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第七十七話 届かなかった手

 風と水が、魔獣の巨体へ絡みついた。


「右へ引きます!」


 リシアが両腕を振る。


 湖面から持ち上がった水帯が、魔獣の首と前脚へ巻きついた。


 反対側から、セレスティアの風が押し込む。


 巨大な身体が、わずかに白い岩場の方へ向きを変えた。


「もっと右です!」


 マリエルが湖岸を走りながら叫ぶ。


「あの岩の手前! そこから急に浅くなります!」


 魔獣が苦しげに咆哮する。


 背中へ突き刺さった主杭が赤黒く脈打つたび、全身を走る黒い筋が濃くなった。


 痛みから逃れようとしているのか、魔獣は水帯へ噛みつき、尾を激しく振り回す。


「来ます!」


 リシアの声。


 巨大な尾が湖面を割った。


 セレスティアが片手を上げる。


「伏せなさい!」


 横殴りの風が尾の軌道へぶつかった。


 完全には止められない。


 それでも向きを逸らされた尾は、湖岸の手前へ叩きつけられた。


 石畳が砕け、水飛沫がエルネたちを覆う。


「このままでは、浅瀬へ入る前に拘束が切れます!」


「分かっているわ」


 セレスティアの足元には、細かな亀裂が走っていた。


 魔獣の力を風だけで押し返し続けている。


 雷なら、もっと簡単に動きを止められる。


 だが、住民の避難はまだ終わっていない。


 湖面に雷を流すわけにはいかなかった。


「エルネ」


 セレスティアが魔獣から目を離さずに言う。


「浅瀬へ入れたら、すぐに杭を壊しなさい」


「はい!」


「失敗した場合は?」


「もう一度やります」


「そうではなくて――」


 セレスティアが何かを言いかける。


 魔獣の口元へ湖水が集まった。


『高密度水塊を確認』


「水弾が来ます!」


 エルネの声と同時に、水塊が放たれた。


 狙いは湖岸ではない。


 魔獣を縛る水帯だった。


「リシア!」


 水弾が直撃する。


 水帯が弾け、リシアの身体が後ろへ投げ出された。


「きゃっ!」


 エルネが駆け寄る。


 だが、リシアは石畳へ手をつき、すぐに立ち上がった。


「大丈夫です!」


「でも、手が――」


「今は魔獣を!」


 手のひらから血が滲んでいる。


 それでもリシアは再び両腕を広げた。


 砕けた水が集まり、細い帯へ戻っていく。


「一度に縛れないなら、足だけでも止めます」


 水帯が湖面を走り、魔獣の前脚へ巻きついた。


 セレスティアの風が背後から巨体を押す。


 一歩。


 さらに一歩。


 魔獣の腹が湖底へ触れ、水面から現れる背中の面積が増えていく。


「浅瀬に入りました!」


 マリエルが叫んだ。


 青黒い鱗の間から、主杭がはっきりと姿を見せる。


 根元は深く食い込み、周囲の鱗まで赤黒く変色していた。


(先生。狙える?)


『距離、約二十七メートル。杭の露出部を確認しました』


(虚圧弾で壊せる?)


『空気中からでは、周囲の鱗を損傷する可能性があります』


 エルネは唇を噛んだ。


 杭の周囲は、湖水に半分ほど浸かっている。


 水の中では、空気よりも強く周囲が流れ込む。


 その分、杭を壊す力も強くなる。


 だが、少しでも照準がずれれば、魔獣の身体へ直接ぶつかる。


(杭の中だけに作れない?)


『現状の精度では困難です』


(じゃあ、どこなら?)


『杭と鱗の隙間。接続部の外側へ低圧領域を形成します』


 主杭が再び光った。


 魔獣が頭を振り上げる。


 水帯が一本、引きちぎられた。


「エルネ、まだですか!」


 リシアが叫ぶ。


「もう少し!」


「もう少しが長いわね」


 セレスティアの風が軋むような音を立てる。


「会長!」


「集中しなさい。こちらは持たせるわ」


 エルネは魔獣の背だけを見た。


 杭。


 鱗。


 その間を流れる赤黒い魔力。


 杭へ直接ぶつけるのではない。


 根元の周囲へ、何もない場所を作る。


 湖水を一斉に流れ込ませ、外側から接続部を砕く。


(先生。補正をお願い)


『承知しました』


 エルネは掌を向ける。


 魔力を細く伸ばす。


 空気の中を通り、湖面へ触れ、その下へ潜らせる。


 いつもの虚圧弾より、はるかに遠い。


 水へ入った瞬間、魔力の感触が変わった。


 重い。


 周囲から押し潰されるような圧力が、細い魔力の線を伝ってくる。


『照準が左へ逸れています』


(戻す)


『〇・三度右へ』


 主杭の根元。


 鱗との間。


 ほんのわずかな隙間へ、照準を合わせる。


「何をしてやがる!」


 背後で男の声がした。


 拘束を逃れた盗賊が、エルネへ向かって走ってくる。


「エルネ!」


 マリエルが叫ぶ。


 エルネは振り返れない。


 今、視線を外せば照準がずれる。


 男が剣を振り上げた。


 その足元へ風が吹きつける。


「邪魔しないで!」


 マリエルが両手を突き出していた。


 男の身体がよろめく。


「このガキ!」


 剣の向きがマリエルへ変わった。


「マリー!」


 集中が揺らぐ。


『照準が外れます』


(でも!)


「こっちは大丈夫!」


 マリエルは風を連続して放ち、男を近づけさせまいとしていた。


「エルネは、そっちをやって!」


 盗賊の足へ水の帯が絡みつく。


 リシアが片手だけをエルネたちへ向けていた。


「任せてください!」


 男が地面へ引き倒される。


 エルネは再び主杭へ集中した。


『照準を再取得』


(お願い)


『形成開始』


 主杭の根元に、小さな歪みが生まれる。


 水中では光すら揺らいで見えた。


 周囲の湖水が、歪みへ向かって流れ始める。


 魔獣が異変に気づいたように身を捩った。


「動きます!」


「押さえます!」


 リシアが残る水帯をすべて引き絞る。


 セレスティアの風が魔獣の背を押さえ込む。


 主杭が激しく明滅した。


 赤黒い魔力が、形成中の低圧領域へ流れ込もうとする。


『術式による干渉を確認』


(負けない)


『形成率、七十パーセント』


 魔獣の尾が持ち上がる。


 風の拘束に亀裂が走った。


『八十五』


「エルネ!」


 セレスティアの声。


『九十七』


(今!)


『形成完了』


「虚圧弾《インプロージョン・ボルト》!」


 湖水が消えた一点へ殺到した。


 外へ爆ぜる音はない。


 代わりに、湖の底から腹へ響くような鈍い衝撃が伝わる。


 主杭の根元が内側へ潰れた。


 赤黒い光が乱れる。


 だが、折れない。


「もう一発!」


『同一箇所へ連続形成します』


 エルネは掌を下ろさなかった。


 亀裂へ魔力を差し込む。


 再び、小さな低圧領域を作る。


 魔獣が暴れ、照準が大きくずれた。


「止まって!」


 マリエルが湖岸から叫ぶ。


「もう少しだから!」


 言葉が通じたわけではない。


 それでも魔獣の動きが、一瞬だけ鈍った。


 痛みに疲れ果てているのかもしれない。


 その一瞬で、ロゴスが照準を戻す。


『形成完了』


「虚圧弾!」


 二度目の圧壊が、亀裂の奥へ集中した。


 主杭の外殻が砕ける。


 内部から赤黒い光が漏れた。


「まだ残ってる!」


『内部術式が稼働中です』


(壊す!)


 三発目。


 今度は低圧領域をさらに小さく絞る。


 砕けた外殻の内側。


 赤黒い魔力が集まる核へ。


『照準固定』


「これで――!」


 周囲の湖水が一点へ押し寄せた。


 主杭の内部で、何かが潰れる音がした。


 赤黒い光が消える。


 同時に、杭が根元から折れた。


 黒い金属片が湖へ落ちる。


 魔獣の全身を走っていた黒い筋が、端から薄れていった。


 巨体が力を失い、湖面へ沈む。


「沈んだ!」


 マリエルが悲鳴を上げる。


「違います」


 リシアが水帯を解く。


「力が抜けただけです」


 しばらくして、魔獣の頭が水面へ浮かび上がった。


 荒かった呼吸が、ゆっくりと落ち着いていく。


 背中から流れる血も、湖水へ薄く広がるだけだった。


 魔獣は町へ向かわない。


 セレスティアたちを襲おうともしない。


 ただ疲れ切ったように、浅瀬へ身体を横たえている。


「終わった……?」


 マリエルが呟く。


『主杭の機能停止を確認しました』


 エルネの腕から力が抜ける。


「終わった」


 その場へ座り込みそうになり、マリエルが肩を支えた。


「エルネ!」


「大丈夫。ちょっと疲れただけ」


「全然大丈夫に見えないよ」


 リシアも近づいてくる。


「短時間に魔法を使いすぎです」


「でも、助けられた」


 エルネは湖を見る。


 魔獣はゆっくりと首を上げた。


 一瞬だけ、金色の瞳がエルネを捉える。


 敵意は感じない。


 魔獣は小さく喉を鳴らすと、身体を湖の中央へ向けた。


 大きな背が水中へ沈み、長い鰭だけが水面を切る。


 やがて、その姿も深い青の中へ消えた。


 湖岸に静寂が戻る。


 次いで、避難していた住民たちから歓声が上がった。


「魔獣が帰ったぞ!」


「助かった!」


 抱き合う人々。


 座り込む者。


 泣き出す子供。


 エルネはようやく息を吐いた。


「会長」


 振り返る。


 セレスティアは湖ではなく、船着き場の奥を見ていた。


「まだ終わっていないわ」


 低い声だった。


 レドガーたちがいない。


 杭を守っていた盗賊の多くは拘束されている。


 だが、騒ぎの中心にいたレドガーと数人の仲間だけが、いつの間にか姿を消していた。


「逃げた?」


 リシアが周囲を見回す。


「町の混乱に紛れたようね」


「追わないと」


 エルネが立ち上がろうとする。


 足に力が入らない。


「あなたは休みなさい」


「でも――」


「今の状態で追えば、足手まといになるわ」


 厳しい言葉だった。


 けれど、否定できない。


「町の自警団へ特徴を伝えます」


 リシアが言う。


「街道にも連絡を回せば、簡単には逃げられません」


 セレスティアが頷く。


「マリエル。町の人たちと一緒に、安全な場所へ移動しなさい」


「はい」


 マリエルはエルネの肩を支えたまま答えた。


「エルネも連れていきます」


「お願いするわ」


 二人は湖岸から離れ始める。


 祭りの広場には、まだ倒れた屋台や荷物が散乱している。


 住民たちは怪我人を運び、互いの無事を確かめていた。


「助かったね」


 マリエルが言う。


「うん」


「魔獣も、町の人も」


「うん」


「エルネがいてくれてよかった」


 エルネは返事をしようとした。


 その時。


 ロゴスの声が響く。


『背後から高速で接近する反応』


(え?)


 振り返るより早く、何かが二人の間へ投げ込まれた。


 小さな黒い球。


 石畳へ落ちた瞬間、濃い煙が噴き出す。


「マリー!」


「エルネ!」


 視界が黒く染まった。


 手を伸ばす。


 指先がマリエルの腕へ触れた。


 だが、その身体が強く後ろへ引かれる。


「離して!」


 マリエルの悲鳴。


 煙の向こうに、男の影が見えた。


 レドガーだ。


「こっちの方が使えそうだ」


 マリエルの首元へ、剣が押し当てられる。


 エルネは立ち上がろうとした。


 足がもつれ、膝をつく。


「マリーを離して」


「追ってくるな」


 レドガーが笑う。


「次は脅しじゃ済まさねえ」


 盗賊たちが煙の中へ後退していく。


 マリエルが必死に手を伸ばした。


「エルネ!」


「マリー!」


 二人の指先が離れる。


 煙が風に流された時には、レドガーたちの姿はもうなかった。


 残っていたのは、地面へ落ちたマリエルの肩鞄だけだった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

別作品として、人生をやり直した勇者が今度こそ正しい成長を目指す

『強くてニューゲーム? そんな都合のいい話はありません』も連載中です。

https://ncode.syosetu.com/n4786mm/

ご興味がありましたら、上記のリンクよりご覧ください。

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