第六十八話 安全にしなければならない場所
古い実習棟の資材搬入口を閉め、エルネとシオンは人気のない廊下へ出た。
窓の外は、すっかり暗くなっている。
「誰にも見つからずに戻れましたね」
「そうだね。今日はこのまま寮へ戻ろうか」
「はい。もう疲れました……」
教団。万象解体書。レリック。
短い時間に聞かされたことが多すぎて、頭の中がまだ整理できていない。
それでも学院へ戻れたことで、エルネはようやく胸を撫で下ろしていた。
二人が女子寮と生徒会棟へ続く廊下の分かれ道へ差しかかった時だった。
「ずいぶん楽しそうね」
聞き慣れた声が、暗がりから響いた。
エルネの足が止まる。
廊下の中央に、セレスティアが立っていた。
腕を組み、二人の進路を塞ぐように仁王立ちしている。怒っているというよりは、面白いものを見つけたように口元を緩めていた。
「会長……?」
「こんばんは、エルネ」
「こ、こんばんは」
「シオンも、お帰りなさい」
「ただいま戻りました」
シオンは何事もなかったように答えた。
セレスティアは二人を交互に眺めると、さらに楽しそうに目を細める。
「それで、シオン」
「はい」
「エルネとの逢瀬は楽しかった?」
わずかな沈黙。
シオンは困ったように苦笑した。
「会長。その表現には、かなりの語弊があります」
「デートじゃありません!」
エルネも慌てて否定する。
「あら、そうなの?」
「そうです!」
「夕方から二人そろって姿を消して、こんな時間に人目を避けるように戻ってきたのに?」
「人目を避けていたのは、その……」
「しかも使われていない実習棟から出てきたわね」
セレスティアの笑みが深くなる。
「いったい、何をしていたのかしら?」
「会長、絶対に楽しんでますよね?」
「少しだけ」
「否定しないんですか!?」
「エルネ君。ここは何を答えても、状況が悪くなると思うよ」
「先輩は落ち着きすぎです!」
二人の反応を十分に楽しんだところで、セレスティアは生徒会棟の方角を指した。
「詳しい話は、生徒会室で聞かせてもらうわ」
「今からですか?」
「今からよ」
「もうすぐ消灯時間ですけど……」
「無断で学院を抜け出していたあなたが、それを言うの?」
「ごもっともです……」
◇
生徒会室へ連行された二人は、長椅子へ並んで座らされていた。
向かいに座ったセレスティアは、まだどこか楽しそうだった。
「では、二人の楽しい外出について聞かせてもらいましょうか」
「楽しい外出ではありません」
「そう? シオンは笑っているけれど」
「困っているだけです」
「いつもとあまり変わらないわね」
セレスティアは小さく笑ったあと、机の上で指を組んだ。
「まず確認するわ。正規の外出許可は取っていないのね?」
「はい」
「……はい」
「エルネ」
名前を呼ばれ、エルネは背筋を伸ばした。
「あなたは今、何者かに狙われているのよ。対抗戦で起きたことを忘れたわけではないでしょう?」
「忘れてません」
「では、なぜ勝手に学院の外へ出たの?」
「どうしても、会わなきゃいけない人がいて……」
「会わなきゃいけない人?」
セレスティアの笑みが、わずかに薄くなった。
「最初は、一人で行くつもりだったんです」
「一人で?」
今度は視線がシオンへ移る。
「シオン。あなたはエルネを止める立場でしょう」
「止めても、一人で向かうと思いましたので」
「だから同行した?」
「はい」
「どうして私に相談しなかったの?」
「会長へ相談すれば、外出を許可されないと思いました」
「当然でしょう!」
セレスティアの声が生徒会室に響いた。
「なぜ、そこだけ素直なの!」
「嘘をついても仕方がありませんから」
「先輩、さっき会った人みたいになってますよ」
エルネが思わず口にすると、セレスティアの表情が変わった。
「さっき会った人?」
先ほどまでの楽しげな空気が消える。
シオンは姿勢を正した。
「会長。今回の外出について、ご報告があります」
「……聞かせて」
シオンは、エルネが数日前に一人の男から直接招待状を渡されたことから説明を始めた。
男は学院内でエルネへ接触し、ヴァレルについて教えると告げた。
指定された場所は、王都外れの古い礼拝堂。
エルネは誰に相談すべきか迷った末、シオンを選んだ。
「それで、二人だけで指定された場所へ向かったのね」
「はい」
セレスティアは額へ手を当てた。
「叱りたいことは山ほどあるけれど、先に続きを聞くわ」
礼拝堂で待っていた男の名は、イスト。
聖環学院で神父を務め、ヴァレルと同じ教団に所属している。
教団の中には、エルネを強引に覚醒させようとする強硬派と、万象解体書が扱えるようになるまで待つ穏健派が存在する。
そしてイスト自身は、穏健派に属していると名乗った。
「万象解体書というのは?」
「この黒い本の、本当の名前らしいです」
エルネは膝の上に置いた本を見下ろした。
「教団では、ずっとその名前で呼ばれていたみたいで……」
「教団は、この本が何なのか知っている」
「少なくとも、僕たちより詳しい情報を持っています」
シオンが答える。
「ヴァレルの目的は、エルネ君と万象解体書の確保。イストによれば、ヴァレルの行動は教団全体の方針ではないそうです」
「それを信じたの?」
「いいえ。ただ、ヴァレルを止めたいという利害は一致しています」
シオンはさらに、界断刃について報告した。
あの短剣がレリックと呼ばれる特殊な魔法具であり、使い手へ代償を求めること。
ヴァレルが教団の幹部であること。
そして、界断刃と本人の魔法を同時に用いた場合、セレスティアであっても勝てるか分からないと、イストが語ったこと。
「……少し待って」
セレスティアは再び額へ手を当てた。
「あなたたちは、そんな話を二人だけで聞いて帰ってきたの?」
「イストは、ヴァレルの動向について新しい情報を得た場合、こちらへ報告すると約束しました」
「自称穏健派の言葉を信用しろと?」
「信用する必要はありません。得られる情報だけ利用します」
「それを勝手に決めないでちょうだい」
「今後は相談します」
「必ずよ」
シオンが頷く。
セレスティアは深く息を吐き、椅子の背へ身体を預けた。
先ほどまで二人をからかっていた余裕は、もう完全に消えている。
「思えば、敵は対抗戦の前からこちらの事情に明るい」
エルネが顔を上げる。
「代表選手の構成。それぞれの魔法。前倒しされた日程。そして、エルネが会場にいること」
「聖環学院側から情報が漏れた可能性はあります」
「もちろん、それもあるわ。でも、それだけとは限らない」
セレスティアは指先で机を軽く叩いた。
「ヴァレルは、両学院が管理する対抗戦のフィールドへ入り込み、巡礼聖像まで持ち込んだ。そこまで大掛かりな準備を、誰にも察知されずに進めていたのよ」
「学院より広い場所とはいえ、警戒されていた会場です」
「ええ。そこへ侵入できるのなら、学院へ入ることも不可能とは言い切れない」
そして実際に、イストは厳戒態勢へ移行した学院へ入り、エルネへ直接招待状を渡している。
「であれば、学院が百パーセント安全とは言い難いわね」
セレスティアの視線が、閉ざされた生徒会室の扉へ向けられる。
「誰が味方で、誰が敵なのか……。今の私たちには、それすら分かっていない」
エルネは膝の上の黒い本を抱き締めた。
教師も、生徒会も、幾重にも張られた結界もある。
学院へ戻れば安全だと思っていた。
けれど、敵が学院の事情を知り、守る側の中に紛れ込んでいる可能性があるのなら、厳重な警備も絶対ではない。
「……そうなると、エルネをしばらく別の場所へ移した方がいいかもしれないわね」
「別の場所へ?」
「学院にいれば、敵はあなたの居場所を予測できる。授業を受ける場所も、寮も、普段の行動も決まっているもの」
セレスティアは考え込むように目を伏せた。
「行き先を知る人間を限定して学院の外へ移した方が、かえって安全かもしれない」
「でも、学院の外に出る方が危険じゃないですか?」
「大勢で守ろうとすれば、その分だけ計画を知る者も増えるわ。今の状況では、警備を厚くすることが、そのまま安全につながるとは限らない」
セレスティアは顔を上げた。
「この件は、学院長に相談してみるわ」
「……学院長は、敵ってことはないんですか?」
エルネが恐る恐る尋ねる。
セレスティアは、少しだけ考えてから答えた。
「学院長が教団に協力している可能性は、かなり低いと思っている」
「どうしてですか?」
「学院長は、あなたが黒い本を持っていることを以前から知っている。あなたを自由に呼び出せる立場でもあるわ」
学院長の権限があれば、授業や面談を理由にエルネを一人で呼び出すことができる。
黒い本を調べるという名目で、一時的に預かることもできたはずだ。
「学院長が敵なら、ヴァレルを対抗戦へ侵入させる必要なんてなかった」
「学院の中で、私を捕まえればいい……?」
「ええ。規則や命令を利用した方が、襲撃するよりずっと簡単でしょうね」
「なるほど……」
「ただし、学院長本人を信頼できても、その周囲まで安全だとは限らない。相談する内容も、できるだけ限定するつもりよ」
「それで、別の場所ってどこなんですか?」
エルネが尋ねる。
セレスティアは再び考え込んだ。
「まだ決めていないわ。まずは学院長と話してからね」
「今の時点では、何も決まってないんですか?」
「思いついたばかりだもの」
「そんな!」
「ただ、夏季休暇が近いことは利用できそうね」
「夏休み……?」
セレスティアの口元に、わずかな笑みが戻った。
「人の出入りが増える時期なら、誰にも気づかれず学院を離れられるかもしれないわ」




