


「誰が?」


「いずれ分かる」


「それ、説明したうちに入らないからね」


 返事はなかった。


 代わりに、ヴァレルがふいに足を止める。


「その前に、寄り道する」


「寄り道?」


 ヴァレルは短剣を抜いた。


 黒い刃が暗闇を裂く。


 空間に一本の亀裂が走り、そこから光が漏れ出した。


 次の瞬間、景色が割れる。


     ◇


 土の匂いが鼻を打った。


 踏み出した足の裏に、確かな地面の感触が戻る。


 エルネは目を瞬かせた。


 目の前に広がっていたのは、荒れ果てた一角だった。


 木々は途中から鋭く断ち切られ、地面には深い裂け目がいくつも走っている。土は抉れ、草は焼け焦げ、激しい戦闘の跡が生々しく残っていた。


 そして、その只中に倒れている黒衣の男たち。


 何人もが地に伏し、ある者は呻き、ある者はぴくりとも動かない。


 その中で、なお立っていた一人の男に、エルネは見覚えがあった。


「イストさん?」


 呼ばれた男が、ゆっくりとこちらを向く。


 傷を負っていた。衣服は裂け、片腕には応急処置の跡がある。決して重傷ではないが、つい先ほどまで激しい戦闘をしていたのは明らかだった。


 イストはまずヴァレルを見た。


 次に、その隣に立つエルネを見る。


 わずかに目を見開く。


「やっぱり、グルだったの?」


 状況も分からぬまま咄嗟にこぼれたエルネの言葉に、イストは苦笑した。


 それから周囲を見渡し、自嘲気味に肩をすくめる。


「御覧の有様で」


「あ……」


 確かに、その通りだった。


 共犯者同士というには、あまりにも荒れすぎている。


 イストは改めてヴァレルへ向き直る。


「取り逃がしたと思っていたのですが……まさか、エルネさんを伴って戻ってくるとは」


「事情が変わった」


 ヴァレルは短く言った。


 イストの眼差しが、僅かに鋭くなる。


「事情、ですか」


「万象解体書が覚醒の兆しを見せた」


 その一言で、イストの表情が変わった。


 軽い苦笑も、穏やかな空気も消える。


「……それは」


「最早、我らで争っている場合ではない」


 ヴァレルの声音は低く、迷いがない。


 イストは一瞬だけ黙り込み、それから静かに頷いた。


「その様ですね」


 エルネは二人を見比べた。


 万象解体書。覚醒。争っている場合ではない。


 聞こえてくる言葉の意味は断片的にしか分からないのに、それでも、自分が無関係ではいられない話だということだけは伝わってくる。


 ヴァレルが続けた。


「幹部を招集しろ」


 イストはわずかに眉を上げた。


「全員ですか? しかし、貴方一人を探すにも苦労したのですが」


「お前の……師ならば可能なはずだ」


 その言葉に、イストの目がわずかに細められる。


 エルネはその変化を見逃さなかったが、意味までは分からない。


「……随分と無茶を仰いますね」


「無茶でもやれ」


「ええ。そういう話になってしまった以上は」


 イストは小さく息をつき、視線を落とした。


 周囲で倒れている黒衣の男たち。切り裂かれた木々。荒れた大地。ここに至るまでの戦いが、決して軽いものではなかったことを物語っている。


 それでも、今この瞬間からは別の局面へ入ったのだと、イスト自身も理解しているのだろう。


「分かりました。手を尽くします」


「頼む」


 ヴァレルはそれだけ告げると、再び短剣へ手を掛けた。


 エルネは小さく息を呑む。


 聖地。万象解体書。幹部。師。


 知らないことばかりだ。


 なのに、どれも自分の行き先を決める言葉として並んでいる。


 世界のどこかで、今まさに何かが動き始めている。


 その中心に、自分が立たされている。


 そんな予感だけが、妙に冷たく胸へ残った。

ここからしばらく、教団と聖地を中心に物語が進んでいきます。


エルネが連れていかれた先に何があるのか。

そして、冒頭で動き始めた老人は何者なのか。


次回は、エルネがヴァレルから教団について少しずつ話を聞いていく予定です。


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