↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
81/110

第八十話 エルネが消えた日

 黒い裂け目が閉じた。


 エルネとヴァレルの姿が、黒い本とともに消える。


「エルネ!」


 マリエルの叫びが、古い水路へ響いた。


 返事はない。


 傷ついた腕を押さえながら、二人が消えた場所へ駆け寄る。


「エルネ! どこにいるの!」


 何もない空間へ手を伸ばす。


 指先が触れたのは、冷たい風だけだった。


「離れてください!」


 リシアが水帯を放つ。


 細く伸びた水が、裂け目の閉じた場所を縦横に走った。


 転移魔法の残滓。


 ヴァレルが残した魔力。


 空間の歪み。


 どれか一つでも捉えられれば、追跡できるかもしれない。


 だが、水帯は何もない場所を通り抜けるだけだった。


「……反応がありません」


「それじゃ、追いかけられないんですか!」


 マリエルが振り返る。


「今、ここにいたのに!」


「ヴァレルの移動は、通常の転移魔法ではありません。閉じたあとに経路が残らない可能性が――」


 金属の擦れる音がした。


 リシアがはっと振り返る。


 レドガーが、石畳へ落ちた剣へ手を伸ばしていた。


 残る二人も身体が動くようになったことに気づき、立ち上がろうとしている。


「動かないでください」


 声と同時に、水帯が鋭く跳ねた。


「なっ――」


 一本がレドガーの手首へ巻きつく。


 剣へ届く寸前の腕を背中側へねじ上げ、そのまま石畳へ引き倒した。


 別の水帯が二人目の足を払い、三人目の胸元と両腕をまとめて締め上げる。


「ぐあっ!」


 三人の身体が、立て続けに石橋へ打ちつけられた。


 リシアは水を細い縄状へ変え、手足を背中側で固く縛る。


 腰の剣や短刀もすべて抜き取り、手の届かない場所へ弾き飛ばした。


「ま、待て!」


 レドガーが呻く。


「俺たちを捕まえてる場合か! あの化け物を――」


 水帯が喉元へ巻きついた。


 言葉が途切れる。


「それ以上、エルネさんを侮辱しないでください」


 リシアの声は静かだった。


 普段の柔らかさは残っていない。


「あなたたちが町を襲い、魔獣を苦しめ、マリエルを人質にしたのです」


 水帯がわずかに締まる。


「次に口を開くのは、質問された時だけにしてください」


 レドガーは青ざめた顔で頷いた。


 リシアは三人の拘束を確認すると、周囲へ薄く水を広げた。


 ほかに潜んでいる者はいない。


 安全を確かめ、ようやくエルネが消えた場所へ視線を戻す。


 そこには、何も残っていなかった。


「二人とも、そこから離れなさい」


 鋭い声が飛んだ。


 強い風が石橋を吹き抜ける。


 セレスティアが風をまとい、二人の前へ降り立った。


 制服の裾は湖水に濡れ、普段は整えられている髪も乱れている。


 その後ろから、町の自警団と数人の治療術師が駆けてきた。


 セレスティアは石橋の上を素早く見渡した。


 跡形もなく失われた欄干。


 大きく欠けた石畳。


 半分だけ消えた木。


 傷を負ったマリエル。


 水帯で拘束された三人の男。


 そして、どこにもいないエルネ。


「その三人を自警団へ」


「はい」


 リシアが水帯を緩めることなく、自警団員たちへ向き直る。


「レドガーを含む三名です。武器はすべて取り上げています。周囲にほかの仲間の反応はありません」


「承知した」


 自警団員たちが三人へ近づき、水帯の上から手枷と縄をかけていく。


 三人が確実に拘束されたことを確認し、リシアはようやく水帯を解いた。


 自警団員たちに引き立てられ、レドガーたちは石橋を離れていく。


 セレスティアは次に、マリエルの傷ついた腕へ目を向けた。


「治療を受けなさい」


「でも、エルネが――」


「その腕では話を聞く間にも倒れます。先に止血しなさい」


 治療術師がマリエルへ駆け寄る。


 マリエルはなおもエルネが消えた場所を見つめていたが、やがて唇を噛み、石橋の端へ移動した。


 セレスティアはリシアへ向き直る。


「リシア、報告して」


「はい」


 リシアは息を整えた。


「エルネさんが抱えていた黒い本から、未知の魔法が発動しました。蒼い炎のような光に触れたものが、跡形もなく消失しています」


 セレスティアの視線が、失われた欄干へ向く。


「最初の攻撃はレドガーたちから外れ、周囲の石畳や木が消えました。その後、エルネさんがもう一度魔法を使おうとしたところへ、ヴァレルが現れました」


「ヴァレルが?」


「はい。何もない空間を裂いて、エルネさんと盗賊たちの間へ入りました」


 リシアは、黒い本がエルネの腕から消えた瞬間を思い返す。


「ヴァレルが短剣を振るうと、黒い本がエルネさんの手元から消え、ヴァレルの手へ移りました。その直後、魔法は停止しました」


「エルネは?」


 リシアの言葉が一瞬詰まる。


「ヴァレルが、エルネさんへ手を差し出しました」


「それで?」


「……エルネさんは、自分でその手を取りました」


 セレスティアの瞳がわずかに細くなる。


「強制的に連れ去られたのではないのね」


「はい。エルネさんは自分で頷き、ヴァレルとともに裂け目へ入りました」


「でも!」


 治療を受けながら、マリエルが声を上げた。


「私が行かないでって言ったら、エルネは振り返ったんです!」


 治療術師に腕を押さえられながら、エルネが消えた場所を見る。


「一度、足を止めました。だから、本当に私たちから逃げたかったわけじゃ……」


 声が震える。


 セレスティアは短く頷いた。


「分かったわ」


     ◇


 負傷者の治療と盗賊たちの移送が進む間、セレスティアは石橋に残された痕跡を調べた。


 失われた石畳の縁へ手をかざす。


 細く流した風が、消失した部分の輪郭をなぞった。


「断面がない」


「はい」


 隣に立つリシアが頷く。


「削られたのでも、砕かれたのでもありません」


 石畳には亀裂がない。


 欄干の破片も残っていない。


 半分を失った木にも、焼け焦げや木屑は見つからなかった。


 そこにあった部分だけが、突然失われている。


「蒼炎針とは別の魔法ね」


「はい」


「エルネ自身は制御できていた?」


「いいえ。最初の一撃は狙いが定まっていませんでした」


 リシアは首を横に振る。


「魔法が止まったあとは、エルネさん自身も、何をしたのか分かっていない様子でした」


 セレスティアは、ヴァレルが現れた場所へ視線を向けた。


「ヴァレルは迷わず本だけを奪った」


「はい」


「本をエルネから引き離せば、魔法が止まることを知っていたのでしょうね」


「そう見えました」


 蒼い炎にも、エルネにも触れず。


 ヴァレルは黒い本だけを正確に奪った。


 偶然できたこととは思えない。


「対抗戦を襲った時も、ヴァレルの目的はエルネでした」


 リシアが言う。


「殺害ではなく、確保」


「今回も同じでしょうね」


 セレスティアは立ち上がる。


「ヴァレルにとって、エルネは殺す対象ではない。あの本とともに確保しなければならない存在なのでしょう」


「それなら、すぐに命を奪われる可能性は低いでしょうか」


「そう考えるのが自然ね」


 リシアの表情が、わずかに緩む。


「ただし、安全という意味ではないわ」


「はい」


「時間があるというだけです。その間に居場所と目的を突き止めます」


 リシアは強く頷いた。


 治療を終えたマリエルが、二人のもとへ戻ってくる。


 傷ついた腕には、新しい包帯が巻かれていた。


「エルネを探すんですよね」


「当然です」


「私も行きます」


「認められません」


 セレスティアは即答した。


「どうしてですか」


「あなたは戦闘訓練を受けていない。ヴァレルがいる場所へ連れていくことはできないわ」


「でも、エルネが行ったのは私のせいです」


「違います」


「私が怖がったから!」


 マリエルの声が、古い水路へ響いた。


「エルネがこっちへ来た時、私、後ろに下がったんです。助けてもらったのに、怖くなって……」


 包帯の巻かれた腕を抱き締める。


「エルネは、私の顔を見ていました」


「そうね」


 セレスティアは否定しなかった。


「あなたはエルネを怖がった」


 マリエルの顔が歪む。


「私も、すぐに手を伸ばせませんでした」


 リシアが静かに続ける。


「黒い本がまた動き出すかもしれないと思って、警戒してしまいました」


 エルネへ伸ばしかけた手。


 途中で止めてしまった自分の手を、リシアは見下ろす。


「ヴァレルだけが、迷わず手を差し出しました」


 セレスティアは二人を順に見た。


「恐れたことまで責める必要はないわ」


「ですが……」


「問題は、そのあとです」


 セレスティアがマリエルへ向き直る。


「怖くても、次は手を伸ばせる?」


 マリエルはすぐには答えなかった。


 包帯の巻かれた腕を押さえ、エルネが消えた場所を見る。


 やがて、小さく頷いた。


「……伸ばします」


「なら、それでいいわ」


「エルネは、戻ってきますか」


「戻します」


 迷いのない声だった。


「私たちが、必ず」


 マリエルは唇を噛み、深く頭を下げた。


「お願いします」


「ええ」


 セレスティアは町の方角へ目を向ける。


 遠くでは、消火と救助が続いている。


 魔獣は湖へ帰った。


 盗賊たちも捕らえた。


 町を襲った危機は、ひとまず去った。


 けれど、エルネだけがいない。


「エルネは、戻ってきますか」


「戻します」


 迷いのない声だった。


「私たちが、必ず」


 マリエルは唇を噛み、深く頭を下げた。


「お願いします」


「ええ」


 セレスティアは、エルネとヴァレルが消えた場所へ目を向けた。


 裂け目は跡形もなく閉じている。


 この場に残されたものだけでは、行き先を追うことはできない。


 ならば、ここに留まっている時間はない。


「リシア」


「はい」


「町の自警団へ、残る盗賊の捜索と負傷者の救助を引き継ぎます。必要な報告を済ませたら、すぐに学院へ戻るわよ」


「承知しました」


「エルネとヴァレルの手がかりを、使えるものはすべて使って追います」


 禁書庫の記録。


 現在調べさせているレリックの資料。


 対抗戦襲撃時に残されたヴァレルの痕跡。


 調べるべきものはいくらでもある。


 だが、その前に。


「まず、シオンを呼び戻します」


 リシアの表情がわずかに強張った。


「シオン先輩を?」


「ええ」


 セレスティアは静かに答える。


「ヴァレルが学院へ現れた時から、シオンは何かを隠している」


 あの男を知らないと言いながら、視線を向けようともしなかった。


 教団について話す時も、必要最低限のことしか口にしていない。


 これまでは、本人が話すまで待つつもりだった。


 だが、もう待てない。


「知っていることは、すべて話してもらいます」


「自分から話してくださらなかった場合は?」


「話してもらうわ」


 セレスティアは言い切った。


 責めたいわけではない。


 だが、隠し事によってエルネを失うことだけは許せなかった。


 シオンから話を聞いたあとは、次の相手も決まっている。


 聖環学院の神父。


 イスト。


 エルネへ接触し、教団の内部事情を語った男。


 ヴァレルを強硬派と呼び、自らとは考えが異なると説明していた。


 どこまでが真実で、どこまでを隠していたのか。


 今度は学院へ招いて話を聞くつもりはない。


 こちらから聖環学院へ出向く。


 エルネを狙っていたことを知りながら、何をしていたのか。


 ヴァレルの行き先に心当たりはないのか。


 一つ残らず答えてもらう。


「会長?」


 黙り込んだセレスティアへ、リシアが声をかける。


「何でもないわ」


 セレスティアは町の方角へ歩き出した。


「急いで学院へ戻ります」


「はい」


 リシアがその後を追う。


 マリエルはその場に残り、エルネが最後に立っていた場所を見つめていた。


 届かなかった自分の手を、静かに握り締める。


「次は……」


 小さく呟く。


「絶対に、離さないから」


 水路を渡る風が、失われた欄干の間を抜けていった。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

第八十話をもちまして、第八章は終了となります。


次回からは、新章「聖地集結編」が始まります。


エルネを連れ去ったヴァレル、再び動き始める教団、そして集められる幹部たち。

これまで断片的に描かれてきた教団の内側へ、いよいよ物語が踏み込んでいきます。


新章の準備のため、ここで少しだけお休みをいただきます。再開後は、また毎日更新へ戻る予定です。


ここまでの展開を楽しんでいただけましたら、評価やブックマーク、感想などで応援していただけると、とても励みになります。


引き続き、よろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。