第七十話 湖畔で友達ができました
夏季休暇初日の早朝。
まだ朝日も昇り切らないうちに、エルネは学院の裏門へ呼び出されていた。
普段使われている正門とは違い、物資の搬入に用いられる小さな門だ。人通りはなく、聞こえるのは木々の葉が風に揺れる音だけだった。
エルネの足元には、着替えを詰めた小さな鞄が一つ。
その隣には、同じく旅行用の鞄を手にしたリシアが立っている。
「おはよう、エルネ」
「おはよう、リシア」
「眠れましたか?」
「少しだけ」
「私もです」
二人でそんな会話を交わしていると、裏門の向こうから車輪の音が近づいてきた。
現れたのは、紋章も装飾もない一台の馬車だった。
御者台には学院の使用人らしき男性が座っているが、その服装も普段よりずっと質素だ。
「待たせたわね」
馬車の扉が開き、中からセレスティアが顔を出した。
彼女も学院で身につけている制服ではなく、淡い色の長衣をまとっている。髪型も普段より簡素で、一見しただけでは生徒会長だと気づかないかもしれない。
「会長、その格好……」
「似合わない?」
「いえ。そうではなくて」
「目立たないようにするためよ。私たちは旅行へ行くのではなく、姿を隠しに行くのだから」
そう言いながらも、セレスティアの口元にはわずかな笑みが浮かんでいる。
「もっとも、休暇を楽しんではいけないという意味ではないけれど」
エルネとリシアが乗り込むと、馬車はすぐに走り始めた。
学院の高い塀が、窓の向こうへ流れていく。
エルネはそれを黙って見送った。
入学してから、学院の外へ出ること自体がほとんどなかった。
まして、誰かと遠くへ出かけるなど初めてのことだ。
『警戒してください』
鞄の奥から、ロゴスの声が響いた。
『学院外では、万象解体書を狙う勢力との接触確率が上昇します』
(分かってる)
『加えて、長距離移動には事故、盗難、迷子などの危険性も存在します』
(迷子にはならないと思う)
『過去の行動記録を参照した結果、その断言には疑問が残ります』
(どういう意味?)
『回答を保留します』
エルネは鞄を膝の上へ置き、軽く睨んだ。
「どうかしましたか?」
向かいに座るリシアが尋ねる。
「なんでもない」
「鞄と喧嘩しているように見えました」
「してないよ」
リシアは鞄を見たあと、エルネの顔へ視線を戻した。
「そうですか」
それ以上は追及しなかった。
だが、隣に座るセレスティアは楽しそうに笑っていた。
◇
馬車は途中で何度か街道を変え、昼を過ぎても走り続けた。
王都から離れるにつれ、窓の外に見える景色も変わっていく。
高い建物は消え、代わりに緑の丘陵や、遠くまで続く森が見えるようになった。
やがて馬車が緩やかな坂道を上り始める。
冷たい風が窓から吹き込み、エルネの頬を撫でた。
「涼しい」
「この辺りは王都より標高が高いの」
セレスティアが窓の外を指した。
「もうすぐ見えるわ」
エルネは示された方角へ顔を向けた。
森が途切れる。
その向こうに、巨大な湖が広がっていた。
陽光を映した水面が、空の色をそのまま落としたように青く輝いている。
対岸は遠く、山々の輪郭が霞んで見えた。
「大きい……」
「海みたいですね」
リシアも珍しく、窓へ身を寄せている。
「この地方では一番大きな湖よ」
セレスティアはそう答えたが、詳しい名前や由来については話さなかった。
馬車は湖を見下ろす街道から、湖畔の町へと下っていく。
白い壁の建物が並び、その間を住民や旅行客が歩いていた。通りには果物や焼き菓子を売る露店が出ており、遠くから賑やかな声が聞こえてくる。
エルネは窓から目を離せなかった。
学院とはまるで違う。
もちろん、対抗戦で訪れた聖環学院とも違う。
ここには張り詰めた空気がない。
武装した教師も、巡回する学院兵もいない。
人々は笑い、子どもたちは湖へ向かって駆けている。
「本当に、ここにいて大丈夫なんですか?」
エルネが尋ねると、セレスティアは少しだけ表情を引き締めた。
「だからこそよ」
「だから?」
「学院が狙われると考えているなら、敵は学院と、その周辺を探す。あなたが夏季休暇中も学院に残ると思わせておけば、遠く離れたこの町までは簡単に辿れない」
「ここを知っている人は?」
「学院長と、私。それから、この別邸を管理している一家だけ」
セレスティアはそこで一度言葉を切った。
「少なくとも、そうであるはずよ」
最後の言葉だけが、妙に重かった。
◇
町の中心部を離れ、馬車は湖沿いの道を進んだ。
しばらくすると、木々に囲まれた白い屋敷が見えてくる。
二階建ての大きな建物だが、王都の貴族邸宅ほど華美ではない。湖側には広い庭があり、その先には小さな船着き場も設けられていた。
馬車が門を通り抜ける。
屋敷の前には、初老の夫婦が並んで待っていた。
「お待ちしておりました」
男性が深く頭を下げる。
セレスティアは馬車を降りると、慣れた様子で二人へ声をかけた。
「急なお願いになってしまって、ごめんなさい」
「いえ。こちらも久しぶりにお迎えでき、光栄にございます」
その言葉に、エルネは少し引っかかった。
久しぶり。
やはりセレスティアは、以前にもここへ来たことがあるらしい。
尋ねようとした、そのときだった。
「来たの!?」
屋敷の中から大きな声が響いた。
続いて、玄関の扉が勢いよく開く。
一人の少女が飛び出してきた。
肩にかからない程度の明るい栗色の髪。毛先はあちこちへ跳ねており、頬には薄いそばかすが散っている。
白い半袖の服に、青緑色のスカート。
少女は階段を駆け下りると、セレスティアの前を通り過ぎ、真っ直ぐエルネとリシアのもとへやってきた。
「あなたたちが、今日から泊まる子?」
「あ、はい」
「同い年くらい?」
「たぶん」
「名前は?」
質問が早い。
エルネが答える間にも、少女の琥珀色の瞳が興味深そうに二人を見比べている。
「エルネです」
「リシアです」
「エルネとリシアね。私はマリエル・コルナ。みんなにはマリーって呼ばれてるから、二人もそれでいいよ」
「マリー……」
「うん。よろしく!」
差し出された手を、エルネは反射的に握った。
マリエルは満足そうに笑う。
その笑顔から、白い八重歯が覗いた。
「ねえ、二人とも湖は初めて?」
「私は初めてです」
「私も」
「じゃあ、案内してあげる。船にも乗れるし、泳げる場所もあるし、町の焼き菓子もおいしいよ。あと、山の上に展望台があって――」
「マリエル」
後ろから、管理人の女性がやや強い口調で呼び止めた。
「お客様は長旅でお疲れでしょう。まずはお部屋へご案内しなさい」
「あ」
マリエルはそこで初めて気づいたように、エルネたちの荷物を見る。
「そうだった。ごめん。話すのはあとにする」
素直に謝ったかと思えば、すぐにエルネの鞄へ手を伸ばした。
「持つよ」
「大丈夫。自分で持てるから」
「遠慮しなくていいって」
「本当に大丈夫」
「じゃあ、半分持つ」
「鞄は半分にできないよ」
「なるほど」
マリエルは真剣な顔で頷いた。
横でリシアが、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「リシア、今笑った?」
「笑っていません」
「絶対笑ったよね?」
「気のせいです」
初対面とは思えない勢いで、マリエルはリシアの顔を覗き込む。
リシアは避けることもなく、淡々とその視線を受け止めていた。
その様子を見ながら、エルネの胸の奥にあった緊張が、わずかにほどけた。
ここへ来るまで、ずっと考えていた。
学院の外にも敵がいるかもしれない。
この場所さえ、完全に安全とは限らない。
けれど、目の前の少女はそんなことを何も知らない。
エルネが何者なのかも。
黒い本を持っていることも。
教団に狙われていることも。
ただ、同い年くらいの客が来たから、仲良くなろうとしている。
「二人とも、明日は空いてる?」
玄関へ向かいながら、マリエルが振り返った。
「空いていると思います」
リシアが答える。
「エルネは?」
「私も……たぶん」
「じゃあ決まり。朝から町を案内するね」
「会長に聞かなくてもいいの?」
三人はそろってセレスティアを見る。
少し離れた場所で管理人と話していたセレスティアは、こちらの視線に気づくと、小さく肩をすくめた。
「遠くへ行かないこと。必ず三人で行動すること。それが守れるなら構わないわ」
「やった!」
マリエルが両手を上げる。
「最初は湖ね。それから市場に行って、白杖様の祠も見せてあげる」
「白杖様?」
エルネが聞き返す。
「この湖を作った神様だよ」
マリエルは当然のことのように答え、屋敷の中へ入っていく。
エルネは足を止め、窓の向こうに広がる湖を見た。
穏やかな水面には、雲一つない空が映っている。
湖面を渡ってきた風が、開け放たれた扉から屋敷の中へ吹き込んだ。
その風に混じって、どこか遠くで水が落ちるような音が聞こえた。
エルネはもう一度だけ湖を見つめ、それからマリエルたちのあとを追った。




