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第七十一話 白杖様、或いは海の魔王

 翌朝。


 エルネが一階へ降りると、玄関前にはすでにマリエルが待っていた。


 昨日と同じ白い半袖の上着に、動きやすそうな青緑色のスカート。肩には小さな鞄を提げ、片手には三人分らしい包みを抱えている。


「おはよう、エルネ!」


「おはよう」


「リシアは?」


「もうすぐ来ると思う」


「じゃあ、先に今日の予定を説明するね」


 マリエルはそう言うと、包みを玄関脇の台へ置き、指を一本立てた。


「まず市場。次に湖。お昼を食べて、それから白杖様の祠。時間があったら展望台」


「多くない?」


「全然。町の中ならすぐだよ」


「昨日、会長に遠くへ行かないようにって言われたけど」


「遠くないよ。私にとっては」


「その言い方は信用できないわね」


 背後から聞こえた声に、マリエルの肩が跳ねた。


 階段を下りてきたセレスティアが、呆れたようにこちらを見ている。


「町の北側へは行かないこと。湖へ出るなら船着き場の周辺まで。山道には入らない。夕刻までには戻ること」


「はい」


 マリエルが素直に返事をする。


「それから、何かあればすぐに戻りなさい」


「分かりました」


「本当に?」


「たぶん」


「そこは言い切りなさい」


 セレスティアが額へ手を当てる。


 その横を、旅行用の軽い服装に着替えたリシアが静かに通り過ぎた。


「おはようございます」


「おはよう、リシア。準備できてる?」


「はい」


 マリエルはすぐに機嫌を直し、二人の手を取った。


「じゃあ行こう!」


「まだ朝食を――」


「持ってきたよ」


 台の上の包みを持ち上げる。


「湖を見ながら食べた方がおいしいから」


「それはそうかもしれません」


「リシア?」


 あっさり同意したリシアを、エルネは思わず見た。


「朝食は逃げません」


「そういう問題かな」


 三人が玄関を出ようとすると、セレスティアがエルネだけを呼び止めた。


「エルネ」


「はい」


「本は必ず持っていなさい。ただし、人前では出さないこと」


 声が少しだけ低い。


 エルネは肩から提げた鞄へ触れた。


「分かっています」


「リシア。お願いね」


「はい。エルネから離れません」


「私もいるよ?」


 マリエルが自分を指差す。


 セレスティアは一瞬だけ言葉を選んだ。


「……二人をよろしく頼むわ」


「任せてください!」


 何も知らないマリエルは、胸を張って答えた。


     ◇


 朝の町は、昨日よりも静かだった。


 店を開ける準備をする商人たちの声。石畳へ水を撒く音。湖から吹いてくる冷たい風。


 王都の朝とは違い、人の足音にも余裕がある。


 マリエルは通りを歩きながら、目につくものすべてを説明した。


「あそこが一番古いパン屋。向かいは魚料理のお店。あの角を曲がると貸し舟屋があって、その隣が薬屋」


「全部覚えているんですか?」


「住んでるんだから当たり前だよ」


「私は学院の教室の場所でも、ときどき迷う」


「エルネは道を覚えるの苦手?」


「そんなことはないと思う」


『異議があります』


 鞄の中からロゴスの声がする。


(聞いてない)


『事実確認です』


(静かにしてて)


 エルネが鞄を押さえると、マリエルが不思議そうに首を傾げた。


「どうしたの?」


「なんでもない」


「昨日も鞄を気にしてたよね」


「大事なものが入ってるから」


「お菓子?」


「違う」


「本?」


 エルネの足が一瞬止まる。


「どうして?」


「鞄の形」


 マリエルはあっさり答えた。


「私も学院へ本を持っていくとき、そのくらいの鞄を使うから」


「そうなんだ」


「でも、休暇中まで勉強するの? 真面目だね」


「勉強用では……あるけど」


 完全な嘘ではない。


 むしろ、これまでロゴスから教わったことを考えれば、どの教科書よりも勉強用と言える。


「エルネは勉強が好き?」


「好きというより、知らないことが多いから」


「じゃあ、ここでは私が先生だね」


『訂正を要求します』


(静かにしてて)


「エルネ?」


「なんでもない」


 マリエルは怪訝そうな顔をしたが、すぐに露店へ注意を奪われた。


「あ、ちょうど焼けたところだ」


 店先では、丸い生地を焼いた菓子が並べられていた。薄く焼かれた生地の中に、赤い果実の蜜が挟まっている。


「これ、おいしいんだよ」


 マリエルは三つ買うと、一つずつエルネとリシアへ渡した。


「熱いから気をつけて」


 エルネは一口かじった。


 外側は香ばしく、中から酸味のある甘さが広がった。


「おいしい」


「でしょ?」


 マリエルが得意そうに笑う。


 リシアも静かに食べていたが、その歩みは先ほどより少し遅い。


「リシア、気に入った?」


「普通です」


「もう半分ないけど」


「空腹でしたので」


「絶対気に入ってる」


「普通です」


 マリエルは楽しそうに笑い、リシアは気にせず二口目を食べた。


 その二人を見ていると、エルネも自然に口元が緩んだ。


「エルネも笑った」


「笑ってないよ」


「二人とも同じこと言うんだね」


     ◇


 市場を抜けると、視界が一気に開けた。


 青い湖面が朝日を反射し、細かな光を散らしている。船着き場には数隻の小舟が繋がれ、その近くでは漁師たちが網を整えていた。


「近くで見ると、もっと大きい」


 エルネは岸辺まで歩き、水面を覗き込んだ。


 底が見えるほど澄んでいる。


「この辺りは浅いからね。少し沖へ出ると、急に深くなるよ」


「どのくらい?」


「分からない」


「測ってないの?」


「昔、長い縄を垂らした人がいたけど、底まで届かなかったんだって」


「そんなに深いのですか」


 リシアが湖の中央へ目を向ける。


「場所によってはね。湖の真ん中には、底がない穴があるって話もあるよ」


「底がない?」


「昔話。白杖様が海から来た時に通った道が、湖の底に残っているんだって」


 マリエルはそう言って、岸辺に置かれた石の器へ近づいた。


「白杖様……湖を作った神様だよね」


「伝承ではね」


 器のそばには木桶があり、漁師が湖水を一杯汲んでいる。


 漁師はその水を湖へ戻してから、船へ乗り込んだ。


「何をしているの?」


「水返し。湖から何かもらう前に、一杯だけ水を返すの。魚を獲る人も、船に乗る人も、最初にああするんだよ」


「最初から湖の水では?」


 リシアがもっともな疑問を口にした。


「そうなんだけど、返すの」


「どうしてですか?」


「昔からそうしてるから」


 マリエルは迷いなく答えた。


「白杖様から借りてる水だから、使う前に返すんだって」


「借りている……」


 エルネは湖面を見た。


 風が吹き、小さな波が岸へ寄せる。


『周辺の魔力濃度は通常範囲内です』


 ロゴスが静かに告げる。


(何かあると思う?)


『湖底方向に微弱な魔力循環を確認しています。ただし、自然環境において同様の現象が発生する可能性はあります』


 危険だとは言わなかった。


 エルネは少しだけ肩の力を抜いた。


「せっかくだから、二人もやってみる?」


 マリエルが木桶で水を汲み、まずリシアへ渡す。


 リシアは水を見つめたあと、静かに湖へ戻した。


「これでよいですか?」


「うん。次、エルネ」


 エルネも桶を受け取る。


 冷たい水が朝日を映して揺れている。


 湖へ戻すと、ぱしゃりと小さな音がした。


「これで私たちも、湖から何かを借りられるの?」


「うん。たぶん」


「また、たぶんなんだ」


「白杖様が返事をしてくれるわけじゃないからね」


 マリエルが笑う。


 その時、遠くで魚が跳ねた。


 広がった波紋は朝日に溶け、すぐに見えなくなった。


     ◇


 三人は湖畔の木陰で朝食を食べたあと、町の外れへ向かった。


 家々の数が減り、石畳も途中から土の道へ変わる。


 道の両側には背の高い木が並び、その隙間から湖が見え隠れしていた。


「祠って、遠いの?」


「もうすぐだよ」


「会長は山道に入るなと言っていました」


「これは山道じゃないよ。ちょっと木が多いだけ」


「同じでは?」


「違う違う」


 マリエルの基準は信用できない。


 それでも道は険しくなく、しばらく歩くと小さな石段が見えてきた。


 石段の先に、古びた祠が建っている。


 屋根には苔が生え、柱の塗装もほとんど剥がれていた。入口の脇には、白い布が何本も結ばれている。


「ここが白杖様の祠」


 マリエルは石段を上り、振り返った。


「昔はもっと人が来たらしいけど、今は祭りの時くらいかな」


 祠の中には、一体の石像が置かれていた。


 長い髪と髭を持つ老人。


 古びた衣をまとい、両手で一本の杖を支えている。


 杖の先端には、渦巻きにも波にも見える紋様が刻まれていた。


「この像……が白杖様?」


「うん。ずっと昔、この辺りでひどい干ばつが続いた時にやってきたんだって」


「海からここまで?」


「水の上を歩いてきたって話もあるよ」


 マリエルは石像の前にしゃがみ込んだ。


「白杖様が杖をひと振りすると、空いっぱいに雨雲が集まったの。それから何日も雨が降って、山じゅうから水が湧き出した」


 山から流れ落ちた水は谷へ集まり、やがて大きな湖になった。


 その水を求めて人が集まり、畑が作られ、今の町が生まれたのだという。


「だから、この町では今でも白杖様を祀ってるの」


「海から来た人が、山の中に湖を作ったんだ」


「不思議でしょう?」


「はい。本当にできるのなら、途方もない魔法です」


 リシアが石像の杖へ目を向ける。


「魔法だったのかな」


 マリエルは首を傾げた。


「神様の力かもしれないし、ただの昔話かもしれない。でも、湖がなかったらこの町もなかったから」


 そう言うと、供えられていた小さな花の向きを整えた。


「私は、白杖様がいたって信じてるよ」


 その手つきは、町の中で見せていた快活さとは違っていた。


 エルネは石像を見上げる。


 雨雲を集め、山から水を湧き出させ、湖を作った存在。


『広域気象および水脈への同時干渉には、極めて高い出力と制御能力が必要です』


(やっぱり、普通の人には無理?)


『一般的な人間の魔力量を前提とするなら、実現可能性は低いと判断します』


(それじゃあ、本当に神様だったのかな)


『定義が不明です』


(先生らしい答え)


『事実に基づく回答です』


 エルネは小さく笑った。


「白杖様は、神様なの?」


「この辺りではそう言われてるよ」


 マリエルは立ち上がる。


「でも、古い本には別の名前で書かれていることもあるんだって」


「別の名前?」


「水守りとか、白き旅人とか」


 マリエルは指を折りながら数え、最後に少しだけ声を落とした。


「あとは、海の魔王」


「魔王……?」


 エルネは石像から目を離した。


「人を襲ったり、国を滅ぼしたりする、あの魔王?」


「そういう話もあるけど、白杖様は違うよ」


 マリエルが少しだけ不満そうに頬を膨らませる。


「湖をくれた神様だから」


「神様なのに、魔王なの?」


「昔の人は、人間にはできないことをする存在を、そう呼ぶこともあったらしいよ。学院の先生が言ってた」


「魔王という言葉にも、いろいろな意味があるのですね」


 リシアが言った。


「たぶんね。私は白杖様って呼び方の方が好きだけど」


『現在アクセス可能な情報領域に、海の魔王に関する詳細記録は存在しません』


(先生も知らないの?)


『断片的な名称のみ確認できます』


(どんなことが書いてあるの?)


『情報が不足しています。推測による回答は推奨できません』


 ロゴスは、それ以上何も言わなかった。


「エルネ、こっち」


 マリエルに呼ばれ、祠の側面へ回る。


 そこには、半分ほど土に埋もれた古い石板があった。


 表面には擦り減った文字が刻まれている。


「読める?」


「少しだけ」


 エルネはしゃがみ込み、表面を眺めた。


「水は、誰のものでもない……」


 読める部分を声にする。


「恵みを受けた者は、水を汚さず、奪わず……次の者へ返すこと」


「水返しのことかな」


 マリエルが言った。


「たぶん。最後の方は削れてて、読めないけど」


「昔から、同じことをしていたのですね」


 リシアが石板へ指を這わせる。


 湖は誰のものでもない。


 それでも、人は白杖様から借りているものとして、一杯の水を返す。


 理由も分からないまま続く風習。


 エルネは、それを少しだけ不思議に感じた。


「ねえ、二人とも」


 マリエルが石段の下から呼んだ。


「祠は見たし、次は展望台へ行こう」


「時間は大丈夫なの?」


「たぶん」


「またそれですか」


「大丈夫。近道があるから」


「会長は山道に入るなと言っていました」


「山道じゃないよ。森の道」


「何が違うのですか?」


 リシアが真顔で尋ねる。


 マリエルはしばらく考えた。


「名前?」


「戻りましょう」


「待って、冗談だから!」


 慌てて追いかけてくるマリエルを見て、エルネは笑った。


 石段を下りる直前、もう一度だけ祠を振り返る。


 白い杖を持つ老人像は、変わらず穏やかな顔で湖の方角を見つめていた。


 海から来た旅人。


 雨雲を呼び、山から水を湧かせた白杖様。


 古い本の中では、海の魔王とも呼ばれる存在。


 それがただの昔話なのか、遠い過去の出来事なのか。


 今のエルネには、まだ分からない。


「エルネ、置いていくよ!」


「今行く!」


 エルネは祠へ背を向け、二人のもとへ駆けていった。


 湖から吹き上げた涼しい風が、木々の葉と白い布を同時に揺らした。

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