第七十四話 今度は、私が守るから
魔獣の咆哮が、湖畔の空気を震わせた。
祭りのために張られていた白い布が一斉にはためき、湖岸へ並べられた灯籠が倒れていく。
巨大な魔獣が、水面から身を乗り出した。
青黒い鱗に覆われた胴体は、船着き場の小舟よりも太い。背から伸びた長い鰭が水を切るたび、湖面に大きな波が生まれる。
その背には、赤黒く光る鉄杭が深々と突き刺さっていた。
「全員、広場から離れなさい!」
セレスティアの声が響く。
怒鳴ったわけではない。それでも魔力を帯びた声は、悲鳴と混乱に呑まれた広場の隅々まで届いた。
「走らないこと。湖を背にして、町の中央へ移動しなさい」
我先に逃げようとしていた人々の足が、わずかに揃う。
セレスティアが片手を上げた。
湖から押し寄せた波へ横殴りの風がぶつかり、水の壁を左右へ割る。
「リシア」
「はい」
リシアが両手を広げた。
石畳を走っていた湖水が二本の帯となって持ち上がり、逃げる人々の足元を避けながら排水路へ流れ込んでいく。
「エルネ、マリエルを連れて下がりなさい」
「でも――」
「今は人を守ることを優先して」
魔獣が大きく首を振った。
開かれた口元へ湖水が集まり、巨大な水塊となって圧縮されていく。
『高密度の水塊形成を確認』
次の瞬間、水弾が逃げる人々へ放たれた。
「危ない!」
エルネは反射的に前へ出た。
迫る水弾を包む魔力の流れへ、細い軌道を差し込む。
「流転軌!」
両腕へ、訓練とは比べものにならない重さが伝わった。
足元の石畳が軋む。
『全体への干渉は不要です。下方へ進行方向を変更してください』
(分かってる!)
エルネは干渉する位置を、水弾の下側だけへ絞った。
水弾がわずかに傾き、広場の手前へ激突する。
轟音とともに水が高く舞い上がり、冷たい雨となって降り注いだ。
逃げていた人々は濡れただけで、直撃を免れる。
「エルネ!」
リシアの声が飛んだ。
「大丈夫!」
答えたものの、両腕が痺れていた。
湖岸では、レドガーたちが武器を構えている。
「俺たちが魔獣を押さえる!」
仲間の一人が弓を引き、魔獣の首へ矢を撃ち込んだ。
矢尻から赤い煙が広がる。
魔獣は怯むどころか、さらに激しく水面を叩き始めた。
「効いてる!」
マリエルが言う。
だが、エルネには違って見えた。
魔獣は怒っているのではない。
苦しんでいる。
矢から流れ出した赤黒い魔力が、背中の杭へ吸い込まれていた。
『矢に苦痛反応を増幅する術式を確認』
(倒すための矢じゃない?)
『肯定します』
レドガーたちは、魔獣をさらに暴れさせようとしている。
「エルネ!」
マリエルが腕を引いた。
町の奥から黒煙が上がっている。
「市場の方にも人がいる!」
警鐘は鳴り続けていた。
湖岸の混乱へ紛れるように、町の中からも悲鳴が聞こえてくる。
「リシア、町へ向かいなさい。火を止めて、避難路を確保して」
「承知しました」
「エルネはマリエルと一緒に。町の道は彼女の方が詳しいわ」
「私も手伝います」
マリエルが言う。
「逃げ道なら分かります。怪我をした人も案内できます」
セレスティアは一瞬だけ彼女を見た。
「無理はしないこと。戦おうとは考えないで」
「はい」
「エルネ」
「守ります」
エルネは答えた。
「マリーは、私が守ります」
マリエルが少し驚き、すぐに笑った。
「私もエルネを案内するからね」
三人は湖岸を離れた。
◇
市場へ続く通りは、すでに祭りの面影を失っていた。
露店は倒れ、商品が道へ散らばり、倉庫から炎が上がっている。
「水を回します」
リシアが近くの水路から水を引き上げ、燃える屋根へ叩きつけた。
「エルネさんは、マリエルと避難している人をお願いします」
「分かった」
二人は市場の奥へ走る。
「あっちに裏道があるよ!」
マリエルが細い路地を指した。
「大通りより狭いけど、別邸の近くまで続いてる」
「逃げてる人をそっちへ案内しよう」
曲がり角を抜ける。
その先で、数人の住民が壁際へ追い詰められていた。
前に立つのは、剣を持った二人の男。
祭りの広場へ現れた、レドガーの仲間と同じ旅装だった。
「金庫はどこだ」
一人が、祭り着の上に黒い上着を羽織った執事風の老人の胸倉を掴んでいる。
「旦那様の屋敷には、そのようなものはございません」
「嘘をつけ。別荘を持つような貴族が、何も置いてねえわけがないだろ」
男は老人を壁へ押しつけた。
もう一人は逃げ道を塞ぎ、怯える住民たちへ剣を向けている。
「屋敷に残っている人数も言え。黙ってるなら、順番に聞いてやる」
「冒険者……?」
マリエルが足を止める。
男がこちらを振り返った。
「子供は引っ込んでろ」
エルネが前へ立つ。
「その人たちから離れて」
男は老人を放り出し、剣を構えた。
「湖の化け物に食われる前に逃げろ」
「人を襲ってるのはあなたたちじゃない!」
「だったら何だ」
男が剣を振り上げる。
エルネは刃へ流れる魔力を読み、その軌道へ最小限の力を差し込んだ。
「流転軌!」
剣先が斜めへ流れ、石壁を叩く。
もう一人が背後から回り込む。
その足元へ風が巻き起こり、踏み込みが崩れた。
「エルネ!」
マリエルが両手を構えている。
「戦わなくていいって言ったでしょう!」
「今はそれどころじゃないよ!」
エルネは男の靴へ磁界釦を打ち込んだ。
足が石畳へ固定され、男は勢いのまま転倒する。
最初の男が剣を引き戻すより早く、腕へもう一つ磁界釦を打ち込む。
男の腕が壁へ固定された。
「なっ――」
「マリー、みんなを案内して!」
「分かった!」
マリエルが住民たちのもとへ走る。
「この先を右へ曲がれば、大通りの裏へ出ます! 走らないで、順番に!」
執事風の老人が、よろめきながら頭を下げた。
「ありがとうございます」
「早く行って!」
住民たちが路地の奥へ逃げていく。
残された男たちは、身体を固定されたまま悪態をついていた。
胸元から銀色の認識票が覗いている。
だが、名前と所属を刻んでいた部分だけが刃物で削られていた。
「この人たち、本当に冒険者なの?」
戻ってきたマリエルが尋ねる。
「昔はそうだったのかもしれない」
資格を失った冒険者。
それでも認識票を利用し、町へ入り込んだのだ。
遠くで魔獣が咆哮した。
同時に、路地の壁際から赤黒い光が漏れる。
「何?」
マリエルが積まれた木箱へ近づいた。
「待って。私も動かす」
二人で木箱をずらす。
その後ろには、黒い鉄杭が石畳へ深く打ち込まれていた。
「こんなもの、昨日はなかった」
杭の表面に刻まれた文字が、心臓のように脈打つ。
エルネの目には、そこから赤黒い魔力の筋が地中へ伸びているのが見えた。
細い筋は石畳の下を這い、町を抜け、湖の方角へ続いている。
(先生。この魔力、どこにつながってるの?)
『追跡します』
杭が強く明滅した。
その瞬間。
湖の魔獣が身体を大きく仰け反らせた。
背へ突き刺さった主杭も、同じ間隔で赤黒く光っている。
魔獣は苦しげに尾を振り、裏道から遠ざかる方向へ身体を向けた。
『接続を確認しました』
(この杭と、背中の杭がつながってる?)
『肯定します。地中の鎖と魔力経路を介し、背部の主杭へ信号を送っています』
裏道の杭が再び脈打つ。
湖から悲鳴が響いた。
今度は偶然ではない。
杭が光るたび、魔獣の背へ苦痛が走っている。
(これが、魔獣を操ってるの?)
『厳密には命令ではありません。この杭が置かれた方向へ近づくほど、主杭から強い苦痛を与えています』
(痛くない方へ逃げさせてる?)
『肯定します』
エルネは湖と町の位置を思い浮かべた。
この杭は、湖から見て町の奥側にある。
この方向を避ければ、魔獣は反対側――湖岸の祭り広場へ向かう。
「この杭が、魔獣の背中に刺さってる杭とつながってる」
エルネが説明すると、マリエルが青ざめた顔で杭を見る。
「ここへ近づこうとすると、痛みを与えるみたい」
「じゃあ、魔獣は痛くない方へ逃げて……」
「祭りの広場へ向かわされる」
マリエルが唇を噛む。
魔獣は町を襲いたいわけではない。
杭によって、痛みから逃げ続けているだけなのだ。
「壊せる?」
エルネが杭へ触れる。
『構造解析を開始します』
内部には複雑な魔力経路があり、地中へ深く伸びていた。
磁界釦で引き抜こうとしても、杭はびくともしなかった。
『地中約二・八メートルまで固定されています』
「深すぎる……」
「掘るのは?」
「間に合わない」
杭が再び光り、湖から魔獣の悲鳴が響く。
周囲を巻き込まず、硬い杭の一点だけを壊す方法が必要だった。
(先生。方法はない?)
『候補があります』
(どんな?)
『杭の一部へ、周囲から力を集中させます』
(どうやって?)
『エルネ。人で埋まった広場を想像してください。その中央だけが突然空けば、どうなりますか』
(周りの人が、空いた場所へ入る)
『全員が同時に踏み込めば、中央で強くぶつかります』
(でも、ここには人はいないよ)
『空気があります』
エルネは思わず周囲を見た。
当然、何も見えない。
(空気がぶつかるの?)
『空気は目に見えませんが、周囲を満たしています。その一部だけを極端に薄くすれば、空いた場所を埋めるため、周囲から一斉に流れ込みます』
エルネは杭の継ぎ目を見る。
(杭の近くに空っぽの場所を作れば、周りの空気がそこへ集まる?)
『肯定します。流れ込む力を継ぎ目の一点へ集中させれば、外殻を破損させられる可能性があります』
(空っぽにする魔法……)
『完全な空洞は必要ありません。周囲より圧力の低い領域――低圧領域を形成します』
言葉は難しかった。
それでも、仕組みは分かる。
空いた場所を作る。
そこへ周囲の空気を集め、その力を杭の一点へぶつける。
「何か方法があるの?」
マリエルが尋ねた。
エルネは黒い杭を見つめたまま頷く。
「たぶん。ここだけ壊せるかもしれない」
「どうやって?」
「うまく説明できないけど、やってみる」
「そこから離れろ!」
背後から声が飛んだ。
路地の入口に、三人の男が立っていた。
レドガーとともに広場へ現れた者たちだ。
「その杭を見たな」
男の一人が、剣をマリエルへ向ける。
エルネはすぐに彼女を背へ庇った。
「魔獣を操っているのは、あなたたち?」
「だったら何だ」
「町を襲わせたのも?」
男は笑った。
「祭りに人を集めてくれたんだ。利用しない手はないだろう?」
魔獣が苦しんでいる。
町では炎が上がっている。
それを目の前の男たちは、自分たちの利益のために引き起こした。
「杭から離れろ」
三人が剣を構える。
「そうすりゃ見逃してやるよ」
「エルネ……」
マリエルが背後でエルネの服を掴んだ。
怖がっている。
それでも逃げようとはしなかった。
「大丈夫」
エルネは男たちを見据えた。
「今度は、私が守るから」
男たちが動く。
その背後で黒い杭が脈打ち、湖の魔獣が悲鳴を上げた。
エルネは掌を前へ向ける。
空気で満たされた場所へ、小さな空白を作る。
そこへ周囲の空気を一斉に押し寄せさせる。
(先生)
『はい』
(やってみる)
エルネの掌の先で、空気が小さく歪んだ。




