第七十九話 万象解体
《万象解体を執行します》
万象解体書から、蒼い炎が溢れ出した。
熱はない。
風も起こらない。
燃え広がる音さえ聞こえなかった。
ただ、炎に触れた石畳の輪郭がほどけていく。
表面から細かな光へ分かれ、その光さえ消える。
砕けたのではない。
焼けたのでもない。
そこにあった石だけが、跡形もなく失われていた。
「な……」
レドガーの顔から笑みが消えた。
蒼い炎が石橋の上を走る。
エルネの掌は、レドガーへ向けられていた。
けれど、放たれたばかりの力は大きすぎた。
光は一本に定まらず、左右へ激しく揺れる。
『照準が安定していません』
ロゴスの声にも、エルネは反応しない。
蒼い炎がレドガーから逸れた。
その先には、傷ついたマリエルがいる。
『対象座標を強制変更』
ロゴスが、残された接続へ割り込む。
『出力経路を右方へ偏向します』
蒼い炎の軌道が折れた。
マリエルのすぐ脇を通過し、石橋の欄干へ触れる。
次の瞬間。
欄干が消失した。
崩れ落ちることもない。
破片を撒き散らすこともない。
石材も、苔も、表面に刻まれていた古い傷も。
その一帯だけが、初めから存在しなかったかのように失われていた。
「ひっ……」
マリエルが息を呑んだ。
炎はさらに水路脇の草木を舐める。
葉が消える。
枝が消える。
太い木の幹が半分だけ失われ、残った部分が遅れて地面へ倒れ込んだ。
『これは蒼炎針ではありません』
ロゴスの声に、明確な動揺が混じる。
『物質の構成そのものが分解されています』
「なんだよ……それ……」
レドガーの声が震えた。
マリエルへ当てていた剣を引こうとする。
だが、腕が動かなかった。
「くそっ……!」
仲間の一人が逃げようとする。
足が石橋へ張りついたように、持ち上がらない。
「動けねえ!」
三人の身体を、細い蒼光が縁取っていた。
縄で縛られているわけではない。
磁界釦で固定されてもいない。
それでも、指一本まともに動かせなかった。
『対象指定が継続しています』
万象解体の対象として捕捉された肉体と、その周囲を流れる魔力。
その両方が、執行の時を待つように固定されている。
レドガーたちは逃げられない。
剣を捨てることも、マリエルを突き放すこともできなかった。
「待て……」
レドガーの唇だけが、わずかに動く。
「分かった。こいつは返す。もう何もしねえ」
エルネは答えない。
蒼く染まった瞳で、レドガーを見つめている。
その周囲へ、散っていた光が再び集まり始めた。
一度目よりも狭く。
細く。
今度こそ、レドガーだけを消し去るように。
『万象解体の再執行を確認』
ロゴスが呼びかける。
『エルネ。停止してください』
反応はない。
『私の声を認識してください』
蒼い炎が、一本の線へ収束していく。
エルネは静かに掌を上げた。
「次は外さない」
レドガーの顔が恐怖に歪んだ。
「や、やめろ……!」
空間が軋む。
石橋の上を蒼い亀裂が走り、レドガーへ狙いが定まる。
その瞬間。
エルネとレドガーの間で、何もない空間が縦に裂けた。
黒い亀裂。
その奥に広がる、光のない虚空。
裂け目を押し広げるように、黒い外套をまとった男が姿を現した。
ヴァレル。
片手には、あの短剣が握られている。
蒼い炎を前にしても、足を止めない。
怯えることもない。
ヴァレルはエルネとレドガーの間へ立ち、低く告げた。
「お前が力を振るうべきは、ここではない」
エルネの瞳が、わずかに揺れる。
だが、収束した蒼い炎は消えない。
ヴァレルごとレドガーを呑み込もうと、さらに光を強める。
「どいて」
エルネが呟いた。
「その人たちを、消すの」
「必要ない。そんな連中のために、力を使うな」
ヴァレルが短剣を振るった。
切っ先は、エルネが抱く万象解体書の周囲にある空間だけをなぞった。
黒い線が、本を囲むように走る。
次の瞬間。
万象解体書が、エルネの腕の中から消えた。
「――え?」
同時に、ヴァレルの左手へ重みが落ちる。
切り取られた空間ごと引き寄せられた万象解体書を、彼は片手で受け止めた。
《現所有者との距離が認証許容範囲を超過》
《接続を解除》
その言葉と同時に、石橋を覆っていた蒼い炎が消えた。
揺らぐこともない。
砕け散ることもない。
初めから存在しなかったかのように、すべての光が一瞬で失われる。
レドガーたちを縁取っていた蒼い筋も消えた。
解放された三人は、その場へ崩れ落ちる。
エルネの瞳から蒼い色が抜けた。
持ち上げていた手が、力なく下がる。
「……あ」
膝が折れた。
エルネは石橋の上へ、そのままへたり込んだ。
呼吸がうまくできない。
視界が揺れる。
耳の奥で、自分の心臓の音だけが大きく響いていた。
「エルネさん!」
リシアの声。
すぐ近くにいるはずなのに、ひどく遠く聞こえる。
『エルネ。応答してください』
ロゴスの声も戻っていた。
けれど、何を答えればいいのか分からない。
エルネはゆっくりと周囲を見回した。
消えた欄干。
大きく抉られた石畳。
半分だけ失われた木。
破片も、灰も残っていない。
そこにあったものだけが、跡形もなく消えている。
レドガーたちは地面へ座り込んだまま、動こうとしなかった。
さっきまでの威勢は消え、青ざめた顔でエルネを見ている。
その目に浮かんでいるのは、怒りでも敵意でもない。
ただ、恐怖だけだった。
「これ……」
エルネの唇が震える。
「私が、やったの……?」
誰も答えない。
視線を動かす。
少し離れた場所に、マリエルがいた。
傷ついた腕を胸元へ抱え、身体を震わせている。
「マリー……」
エルネが呼ぶ。
マリエルの肩が、わずかに跳ねた。
その反応を見た瞬間、胸の奥が冷たく沈む。
「私……」
自分の手を見る。
血も、炎も、魔力の痕跡さえ残っていない。
なのに、周囲だけが消えている。
「今、私……何を……」
言葉が続かなかった。
その時。
ヴァレルの手に収まっていた万象解体書が、激しく震えた。
閉じていた表紙の隙間から、青い光が漏れる。
「まだ戻るか」
ヴァレルが指へ力を込める。
だが、本は彼の手から抜け出した。
青い軌跡を描き、へたり込むエルネの胸元へ飛び込む。
エルネは反射的にそれを抱き締めた。
万象解体書は静かに表紙を閉じ、そのまま動かなくなった。
『万象解体の停止を確認しています』
ロゴスが告げる。
『現時点で再執行の兆候はありません』
エルネは本を抱いたまま、もう一度マリエルを見た。
マリエルも、エルネを見ていた。
助けを求めていた少女。
守りたかった友達。
けれど、その顔に浮かんでいるのは安堵だけではなかった。
怯え。
確かな恐怖が混じっている。
「違うの」
声が震える。
「私は、マリーを助けたくて……」
マリエルの唇が動いた。
だが、声は出なかった。
エルネが立ち上がろうとする。
足に力が入らない。
それでも手をつき、少しだけ身体を前へ動かした。
マリエルの身体が強張る。
傷ついた腕を庇うように、一歩だけ後ろへ下がった。
エルネの動きが止まる。
「エルネさん」
リシアがようやく近づいてくる。
けれど、その足取りは慎重だった。
水帯を解いてはいない。
警戒するように、身体の周囲へ残している。
「大丈夫ですか」
「……分からない」
「その本を、一度こちらへ」
エルネは万象解体書を見下ろした。
渡さなければならない。
そう思う。
けれど、腕は本をさらに強く抱き締めていた。
『私との接続は維持されています』
ロゴスが言う。
『しかし、万象解体書の深層機能については解析不能です』
(また、あれが起きる?)
『否定も肯定もできません』
エルネの指先が震える。
レドガーたちも。
リシアも。
マリエルも。
全員が、自分と腕の中の本を見ている。
化け物を見るような目で。
「来い」
ヴァレルが手を差し出した。
エルネは顔を上げる。
「……どこに?」
「ここではない場所だ」
「どうして」
「お前は今、この場にいるべきではない」
リシアの水帯が揺れた。
「エルネさんから離れてください」
ヴァレルはそちらを見もしない。
「今のお前たちに、この女を止められるのか?」
「だからといって、あなたへ渡す理由はありません」
「止めることも、書から引き離すこともできなかった」
リシアの表情が強張る。
「私にはできる」
ヴァレルはエルネだけを見ていた。
万象解体書にも。
蒼い炎にも。
エルネにも。
恐怖を見せていない。
「お前の力が何なのか」
差し出した手は動かない。
「なぜ書がお前に応じるのか」
静かな声だった。
「知りたければ来い」
『推奨できません』
ロゴスの声が響く。
『ヴァレルへの同行は危険です』
(でも)
エルネはマリエルを見た。
目が合う。
マリエルの瞳が揺れた。
何かを言おうとしている。
止めようとしているのかもしれない。
けれど、その手はエルネへ伸びなかった。
リシアも水帯を構えたまま、距離を保っている。
ヴァレルだけが、迷わず手を伸ばしていた。
(先生は、私を止めた)
『あなたを守るためです』
(マリーは、私を怖がってる)
『現在は混乱しています』
(リシアも)
『時間を置けば、状況は整理できます』
(でも、この人は怖がってない)
『それは安全であることを意味しません』
分かっている。
ヴァレルが味方ではないことくらい。
カレンやクラリスを傷つけた男。
自分を連れ去ろうとした敵。
それでも。
今、この場所で自分を見ている者の中で、ヴァレルだけが怯えていなかった。
「エルネさん」
リシアが一歩、前へ出た。
「待ってください。こちらへ戻って」
伸ばされかけた手。
だが、その手は途中で止まる。
エルネの視線が、そこへ落ちた。
ヴァレルの手は、まだ差し出されたままだった。
「来い」
もう一度。
エルネは万象解体書を胸へ抱き締める。
そして、小さく頷いた。
「……うん」
「エルネさん!」
リシアの水帯が伸びる。
同時に、ヴァレルがエルネの手を掴んだ。
黒い亀裂が二人の周囲へ走る。
空間が布のように裂け、その向こうに何もない虚空が開いた。
「エルネ!」
マリエルの声が響く。
初めて、はっきりと届いた声。
エルネが振り返る。
マリエルが立ち上がり、傷ついた腕を押さえながら手を伸ばしていた。
その顔には、まだ恐怖が残っている。
けれど、それだけではなかった。
「行かないで!」
エルネの足が止まりかける。
ヴァレルの手が強く引いた。
腕の中で万象解体書が青く光る。
『エルネ!』
ロゴスの声が重なった。
黒い裂け目が閉じる。
二人の姿は、万象解体書ごと虚空へ消えた。
あとに残ったのは、蒼い炎に削り取られた石橋と。
届かなかったマリエルの手だけだった。




