第七十二話 湖の底
白杖様の祠を訪れてから、三日が過ぎた。
その日の朝、マリエルは昨日までとは少し違う荷物を抱えて別邸へ現れた。
「今日は湖で泳ぐよ!」
玄関を開けた途端、そう宣言する。
両腕に抱えているのは、色も大きさも異なる三組の水着だった。
「泳ぐ?」
「湖に来て、まだ一度も泳いでないでしょう?」
「船着き場には行ったけど」
「見るだけじゃ駄目。今日はちゃんと入るの」
マリエルは有無を言わせず、一つをエルネへ押しつけた。
広げてみると、濃紺の布地に白い縁取りが入った水着だった。上半身を覆う部分と、動きやすそうな短いズボンが一続きになっている。
「これ、私が着るの?」
「そのつもりで持ってきたんだけど」
「泳いだこと、ほとんどないよ」
「だから練習するの」
あっさりと言い切られた。
隣では、リシアが淡い水色の水着を受け取っている。
飾り気は少ないが、腰の部分へ白い細紐が結ばれていた。
「リシアには、それが似合うと思って」
「ありがとうございます」
「もっと驚いてもいいんだよ?」
「驚いています」
「そうは見えないけど」
「内心では十分に」
マリエルはしばらくリシアの顔を覗き込んだが、やはり何も読み取れなかったらしい。
最後に残った水着を抱え、階段の方へ顔を向ける。
「セレスティア様の分もあるよ」
「会長は泳がないと思う」
「どうして?」
「監督役だから」
「本人に聞いてみないと分からないでしょう?」
ちょうどその時、二階からセレスティアが下りてきた。
マリエルが抱える水着を見るなり、その足が止まる。
「……何かしら、それは」
「セレスティア様の水着です」
「誰が用意を頼んだの?」
「私です」
「あなたが頼んだ側でしょう」
「きっと似合いますよ」
薄い白布に青い刺繍が施された水着だった。その上から羽織るための、透けるほど薄い上着まで添えられている。
セレスティアはそれを眺め、静かに息を吐いた。
「私は岸から見ているわ」
「泳げないんですか?」
マリエルが首を傾げる。
セレスティアの眉がわずかに動いた。
「誰がそのようなことを?」
「では、泳げますね」
「今の会話で、なぜそうなるのかしら」
結局、四人で湖へ向かうことになった。
◇
「力を抜いて」
「抜いたら沈むよ」
「力を入れるから沈むの」
「どっち?」
「息を吸って、身体を伸ばして。湖に任せれば浮くから」
マリエルに背中を支えられ、エルネは水面へ仰向けになっていた。
水は冷たい。
耳の近くで小さな波の音がする。
空には雲一つなく、木々の向こうに青空が広がっていた。
「エルネ、息を止めないで」
「止めてない」
「足も動かさない」
「動かしてないよ」
「さっきから、すごく動いてる」
言われて意識した瞬間、身体が傾いた。
「わっ」
顔が水へ沈む。
慌てて起き上がると、マリエルが腹を抱えて笑っていた。
「笑わないでよ」
「だって、あんなに真剣な顔で沈んでいくから」
「真剣だから笑わないで」
「ごめん。でも、もう少しだったよ」
「本当に?」
「うん。今度は私が手を離してから三つ数えるね」
「先に言っておくけど、急に離さないでね」
「一、二――」
「まだ始めてないよね?」
「緊張をほぐそうと思って」
「余計に緊張するよ」
少し離れたところでは、リシアが水面を滑るように進んでいた。
「リシアは上手だね」
「ありがとうございます」
マリエルが目を細める。
「でも、水魔法を使ってるでしょう?」
「使っていません」
リシアの足元だけ、水が不自然なほど一定方向へ流れていた。
「使ってるよね?」
「身体の姿勢を補助しているだけです」
「それを使ってるって言うの。今日は魔法禁止」
「なぜですか?」
「泳ぎの練習にならないから」
「私は泳ぎの練習に来たとは聞いていません」
「今、決まったの」
リシアが珍しく言葉を失う。
エルネは思わず笑った。
「エルネもだよ」
「私も?」
「もちろん。魔法で浮いちゃ駄目」
「そんな便利な魔法、持ってないよ」
岸辺では、白い上着を羽織ったセレスティアが日傘の下に座っていた。
涼しげな姿は、湖畔の景色へ不自然なほどよく馴染んでいる。
「会長も来てください」
エルネが呼ぶ。
「私は十分楽しんでいるわ」
「まだ水にも入ってないでしょう?」
「あなたが沈む様子を眺めているだけでも、退屈はしないわね」
「やっぱり見てたんですか」
「よく浮いていたわよ。途中までは」
マリエルが水を蹴り、セレスティアの足元へ飛沫を飛ばす。
日傘の端から水滴が落ちた。
セレスティアがゆっくりと顔を上げる。
「マリエル」
「はい」
「覚悟はできているのね?」
次の瞬間、湖面を走った風がマリエルの足元をすくった。
「えっ――」
身体がふわりと浮き、そのまま少し離れた水面へ落ちる。
大きな水飛沫が上がった。
「魔法は禁止!」
水から顔を出したマリエルが叫ぶ。
「私は泳ぎの練習をしていないもの」
「ずるい!」
セレスティアは日傘を閉じ、ようやく水へ入った。
その後は、泳ぎの練習だったのか、水の掛け合いだったのか分からなくなった。
リシアが魔法を使っていないと言い張りながら水流を操り、マリエルが風で飛沫を返す。
エルネは二人の間に挟まれ、何度も水を浴びた。
セレスティアは離れた場所にいるように見えて、時折正確に風を送り込み、三人まとめて水をかぶせた。
魔法を戦うためでも、訓練するためでもなく使う。
ただ笑うためだけに。
エルネにとって、それは初めてのことだった。
◇
それからの日々は、驚くほど穏やかに過ぎていった。
朝は、別邸の裏手で訓練をした。
セレスティアが風で木の実を飛ばし、リシアがその隙間へ水球を混ぜる。
エルネは流転軌を展開し、迫る攻撃の流れを読み取った。
『右方から二つ。続けて正面から一つ接近します』
「分かってる」
右から飛んできた木の実を外へ逸らし、正面の水球は地面すれすれへ流す。
すべてが脇を通り過ぎたところで、見学していたマリエルが首を傾げた。
「今、誰に返事したの?」
「え?」
「分かってる、って言わなかった?」
エルネは一瞬だけ言葉に詰まった。
「……自分に」
「自分と会話しながら訓練してるの?」
「集中するために、時々」
「やっぱり疲れてるんじゃない?」
「疲れてないよ」
「休暇なのに毎朝訓練してるからだよ」
マリエルが腰へ手を当てる。
「午後は町に行くからね」
「今日はもう少し――」
「駄目」
エルネは鞄へ目を向けた。
『訓練時間の確保を推奨します』
(ほら、先生も)
『ただし、精神的疲労の軽減は訓練効率の改善につながります』
(どっちなの?)
「エルネ?」
「……午後は町に行く」
「よろしい」
マリエルは満足そうに頷いた。
午後になると、三人は市場へ出かけた。
祭りに使う白布を切ったり、灯籠へ絵を描いたり、菓子屋で焼き菓子を作ったりした。
エルネが描いた灯籠の魚は、マリエルから「脚が生えている」と笑われた。
「鰭だよ」
「六本あるけど」
「泳ぐのが速い魚」
「虫みたいです」
隣では、リシアが正確すぎる魚の絵を描いている。
鱗の数まで揃っていそうだった。
「リシアは上手だね」
「見たものをそのまま描いただけです」
「普通はそれが難しいんだよ」
「エルネさんの魚も、独創的だと思います」
「褒めてないよね?」
「評価しています」
マリエルが声を上げて笑った。
別の日には、町の菓子屋で生地をこねた。
マリエルは慣れた手つきで果実の蜜を包み、リシアは大きさの揃った菓子を寸分違わず並べていく。
エルネが作ったものだけ、なぜか焼き上がる前から形が崩れていた。
「どうして?」
「中身を入れすぎだよ」
「多い方がおいしいと思って」
「物には限度があります」
リシアが淡々と指摘する。
焼き上がった菓子は蜜が横から溢れていたが、三人で食べれば味は悪くなかった。
夜には別邸で食事をした。
町のことをマリエルが話し、学院のことをエルネとリシアが話した。
対抗戦の話になると、マリエルは何度も身を乗り出した。
「学院同士で本当に戦うの?」
「怪我をしないための術式が張られているけど」
「エルネも出たの?」
「うん」
「勝った?」
「そこは色々あって……」
セレスティアが紅茶を口へ運びながら微笑んだ。
「エルネは随分と活躍したわ」
「会長」
「事実でしょう?」
「リシアは?」
「リシアも立派だったわね」
「普通です」
「それ、便利な言葉だよね」
マリエルが言う。
数日前と同じ言葉に、リシアはほんの少しだけ笑った。
最初は案内役だった。
いつの間にか、朝になればマリエルが別邸へ現れることが当たり前になっていた。
市場を歩く時も、湖へ行く時も、彼女はエルネとリシアの間にいる。
エルネも、明日はどこへ行くのかと自分から尋ねるようになっていた。
「休暇が終わったら、二人とも王都へ戻るんだよね」
ある夜、マリエルが言った。
「うん」
「もう少しいればいいのに」
「学院が始まるから」
エルネは少し迷ったあと、尋ねた。
「手紙を書いてもいい?」
マリエルが目を丸くする。
「私が聞こうと思ってたのに」
「じゃあ、書いてくれる?」
「もちろん。エルネも書いてね」
「うん」
「リシアも」
「はい。お返事します」
「先に書いてくれてもいいんだよ?」
「努力します」
「手紙を書くのに努力が必要なの?」
マリエルの笑い声が、別邸の食堂へ響いた。
エルネはその声を聞きながら、休暇が終わった後のことを考えた。
学院へ戻り、また授業と訓練が始まる。
それでも、この町とのつながりが消えるわけではない。
マリエルとは、これからも友達でいられる。
そう思った。
◇
十日ほどが過ぎた頃、湖には小さな変化が現れ始めた。
いつもは深い場所にいる魚が、岸辺へ群れを作った。
漁師の網が、続けて二枚も破られた。
夜になると、湖の奥から低い音を聞いたという者もいた。
「大きな魚でもいるのかな」
船着き場で傷ついた網を見ながら、マリエルが言った。
縄は何かに引き裂かれ、端が細かくほつれている。
「魚の歯で、こんな切れ方をする?」
「分からない。漁師さんは岩に引っかけたんだろうって」
エルネは網へ手を触れた。
『微弱な魔力反応を確認』
(魔獣?)
『断定できません』
網には、乾ききっていない透明な粘液が付着していた。
指で触れると、薄い膜のように伸びる。
『水棲生物由来と推定します』
「危ないもの?」
マリエルが尋ねる。
「まだ分からない」
「セレスティア様に話した方がいいかな」
「うん。一応」
報告を受けたセレスティアは、しばらく湖の沖へ出ないよう三人へ言い渡した。
町の人々にも注意するよう、別邸の管理人を通して伝えることになった。
ただ、それ以上のことは起きなかった。
湖は相変わらず穏やかで、日が暮れれば赤い夕陽を映している。
数日後に控えた水返しの祭りの準備も、予定通り進められていた。
誰もが、少し大きな魚が湖へ迷い込んだ程度に考えていた。
◇
その夜。
町の明かりが見えなくなるほど離れた湖岸に、一艘の小舟が寄せられた。
舟には三人の男が乗っている。
誰も灯りを使わず、月明かりの下で黒い鉄杭を岸へ運び出していた。
杭は人の腕ほどの太さがあり、表面には赤黒い文字が刻まれている。先端から伸びた細い鎖は、そのまま暗い湖の中へ沈んでいた。
「ここでいい」
男の一人が低く命じる。
残る二人が杭を地面へ立て、重い槌を振り下ろした。
鈍い音が夜の湖畔へ響く。
杭が半分ほど土へ埋まったところで、男は表面へ手を当てた。
魔力を流し込む。
刻まれた文字が赤黒く光り、湖へ沈んだ鎖がぴんと張った。
次の瞬間。
沖合の水面が大きく持ち上がった。
何か巨大なものが、水中で身をよじったのだ。
「また岸へ寄っています」
仲間の一人が声を潜める。
「まだ早い。祭りまで浅瀬へ出すな」
「薬が効きすぎたのでは?」
「違う。痛みに耐えられなくなってるだけだ」
男は杭へ流す魔力を弱めた。
赤黒い光が薄れ、張り詰めていた鎖がわずかに緩む。
湖の深い場所には、これと同じ文字を刻んだ主杭がある。
それは巨大な魔獣の背へ打ち込まれ、鎖を通じて岸の杭とつながっていた。
岸へ杭を増やすほど、魔獣が逃げられる方向は狭くなる。
そして、杭から痛みを与えれば、男たちが望む方向へ追い立てることができた。
「あと何本だ?」
「三本です。船着き場の裏と、祭り広場の近く。それから北岸に一本」
「前日までに終わらせろ」
湖の中で、魔獣が再び身をよじった。
低い鳴き声は水に遮られ、腹へ響く振動だけが岸へ伝わる。
その周囲に、無数の小さな泡が生まれた。
泡は水面へ浮かぶより先に、一斉に押し潰される。
ぱちり。
硬いものが砕けるような音が、水中から連続して響いた。
小舟の底を覆う金具へ、針で突いたような細かな傷が刻まれる。
「今の音は?」
男の一人が湖を覗き込んだ。
「魔獣が暴れただけだ。気にするな」
命じた男は、町の方角へ目を向けた。
遠くに、祭りの準備を終えた家々の明かりが並んでいる。
「祭りの日には、町中の人間が湖岸へ集まる」
口元に薄い笑みを浮かべる。
「そこへこいつを放す。あとは勝手に町を壊してくれる」
黒い杭の文字が、もう一度だけ脈打った。
湖の底で鎖が軋む。
町では何も知らないまま、白い祭り布が夜風に揺れていた。




