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第七十八話 執行条件を受理

 地面に落ちた肩鞄を、エルネは震える手で拾い上げた。


「マリー……」


 見慣れた鞄だった。


 昨日まで、焼き菓子や飲み物を入れて持ち歩いていたもの。


 留め具が壊れ、中から白い布包みが半分ほど覗いている。


 けれど、持ち主だけがいない。


『北西方向へ移動する複数の反応を確認』


(どこ?)


『町外れへ向かっています。距離、約百八十メートル』


 エルネは走り出した。


「待ちなさい!」


 セレスティアの声が背中から飛ぶ。


 だが、足を止められなかった。


「エルネさん!」


 リシアが追ってくる。


「一人で行かないでください!」


「マリーが連れていかれた!」


「分かっています!」


 崩れた屋台を飛び越え、黒煙の残る通りへ入る。


 足が重い。


 魔力を使いすぎた身体は、少し走っただけで息が上がった。


 それでも止まれない。


(先生、近道は?)


『次の路地を右。その先の階段を降りてください』


 エルネは角を曲がった。


 細い裏道。


 祭りの喧騒から外れたそこには、倒れた木箱と荷車が転がっている。


 石段の途中に、血が落ちていた。


 ほんの数滴。


 赤い跡が、町外れへ続いている。


「マリーの……?」


『血液量は少量です』


(少量でも血は血だよ!)


 胸の奥が熱くなる。


 息苦しい。


 何かが内側から押し広がってくる。


「エルネさん、落ち着いてください」


 追いついたリシアが隣を走る。


「敵はマリエルを盾として利用しています。こちらが冷静さを失えば――」


「冷静でいたら、助けられるの?」


「助けるために冷静でいるのです」


 正しい。


 そんなことは分かっている。


 それでも、石畳へ落ちた血を見るたび、胸の奥の熱が強くなる。


 町外れへ近づくにつれ、建物が減っていく。


 やがて道は、夏草の生い茂る古い水路跡へ出た。


 その先。


 壊れかけた石橋の上に、レドガーたちがいた。


 三人。


 その中央で、マリエルが腕を掴まれている。


「マリー!」


 呼びかけると、マリエルが顔を上げた。


「エルネ!」


 頬に赤い跡がある。


 腕には、剣で浅く切られた傷。


 白い袖が血で濡れていた。


 エルネの足が止まる。


「来るな!」


 レドガーが剣をマリエルの首元へ当てた。


「それ以上近づけば、こいつを斬る」


「離して」


「聞こえなかったか?」


「マリーを離して」


 自分の声なのに、ひどく遠く聞こえた。


 レドガーが笑う。


「怪物を止めて、俺たちの計画を潰して、まだ足りねえのか?」


「その子は関係ないでしょう」


 リシアが水を周囲へ巡らせる。


「関係ならある」


 レドガーはマリエルの腕を強く引いた。


「こいつがいれば、お前らは動けない」


 マリエルが痛みに顔を歪める。


「やめて!」


 エルネが一歩踏み出した。


 剣先が、マリエルの首へさらに近づく。


 薄い傷が走り、赤い血が一筋だけ流れた。


「次はもっと深くいくぞ」


 胸の奥で、何かが切れた。


 魔獣を痛めつけた。


 町へ火をつけた。


 人を脅し、奪い、逃げるためにマリエルを傷つけた。


 なのに、目の前の男は笑っている。


(先生)


『はい』


(虚圧弾を使う)


『対象を指定してください』


 エルネはレドガーを見た。


(あの人。剣を持ってる腕を壊す)


 ロゴスが一瞬、沈黙した。


『推奨できません』


(腕だけなら、マリーを助けられる)


『現在の精神状態では、出力と照準の安定性を確保できません』


(できる)


『否定します』


 エルネは掌を向けた。


 レドガーの腕。


 剣を握る手。


 そこへ、小さな空白を作る。


「エルネさん!」


 リシアの声が響く。


「待ってください!」


「待てない」


「その距離では、マリエルも巻き込みます!」


「巻き込まない」


 虚圧弾を小さくする。


 剣だけ。


 腕だけ。


 マリエルから離れたところだけを狙う。


(先生。照準を)


『拒否します』


 初めて聞く言葉だった。


(どうして?)


『対象は、マリエルを人質として利用する意思を明確に示しています』


(だから、早く止めないと)


『人質としての価値を維持する限り、対象が直ちにマリエルを殺害する可能性は低いと判断します』


(でも、傷つけてる!)


『致命傷を与える行動とは区別されます。現時点で、高出力魔法を人体へ行使する合理的必要性は認められません』


 ロゴスの声は、いつもと変わらず冷静だった。


 正しいことを言っているのかもしれない。


 だが、エルネには血を流すマリエルが見えている。


(傷ついてるのに、待てっていうの?)


『リシアと連携し、拘束を解除する手段を算出します』


(間に合わなかったら?)


『対象の行動を継続して予測します』


(予測じゃなくて、助けて!)


 エルネの掌の先に、空気の歪みが生まれる。


 レドガーの腕へ照準を合わせる。


『照準補助を停止します』


 歪みが揺らいだ。


 集まりかけていた魔力が散り、虚圧弾は形を失う。


「……先生?」


『この攻撃には協力できません』


 レドガーが、エルネの掌を見た。


 何も起きない。


 その口元が歪む。


「もう魔法も使えねえのか?」


 剣がマリエルの首元から離れる。


 エルネは一瞬、息をついた。


 だが、刃先はそのままマリエルの肩へ向けられた。


「なら、少しは大人しくなるように――」


「やめて!」


 剣が振り下ろされる。


 マリエルが身を捩った。


 刃は肩を外れたが、その腕を深く切り裂く。


「きゃあっ!」


 赤い血が飛んだ。


 エルネの視界が真っ白になる。


「マリー!」


 リシアが水帯を放つ。


 だが、盗賊の一人がマリエルを引き寄せ、身体を盾にした。


 水帯が空中で止まる。


「次は外さねえ」


 レドガーが再び剣を持ち上げる。


 マリエルは腕を押さえ、膝をついていた。


 血が指の間から溢れている。


(先生)


『対象の行動予測を修正。攻撃性が想定値を上回っています』


(もういい)


『エルネ。別の手段を――』


(先生は、マリーを助けてくれなかった)


『それは事実と異なります』


(止められたのに)


『人体への攻撃は、あなた自身へ重大な影響を――』


(止められたのに!)


 ロゴスの声が続く。


 けれど、もう頭には入ってこなかった。


 目の前にあるのは、血に濡れたマリエルの腕だけ。


 あの時、虚圧弾を撃っていれば。


 ロゴスが止めなければ。


 自分がもっと強ければ。


 マリエルは傷つかなかった。


 その時。


 腕に抱えていた万象解体書が、ひとりでに震え始めた。


 表紙の奥で、何かが脈打つ。


 どくん。


 どくん。


 エルネの心臓と重なるように。


『万象解体書の反応が増大しています』


 ページの隙間から、蒼い光が漏れた。


 これまでにも何度か見た光。


 けれど、今までとは違う。


 光には熱がなかった。


 冷たく、深く、何もかもを呑み込むような蒼だった。


『エルネ。本から手を離してください』


 腕が動かない。


 本を抱いているのではない。


 本の方が、エルネの腕へ吸いついている。


 かすかな声が聞こえた。


 ロゴスではない。


 もっと近い。


 頭の内側ではなく、心の底へ直接触れてくるような声。


《止められるのに》


 エルネは息を止めた。


《あなたには、その力があるのに》


 責める声ではなかった。


 優しく、当然のことを教えるような囁きだった。


 だからこそ、拒むことができなかった。


 レドガーが剣を振り上げる。


 血に濡れたマリエルが、恐怖に顔を歪めている。


 止められる。


 自分なら止められる。


 ロゴスが協力しなくても。


 もっと強い力を使えばいい。


「どうするの」


 声が口から漏れた。


 リシアがエルネを見る。


「エルネさん?」


「どうやればいいの」


 エルネは、蒼い光だけを見つめている。


《意思を示してください》


 万象解体書の留め金が、ひとりでに外れた。


 閉じていた表紙が開く。


 紙が風もないのに激しくめくれ始めた。


 文字が浮かび、崩れ、別の形へ組み替わっていく。


『停止してください』


 ロゴスの声が強くなる。


『エルネ、それは使用してはいけません』


 返事はない。


 エルネの瞳には、紙面から溢れる蒼い光だけが映っていた。


『私の声が聞こえていますか』


 肩にも、指先にも、反応はない。


 まるでロゴスの声だけが、エルネの意識から切り離されてしまったかのようだった。


 レドガーが苛立ったように剣を動かす。


「さっきから何をぶつぶつ言ってやがる!」


 刃先が、マリエルの首元へ近づく。


 血に濡れた腕。


 恐怖に歪んだ顔。


 それを見た瞬間、エルネの中から迷いが消えた。


「消して」


 ひどく静かな声だった。


「友達を傷つける人なんて、みんな消して」


《現所有者エルネ・フィルに万象解体の意思を確認》


『違います。エルネ、意思を撤回してください』


 ページの動きが止まった。


 一枚の紙面に、蒼い文字が浮かび上がる。


《執行条件を受理》


『エルネ!』


《万象解体を執行します》


 光が溢れた。


 足元から。


 空から。


 万象解体書を中心に、世界そのものへ蒼の亀裂が走る。


 石橋。


 水路。


 草木。


 盗賊たち。


 すべての輪郭が、蒼い炎に照らし出される。


『蒼炎針(アズール・ニードル)ではない』


 ロゴスの声に、初めて明確な動揺が混じった。


『いったい何を――』


 蒼い光が、世界を覆った。

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