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第七十三話 水返しの祭り

 水返しの祭りの日は、夜が明ける前から町中が騒がしかった。


 別邸の窓を開けると、湖へ続く通りを何台もの荷車が行き交っている。


 荷台に積まれているのは、料理を入れた大鍋や樽、白い布を巻いた柱、まだ火の入っていない灯籠だった。


 湖から吹き込む風に乗って、焼いた魚と甘い菓子の匂いが漂ってくる。


「エルネ、起きてる?」


 扉を叩く音がした。


 返事をするより先に、マリエルが顔を覗かせる。


「入っていい?」


「もう入ってるよ」


「細かいことは気にしない」


 マリエルは両腕いっぱいに服を抱えていた。


 淡い青色の上着と、白い布を幾重にも重ねたスカート。どちらにも、水の流れを思わせる刺繍が入っている。


「これ、エルネの分」


「私の?」


「祭りの日は、町の女の子はみんな白か青を着るの」


「聞いてないよ」


「今、言ったから大丈夫」


 いつもの調子で服を押しつけられる。


「リシアの分もあるから、着替えたら下に来てね」


「会長の分は?」


「昨日渡したよ」


「受け取ったの?」


「受け取ってはくれた」


「着るとは言ってない?」


「うん」


 予想どおりだった。


 マリエルが部屋を出ていったあと、エルネは渡された服を広げた。


 学院の制服より軽く、袖も短い。腰に巻く白い帯には、小さな水滴を模した飾りがついている。


『祭礼用衣装と推定します』


 机の上に置いた万象解体書から、ロゴスの声がした。


「見れば分かるよ」


『着用に補助は必要ですか』


「自分で着られる」


 エルネは本を閉じ、鞄へ収めた。


 湖で泳いだ時とは違い、今日は多くの人間が集まる。


 セレスティアからも、万象解体書を肌身から離さないよう改めて言われていた。


 少しだけ重い鞄を肩へ提げる。


 それでも今日は、教団やヴァレルのことを考えないようにしたかった。


 マリエルが何日も楽しみにしていた祭りなのだ。


     ◇


 一階へ下りると、すでにリシアが待っていた。


 エルネと同じ青と白の衣装だが、リシアが着ると町の祭り着というより、どこか正式な礼装に見える。


「似合ってるね」


「ありがとうございます。エルネさんもよくお似合いです」


「普通です、とは言わないんだ」


「マリエルに便利な言葉だと言われましたので、使い方を考えています」


 本人なりに気にしていたらしい。


「二人とも、準備できた?」


 マリエルが食堂から駆けてくる。


 彼女は濃い青緑色の上着に、白い短めのスカートを合わせていた。腰に巻いた帯には、青い石を使った小さな杖の飾りが下がっている。


「やっぱり似合う!」


「マリエルも」


「私は毎年着てるからね」


 胸を張ったマリエルの後ろから、セレスティアが姿を現した。


 三人とも、同時に声を失う。


 セレスティアが着ていたのは、白を基調にした祭り着だった。


 青い刺繍の入った薄布を肩からまとい、長い裾は歩くたびに水面のように揺れている。


 学院で見る制服姿よりも柔らかく、それでいて町の誰よりも目を引いた。


「何かしら」


「着てくれたんですね!」


 マリエルが嬉しそうに駆け寄る。


「衣装に罪はないもの」


「似合ってます!」


「それはどうも」


 平然と答えているが、セレスティアは少しだけ居心地が悪そうだった。


「会長、少し目立ちすぎませんか?」


「私の責任ではないわ」


「セレスティア様が綺麗だからですよ」


「マリエル。今日はずいぶん口が達者ね」


「いつもです」


「自覚があるなら結構よ」


 四人が玄関を出ると、すでに通りには多くの人がいた。


 町の住民だけではない。


 別荘へ滞在している貴族や商人、その家族らしい者たちも、祭り着を身につけて湖へ向かっている。


 子供たちは白い布を結んだ小さな杖を手に持ち、走り回っていた。


「最初に水返しをするんだよ」


 マリエルが説明する。


「それが終わったら、食べたり遊んだりしていいの」


「食べることが中心なのですね」


「祭りなんだから当然でしょう?」


「祈りが中心なのかと思いました」


「祈りながら食べてもいいよ」


 湖岸の広場には、白い衣装を着た住民たちが列を作っていた。


 湖の手前には、大きな石の水盤が置かれている。


 一人ずつ木の器で湖水を汲み、水盤へ注いだあと、そこから再び湖へ返すらしい。


 水盤の奥には白い杖を模した長い祭具が立てられていた。


「町中の人がやるの?」


「全員じゃないよ。代表だけ」


「では、私たちは見ていればよいのですね」


「何言ってるの?」


 マリエルが不思議そうにリシアを見た。


「二人もやるよ」


「私たちは町の人間ではありませんが」


「今年はこの町で夏を過ごしたでしょう?」


「そういう決まりなの?」


「今決めた」


「またですか」


 いつの間にか、マリエルは三人分の木の器を持っていた。


 どうやら最初から参加させるつもりだったらしい。


 エルネは器を受け取った。


 列へ並び、順番を待つ。


 湖面は朝の陽射しを反射し、穏やかに輝いている。


 数日前に起きていた異変が嘘のようだった。


 魚が岸へ寄っていたことも、網が破られたことも、その後は大きな騒ぎになっていない。


 セレスティアも町の漁師たちへ確認したが、祭りを中止するほどの危険はないという判断になった。


 ただし、今日は湖へ舟を出さないことだけが決められている。


「次の方」


 声をかけられ、エルネは水際へ進んだ。


 器で湖水を掬う。


 透き通った水の中で、陽光が細かく揺れた。


 それを水盤へ注ぎ、再び器へ受ける。


「白杖様へ感謝を」


 祭りを取り仕切る老人が言った。


 エルネは少し迷い、湖を見た。


「水を、ありがとうございます」


 それから器を傾ける。


 返された水が湖面へ落ち、小さな波紋を作った。


 次はリシアだった。


 彼女も同じように水を返し、静かに一礼する。


 マリエルは慣れた様子で器を扱い、最後に小声で何かを付け加えていた。


「何をお願いしたの?」


 列から離れたあと、エルネが尋ねる。


「お願いじゃないよ」


「じゃあ、何を言ったの?」


「今年も楽しく過ごせています、って報告したの」


 マリエルが笑う。


「二人が来てくれたから、いつもより楽しい夏になったって」


 あまりにも自然に言われ、エルネは返事に詰まった。


「……私も楽しかったよ」


「まだ終わってないよ?」


「分かってる」


「なら、もっと楽しもう」


 マリエルはエルネとリシアの手を取り、露店の並ぶ広場へ走り出した。


     ◇


 祭りの広場は、昼が近づくにつれてさらに賑やかになった。


 三人は焼いた魚を分け、果実の蜜をかけた氷菓子を食べた。


 リシアは冷たいものを急いで口へ入れ、しばらく眉間を押さえていた。


「どうしたの?」


「何でもありません」


「頭が痛くなったんでしょう?」


「違います」


「涙が出てるよ」


「これは生理的な反応です」


「それを痛いって言うんだよ」


 エルネとマリエルが笑うと、リシアは少しだけ不満そうな顔で残りの氷菓子をゆっくり食べ始めた。


 広場の中央では、子供たちが水を入れた小球を投げ合っている。


 割れると、中の水が飛び散る遊びらしい。


 マリエルが参加しようと言い出し、三人は町の子供たちに混ざった。


「魔法は禁止だからね!」


「分かっています」


 リシアが答える。


 だが投げられた水球は、彼女の頬へ届く直前で、ほんの少しだけ進路を変えた。


「今、使ったでしょう?」


「風が吹きました」


「リシアは水魔法でしょう?」


「自然現象です」


「絶対使った!」


 そのやり取りを離れた場所から見ていたセレスティアが、扇で口元を隠しながら笑っている。


 学院では見たことのない、気の抜けた表情だった。


 エルネは水球を一つ持ち上げ、セレスティアへ狙いを定める。


 だが、投げる前に視線が合った。


 セレスティアが微笑む。


「よく考えてから投げなさい」


 エルネは水球を下ろした。


「どうしたの?」


「勝てない相手には挑まない方がいいと思って」


「賢明ね」


 結局、その水球はマリエルへ投げた。


「どうして私なの!」


「勝てそうだったから」


「ひどい!」


 マリエルが反撃する。


 エルネは逃げ、リシアが巻き込まれ、いつの間にか三人で水を掛け合っていた。


 笑い声が、湖畔の広場へ広がる。


 その時だった。


 ごん、と。


 遠くから、低い音が響いた。


 大きな岩同士を、水中で打ち合わせたような音。


 祭りの喧騒に紛れ、周囲の多くは気づかなかった。


 だがエルネは動きを止めた。


「今の、何?」


 マリエルも湖を見る。


「花火じゃないよね」


「まだ昼です」


 リシアの表情が変わる。


 エルネは肩から提げた鞄へ触れた。


『湖底方向から魔力反応を検知しました』


(魔獣?)


『特定できません。反応は断続的です』


 湖面は穏やかなままだ。


 少なくとも、目に見える変化はない。


 セレスティアが三人のそばへ来る。


「聞こえたのね」


「はい」


「会長も?」


「ええ」


 笑みは消えていた。


 セレスティアは祭りの広場と湖を見比べる。


「三人とも、しばらく私から離れないで」


「何かあるんですか?」


 マリエルが尋ねる。


「まだ分からないわ」


 その時、広場の入口が騒がしくなった。


 武器を帯びた六人ほどの男たちが、人混みを掻き分けて入ってくる。


 先頭にいるのは、顔の左側へ大きな傷を持つ大柄な男だった。


「町長はいるか!」


 男の声に、祭りへ参加していた住民たちが振り返る。


「俺たちは近くを通りかかった冒険者だ。湖に大型魔獣の痕跡がある」


 男は銀色の認識票を掲げた。


「今の音も、そいつが動いたせいだろう。湖岸から人を離した方がいい」


 ざわめきが広がる。


 町長らしい老人が、人を押し分けて男たちの前へ出た。


「魔獣だと?」


「ああ。俺はレドガー。水棲魔獣の討伐経験がある」


 レドガーと名乗った男は、湖へ目を向ける。


「祭りを止めろとは言わん。俺たちが見張る。ただ、舟だけは絶対に出すな」


「舟はすでに止めている」


「ならいい」


 レドガーは町長の肩を軽く叩いた。


「何かあれば、俺たちが仕留めてやる」


 頼もしい言葉に、周囲から安堵の声が上がった。


 マリエルも少し肩の力を抜く。


「冒険者が来てくれたなら、大丈夫かな」


 エルネは答えず、レドガーたちを見た。


『対象の装備に、湖岸で検知したものと類似する魔力反応があります』


(湖岸で?)


『破損した漁網に残留していた反応です』


 エルネは目を細めた。


 レドガーの仲間の一人が、背負っている細長い荷物を布で隠し直した。


 その形は、地面へ打ち込む杭に似ていた。


「会長」


「分かっているわ」


 セレスティアが小声で答える。


 レドガーは町の人々へ笑顔を向けている。


 だが、一瞬だけエルネたちを見た目には、先ほどまでの愛想がなかった。


 探るような、冷たい視線だった。


 次の瞬間。


 湖の中央で、水面が盛り上がった。


 最初は、小さな丘ほどだった。


 それが見る間に膨れ上がり、広場にいた者たちの頭よりも高くなる。


「何……?」


 誰かが呟く。


 水の塊が弾けた。


 轟音とともに、巨大な水柱が空へ噴き上がる。


 湖岸へ冷たい雨が降り注ぎ、祭りの灯籠や屋台を激しく叩いた。


 悲鳴が上がる。


 水柱の中心から、黒い何かが姿を現した。


 鱗に覆われた巨大な背。


 幾本もの長い鰭。


 そして、その肉へ深々と突き刺さった、赤黒く光る鉄杭。


 魔獣が咆哮した。


 音だけで湖面が震え、岸辺の屋台が軋む。


 同時に、町の奥から鐘が鳴った。


 祭りを知らせる軽やかな鐘ではない。


 火災と襲撃を告げる、切迫した警鐘。


「市場が燃えてるぞ!」


 人混みの後方から、男が叫んだ。


 湖岸では魔獣が暴れ、町では黒い煙が上がり始めている。


 祭りの広場は、一瞬で混乱へ沈んだ。


 レドガーは大剣を抜き放った。


「全員、慌てるな!」


 大声で住民たちへ命じる。


「魔獣は俺たちが引き受ける!」


 頼もしい言葉。


 だがエルネは見た。


 大剣を抜いたレドガーが、湖の魔獣ではなく。


 町の奥で上がった黒煙を見て、薄く笑ったのを。

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