第六十九話 秘密の夏休み、始めます
対抗戦の中止から、さらに数日が過ぎた。
厳戒態勢は続いていたものの、学院の授業は少しずつ本来の時間割へ戻り始めている。
そして、その日の朝。
「エルネさん。リシアさん」
教室へ向かう廊下で、聞き慣れた声に呼び止められた。
振り返ったエルネは、目を見開く。
「カレン先輩!」
風紀委員の腕章をつけたカレンが立っていた。
制服はいつも通り隙なく整えられている。
首元から覗いていた包帯も、今では細いものに変わっていた。
「もう大丈夫なんですか?」
「日常生活には支障ありません。本日から授業と風紀委員の業務へ復帰します」
「実技は?」
「医療教師からは、しばらく控えるよう言われています」
「ちゃんと守ってくださいね」
「もちろんです」
迷いのない返事だった。
だからこそ、エルネは少し不安になる。
「先輩の『もちろん』は、あまり信用できません」
隣にいたリシアが、静かに口を挟んだ。
「リシアさんまで……」
「無理をして、再び治療室へ戻ることになっては困ります」
「承知しています。私も、同じ失敗を繰り返すつもりはありません」
失敗。
カレンが何を指しているのか、エルネにはすぐに分かった。
「カレン先輩」
「はい」
「あの時、ありがとうございました」
カレンの表情が止まる。
「私を逃がすために、ずっと戦ってくれたって聞きました」
「ですが、最後まで守り切ることはできませんでした」
「守られたから、私はここにいるんです」
エルネは胸元の黒い本を抱え直した。
「カレン先輩がヴァレルを止めてくれなかったら、私は逃げられませんでした」
「……そう言っていただけるのは、ありがたいです」
カレンはわずかに目を伏せる。
しばらくして顔を上げると、いつもの真面目な表情へ戻っていた。
「次は、あの男を逃がしません」
「また一人で戦うつもりですか?」
「いいえ」
カレンの視線が、エルネへ向けられる。
「次は、エルネさんにも手伝っていただきます」
「私も!?」
「逃げるだけで終わるつもりはないのでしょう?」
言葉に詰まる。
ヴァレルに勝てるとは思っていない。
けれど、誰かが傷つくのを見ながら、自分だけが逃げることにも耐えられない。
「……はい」
エルネが頷くと、カレンの口元に小さな笑みが浮かんだ。
「では、まずは私の訓練に付き合ってください」
「復帰したばかりですよね?」
「軽い運動です」
その言葉を信じてはいけない。
エルネは、すぐにそれを思い知ることになった。
◇
「軽くお願いしますね!」
「もちろんです」
カレンが一歩踏み込んだ。
次の瞬間、拳がエルネの頬の横を通り過ぎる。
「速い!」
「以前よりかなり落としています」
「それは聞きたくなかったです!」
訓練場では魔法の使用を制限し、カレンは踏み込みと打撃だけ。
エルネは攻撃を行わず、シオンから教わった体捌きと流転軌だけで避け続ける。
カレンの拳が迫る。
正面から受け止めず、身体を半歩ずらす。
同時に淡い円環を生み出し、拳の軌道をほんのわずかに外側へ逸らした。
「止まらないでください」
「分かってます!」
かわした直後、カレンの足が動く。
エルネは後ろへ下がらず、その横をすり抜けた。
攻撃を逸らす。
相手の側面へ回る。
距離を取る。
それを何度も繰り返した。
始めた頃は、流転軌を使うたびに足が止まっていた。
だが、シオンとの訓練で身体の動きに魔法を組み込むことを覚え、今ではわずかながら同時に行えるようになっている。
『右脚の踏み込みを確認』
(見えてる!)
カレンの蹴りを流転軌で逸らす。
身体が開いた。
一瞬だけ、カレンの脇腹が無防備になる。
エルネの手が反射的に動いた。
だが、攻撃へ使える魔法がない。
迷った隙に、カレンの手がエルネの額へ軽く触れた。
「今のは、反撃できました」
「でも、近くで使える魔法がありません」
「ならば、作ればよいのでは?」
「簡単に言いますね!」
「エルネさんなら、可能でしょう」
カレンは当然のように答えた。
(先生。流転軌で逸らした力を、そのまま相手へ返すことってできる?)
『理論上は可能です』
(本当に?)
『ただし、対象の魔力構造と速度を維持したまま、再度軌道を設定する必要があります』
(つまり難しい)
『肯定します』
防御して終わるのではなく、相手の力を反撃へ転じる。
まだ形は見えない。
それでも、新しい魔法の輪郭が、わずかに浮かび始めていた。
◇
それからの日々は、慌ただしく過ぎていった。
授業が本格的に再開されても、学院の警備は緩まなかった。
正門では厳しい確認が続き、放課後の外出には許可が必要となる。
イストからの連絡はない。
シオンは学院内へ侵入した経路を調べていたが、目立った進展はないようだった。
エルネは授業が終わると、カレンやシオンとの訓練を続けた。
体捌きと流転軌を組み合わせ、足を止めずに攻撃を逸らす。
その後の反撃についても考え続けたが、夏季休暇までに完成することはなかった。
そして訓練よりも恐ろしいものが、エルネの前に立ちはだかった。
期末試験である。
(先生。問六が分からない)
『解答候補を提示可能です』
(駄目!)
『なぜですか』
(試験中だから!)
『私は補助魔法具として、学院内での所持を認められています』
(答えを教えることまで認められてないの!)
『規則には明記されていません』
(抜け道を探さないで!)
エルネは黒い本を閉じたまま、答案用紙と睨み合った。
魔力の流れや術式構造については、以前よりもはるかに理解できる。
しかし、魔法史に登場する古い王朝の順番や、既製術式の正式な詠唱となると話は別だった。
試験結果は、魔法理論が上位。
魔法史は平均以下。
実技は独自術式による特例評価。
総合成績は、無事に合格だった。
「落第しなかったのですから、十分だと思います」
成績表を見たリシアが言った。
「リシアは全部上位でしょ」
「はい」
「慰められても、素直に喜べない!」
◇
期末試験が終わった翌日。
放課後、エルネとリシアは生徒会室へ呼び出された。
室内にはセレスティア一人だけが待っていた。
「二人とも、座って」
扉を閉めると、セレスティアは室内に遮音の結界を張った。
その念の入れように、エルネとリシアは顔を見合わせる。
「何かあったんですか?」
「以前話した、あなたを学院の外へ移す件よ」
セレスティアはエルネを見る。
「学院長と相談して、正式に許可を得たわ」
「本当に行くんですか?」
「ええ。夏季休暇の間、王都から離れてもらう」
「どこへ?」
「湖と山に囲まれた避暑地よ。学院長が信頼できる者だけで管理している屋敷があるわ」
「避暑地……」
危険を避けるための移動だと分かっていても、言葉だけを聞けば心が弾む。
エルネは慌てて表情を引き締めた。
「でも、どうしてリシアも?」
「彼女には、私から同行をお願いしたの」
セレスティアはリシアへ視線を向ける。
「改めて確認するわ。危険がないとは言えない。エルネを狙う者に行き先が知られれば、あなたも巻き込まれる可能性がある」
「承知しています」
「断っても構わないのよ」
「行きます」
リシアは迷わず答えた。
「即答しなくてもいいのだけれど」
「エルネさん一人を行かせる方が心配です」
「リシア……」
エルネが感動しかける。
「それに、避暑地には一度行ってみたかったので」
「最後の一言で少しだけ軽くなった!」
「どちらも本当です」
リシアは涼しい顔で答えた。
「同行するのは、私たち三人だけですか?」
「現地で世話をしてくれる者はいるけれど、学院から向かうのは私たちだけよ」
セレスティアが答える。
「行き先を知るのは、学院長と私たち三人。それから、現地のごく限られた者だけ。学院内では、二人は夏季休暇中も特別課題のため学院に残ることになっているわ」
「そこまで秘密にするんですね」
「敵が学院の内情を知っている以上、用心しすぎるくらいでちょうどいい」
「会長も一緒に来るんですか?」
「護衛と責任者を兼ねてね」
「生徒会の仕事は?」
「休暇中よ。少しくらい休ませてちょうだい」
「会長も休むんですね……」
「私を何だと思っているの?」
セレスティアは呆れたように息を吐いた。
「出発は三日後。荷物は最小限にして、誰にも話さないこと。リシアも、家族への連絡はこちらで手配するわ」
「分かりました」
リシアが頷く。
エルネも続いて返事をしようとしたが、一つだけ気になった。
「避暑地では、何をするんですか?」
「人目につかず、静かに過ごす」
「訓練は?」
「最低限にするつもりよ」
「本当に?」
「何か不満?」
「いえ!」
湖と山。
静かな屋敷。
リシアと、そしてセレスティアとの三人だけの夏季休暇。
逃げるための移動であることは分かっている。
それでも、学院へ入ってから初めて迎える夏休みだった。
「少しくらい、楽しんでもいいですか?」
セレスティアはしばらくエルネを見つめた。
やがて、わずかに肩をすくめる。
「見つからない範囲でならね」
こうしてエルネの夏季休暇は、誰にも知られない秘密の旅行から始まることになった。




