第六十七話 レリック
割れた窓から吹き込んだ風が、礼拝堂の埃を舞い上げた。
教団。万象解体書。自分と黒い本の両方を必要とする、神と呼ぶべき存在。
いくつか答えは得たはずなのに、エルネには謎ばかりが増えたように思えた。
「もう一つ、教えてください」
シオンが口を開く。
「ヴァレルが持っていた短剣についてです」
「あれは、界断刃と呼ばれております」
「セヴァランス……」
エルネは小さく繰り返した。
壁を壊さず、その向こうだけを斬る。離れた場所へ切断を生み、空間に残した黒い線で逃げ道を塞ぐ。最後には空間そのものを切り開き、ヴァレルを逃がした短剣。
「ただの魔法具じゃないですよね」
「ええ。界断刃は、レリックと呼ばれる特殊な魔法具の一つです」
「レリック?」
「手に入れれば、誰にでも扱えるものではありません。レリックは使い手へ代償を求め、その代償に耐えた者だけを所有者として認めます」
「耐えられなかったら?」
イストは答えなかった。
その沈黙だけで、十分だった。
(先生。レリックについて知ってる?)
『該当する記録を確認できません』
(先生にも分からないんだ……)
『情報不足です。ただし、使用者へ不可逆的な負荷を要求する可能性があります』
(もっと怖くなったよ)
「ヴァレルは、その代償に耐えた」
シオンが確認する。
「はい」
「彼は教団の中で、どのような立場です?」
「幹部の一人です」
「幹部!?」
エルネの声が礼拝堂に響いた。
「会ったこともないのに、そこは知ってるんですね」
「顔を知らずとも、名と地位は伝わりますから」
「変な組織……」
「否定はいたしません」
イストは穏やかに微笑んだ。
「対抗戦で使っていた三体の像も、レリックですか?」
「巡礼聖像ですね。あれは教団で用いられる魔法具ですが、レリックではございません」
「では、ヴァレル自身の魔法は?」
シオンの問いに、イストは静かに首を振った。
「彼の魔法に関する詳しい情報は、持ち合わせておりません」
「会長との戦いでは、発動しかけてやめたと聞いています」
ヴァレルの身体から、短剣とは異なる重い魔力が立ち上がり、左手には黒い光が集まり始めた。
だが、巡礼聖像との繋がりが途切れると、魔法を収めて撤退したという。
「なぜ最後まで使わなかったのでしょう?」
「その理由は、明らかでしょう」
イストの視線が、エルネへ移る。
「彼が本気で戦えば、近くへ逃れていたあなたを害してしまう可能性すらあったのだと思われます」
「私を……?」
「彼の目的は、あなたを殺すことではありません。万象解体書とともに連れ去ることです」
守られたわけではない。
壊しては困るものとして、巻き込まれなかっただけだ。
「エルネ君を確保するため、使える手段を自ら制限していた」
「そう考えるのが自然でしょう」
「それでも、カレンさんと会長を相手に逃げ切った」
「はい。何せ私も、彼が本気で戦っているところを見たことがないもので、確かなことは申し上げられません」
「でも、強さは分かるんですよね?」
「教団における地位と、残された記録から推測はできます」
イストの笑みが、わずかに薄くなった。
「界断刃と、ヴァレル自身の魔法。その両方を制限なく用いた場合――セレスティアさんであっても、勝てるかどうか」
「会長でも?」
「はい」
対抗戦で見たヴァレルは、全力ではなかった。
「そんな相手を、どうやって止めるんですか?」
「ヴァレルがレリックを用いる幹部であるように、我々の側にも、彼と等しい力を持つ者がいます」
「同じくらい強い人がいるの?」
「少なくとも、ヴァレルと相対し得る者です」
「その人もレリックを?」
「それについては、お答えできません」
「また!」
「ですが、何の備えもなく彼を止めると申し上げているわけではございません」
シオンは、しばらくイストの顔を見つめた。
「……それは、あなたのことですか?」
イストは、にこりと笑う。
「いいえ。私にそこまでの力はございません」
「おや。先ほど、嘘はつかないとおっしゃっていましたね」
「ええ。それはお約束します」
イストは穏やかな表情を崩さない。
「今の私では、ヴァレルには敵わないでしょう」
「今の……?」
「言葉通りの意味でございます」
「前は勝てたとか、これから強くなるとか?」
「さて、どうでしょう」
「答えてない!」
「嘘は申し上げておりません」
「その言い方、本当にずるい!」
イストは小さく笑った。
「ヴァレルの所在や動向について新たな情報を得ましたら、お二人へお伝えいたします」
「進捗を報告してくれるんですか?」
「はい。必ずご報告するとお約束しましょう」
その返答には迷いがなかった。
「それでは、今日はここまでといたしましょう」
「え、もう終わり?」
「お伝えできることは、お伝えしました」
「伝えてないことの方が多い気がするんですけど!」
「それらは、いずれ必要な時に」
イストは祭壇の前を離れ、礼拝堂の中央通路を歩き始めた。
「次の連絡は、どうやって?」
「必要な時が来れば、こちらから」
「また学院へ入るつもりですか?」
「次は、もう少し穏当な方法を選ぶつもりです」
「入れないとは言わないんですね」
イストは答えず、古びた扉を押し開けた。
「ヴァレルには、くれぐれもお気をつけください」
一礼し、夕暮れの中へ歩き去っていく。
魔法で消えることも、空間を裂くこともない。ただ足音だけが遠ざかり、礼拝堂にはエルネとシオンが残された。
◇
学院へ戻る道には、夜の気配が降り始めていた。
「先輩。イストさんのこと、信じますか?」
「信じないよ」
シオンは即答した。
「早い!」
「彼は嘘をつかないと約束した。でも、知っていることを全て話すとは約束していないからね」
「確かに……」
「ただ、今日得た情報には価値がある。界断刃の名。レリックと代償。ヴァレルが幹部であること。そして、彼らが対抗する戦力を持っていること」
「会長たちには報告しないんですか?」
「今はしない」
「イストさんたちが、ヴァレルを追えなくなるかもしれないから?」
「それもある。でも、彼らの言葉を信じて待つつもりもないよ」
シオンは穏やかに笑った。
「学院へ入った方法は、気づかれないように調べる」
「先輩、やっぱりちょっと怖いです」
「褒め言葉として受け取っておこうかな」
「褒めてません」
(先生は、イストさんを信用できると思う?)
『判断不能です。発言の多くは検証を必要とします』
(先輩と同じこと言ってる)
『合理的判断です』
(でも、イストさんとも少し似てるよね)
『訂正を要求します』
返答が妙に早くて、エルネは少しだけ笑った。
やがて、魔法灯に照らされた学院の外壁が見えてくる。
正門を避け、二人は北側の古い実習棟へ回った。巡回の灯りが遠ざかるのを待ち、シオンが使われていない資材搬入口の鍵を開ける。
厳重になった正門。巡回する教師。外部からの侵入を防ぐ結界。
その全てを抜けて、イストはエルネの前へ現れた。
「学院って、安全なんですよね?」
シオンは扉の向こうに続く暗い実習棟を見つめ、静かに目を細める。
「安全にしなければならない場所だよ」
安全だとは、言わなかった。
二人は誰にも見つからないよう資材搬入口を閉じ、学院の中へ戻った。




