第六十六話 教団と万象解体書
王都外れの古い礼拝堂は、長い間使われていないようだった。
壁には亀裂が走り、左右に並ぶ長椅子も所々が朽ちている。色硝子の失われた窓から夕日が差し込み、埃の積もった床を赤く染めていた。
その奥。
ひび割れた祭壇の前に、一人の男が立っている。
学院でエルネへ招待状を渡した、神父のような格好をした男だった。
「ようこそお越しくださいました。エルネ・フィルさん」
男は穏やかに一礼すると、その隣へ目を向けた。
「そして、シオン・レイヴァンさん」
シオンは名乗っていない。
それでも男は、同行者まで初めから知っていたかのように自然に名を呼んだ。
エルネが胸元の黒い本を抱き寄せる横で、シオンは礼拝堂の内部を見回している。
人が潜んでいる気配はない。
魔法による罠も、今のところは感じられなかった。
「まずは、自己紹介をさせていただきましょう」
男は胸元へ片手を添え、再び頭を下げる。
「私はイストと申します。聖環学院で神父を務めさせていただいております」
「えっ!?」
エルネの声が、静かな礼拝堂に響いた。
「嘘でしょう?」
「これでも神に仕える身。嘘は申しません」
イストは少しだけ心外そうな顔をする。
シオンが静かに口を開いた。
「どの神に仕えているかが問題だと思いますが」
「…………」
イストの微笑みが、ほんのわずかに固まった。
「今は、申し上げられません」
「やっぱり怪しいじゃないですか!」
「身分について偽りはございません」
「一番大事なところを隠してますよね?」
「隠していることと、嘘を申し上げることは異なります」
「その言い方、ずるくない?」
「よく言われます」
「言われるんだ……」
悪びれた様子のないイストを見て、エルネはますます黒い本を強く抱いた。
「では、どうやって学院へ入ったんです?」
シオンが尋ねる。
ヴァレルの襲撃以降、学院は厳戒態勢にある。
来客には事前の申請が必要で、外部の人間が入れば生徒会にも報告が届く。
だが、イストが訪れた日、そのような予定は組まれていなかった。
「あなたがたが知りたいのは、そこではないでしょう」
イストは微笑み、答えを避けた。
シオンも、それ以上は追及しない。
「では、教えてもらいましょうか。断界のヴァレルについて」
「はい」
イストは静かに頷く。
「彼は、ある……そうですね。神、と呼ぶべき存在を信奉する教団の一員なのです」
「教団?」
「あなたも、その教団の人間ということですか?」
「ええ。まあ」
あまりにも軽い返事だった。
「仲間ってこと? やっぱり危険人物じゃない!」
「広く言えば、仲間ではあります」
イストは否定しなかった。
「ですが、彼とは面識がないのです」
「面識がない?」
「はい。言葉を交わしたことも、直接姿を見たこともありません」
「同じ教団なのに?」
「我々は一か所へ集まり、共に祈りを捧げているわけではありません。各地に散らばり、それぞれの立場で役目を果たしております」
聖環学院の神父であるイスト。
対抗戦へ乱入したヴァレル。
二人は同じものを信じながら、互いの顔さえ知らないという。
「同じものを信じている。それだけで、我々にとっては十分なのです」
「それなら、どうしてヴァレルについて知ってるんです?」
「彼が、教団の中でも無視できない行動を始めたからです」
「私をどこかへ連れていこうとしたこと?」
「そうです」
イストはエルネを見つめた。
「彼があなたをどこへ連れていこうとしたのかは、私にも分かりません。しかし、その目的は分かります」
「何?」
「あなたと、その本です」
「本!?」
エルネは反射的に、黒い本へ視線を落とした。
「正確には、万象解体書……そう伝えられています」
心臓が大きく跳ねた。
(先生!?)
『記録名と同一です』
ロゴスの声は、いつもと変わらず平坦だった。
『彼の発言に誤りはありません』
イストは、この本の正式な名を知っている。
「どうして、その名前を知ってるの?」
「我々にとって、その名は忘れることのできないものだからです」
シオンの視線が、イストから黒い本へ移る。
「本が目的なら、エルネ君まで連れ去る必要はないのでは?」
「万象解体書は、誰でも扱えるというわけではありません」
イストは祭壇の前で両手を重ねた。
「長い歴史の中で、その本が確認されたのは初めてのことなのです」
「初めてなのに、なんでこの本だって分かるの?」
「それは……」
それまで淀みなく答えていたイストの言葉が、初めて止まった。
「……今は、どうでもよいことです」
「どうでもよくないよ!」
「少なくとも、本日お話しするべき本筋ではありません」
「言い直しても同じです!」
イストは抗議を受け流し、黒い本へ視線を戻した。
「大切なのは、我らが信奉する存在にとって、あなたとその本、その両方が不可欠だということです」
(私と、先生が……)
『訂正を推奨します』
(何を?)
『彼らが認識しているのは万象解体書です。私の存在を認識しているとは限りません』
(今はそこじゃないよ!)
「そして、教団の中でも意見が割れているようです」
イストが続ける。
「あなたがその本を十分に使えるようになるまで待つべきだというものと、無理やりにでも力を目覚めさせるべきだというものに」
シオンの目が、わずかに細くなる。
「強硬派――というべき存在が、ヴァレルということですか?」
「はい」
「十分に使えるとか、目覚めさせるとか、何のことなんですか?」
エルネはイストを見据えた。
「私の何を目覚めさせるつもりなの?」
「それは、お伝えすることができません」
「また?」
「はい」
イストは申し訳なさそうに目を伏せる。
「今は」
「肝心なところは全部『今は』じゃないですか!」
「申し訳ありません」
「謝ればいいと思ってません?」
「そのようなつもりはございません」
「先輩、この人、全然教えてくれません!」
エルネが訴えても、シオンは答えなかった。
イストの言葉を一つずつ確かめるように、黙って彼を見つめている。
やがて、シオンが小さく息を吐いた。
「なるほど。あなたが身分を明かした理由が分かりました」
「どういうことです?」
エルネが尋ねる。
「彼らは少なくとも、ヴァレルのやり方で君を奪われることを、本気で防ごうとしている」
「私を守ろうとしてるってこと?」
「君自身のためか、万象解体書のためかは分からないけどね」
それだけなら、味方のようにも聞こえる。
だが、シオンの警戒は消えていなかった。
「もし僕たちがイストさんを告発した場合、きっと彼らも強硬手段に出る。ヴァレルとは別の手で」
「強硬手段?」
「イストさんを逮捕し、教団について話させようとしても、おそらく上手くはいかない」
報告が途中で止まる。
証拠が消える。
捕らえられたとしても、取り調べが始まる前に逃がされるかもしれない。
「そんなこと、できるんですか?」
「方法までは分からないよ。内部に協力者がいるのか、警備や手続きを欺く手段を持っているのかもね」
シオンはイストを見据える。
「ただ、来客の予定がない学院へ堂々と入り、誰にも止められずに帰った。身分を知られた程度では困らない備えがある。そう考えるべきでしょう」
「僕たちがあなたを告発しても、対処できる。違いますか?」
「問題がない、とまでは申し上げません」
「でも、対処はできる」
短い沈黙の後、イストは頷いた。
「……ええ」
「それなら、どうして自分から身分を明かしたんです?」
エルネが尋ねる。
「何も教えない方が、安全だったんじゃないの?」
「身元の知れない者の言葉を、信じていただけるとは思いませんでしたので」
「身元が分かっても、怪しさが増しただけですけど」
「それについては、否定いたしません」
イストは困ったように笑う。
だが、シオンはその言葉の先まで読んでいた。
「あなたは身分を明かすことで、自分たちが実在し、本気でヴァレルを止めようとしていると示した」
同時に、告発した場合の結果も考えさせた。
「僕たちが動けば、そちらも対処しなければならない。報告を止め、証拠を消し、あなたを逃がすために」
イストの重ねた指が、わずかに強く組まれる。
「そのために連絡経路を捨て、隠れていた協力者を動かせば、今ヴァレルを追っている網も失われる」
礼拝堂に沈黙が落ちた。
「自分を告発しても構わない。教団は、それにも対処できる」
シオンは静かに続ける。
「けれど、そのために動けば、ヴァレルを止められる可能性が下がる。結果として、エルネ君を守れる可能性も下がる」
イストの微笑みが、ほんのわずかに薄くなった。
「だから今は、動かないでほしい。そういうことでしょう?」
長い沈黙の後、イストは小さく息を吐く。
「随分と率直に言い換えられてしまいましたね」
「違いますか?」
「……いいえ」
答えは短かった。
声も表情も穏やかなまま。
それでも、重ねた指には力が込められている。
「我々は現在、ヴァレルへの対処を最優先としております」
「それって、私を脅してない?」
「脅迫する意図はございません」
「でも、告発したら危なくなるって言ってるよね?」
「起こり得る結果を、お伝えしているだけです」
「言い方がずるい!」
イストは微笑みを崩さなかった。
ただ、その返事はすぐには返ってこなかった。
「我々は、ヴァレルを止めます」
やがて、ゆっくりと言葉を選ぶように告げる。
「彼を止めるまでは――どうか、我々を追わないでいただきたい」
それは初めて聞く、明確な懇願だった。
「止められるんですか?」
シオンが尋ねる。
「止めるために、我々は動いております」
「止められるとは言わないんですね」
「確約できないことを申し上げるつもりはございません」
嘘は言わない。
ただし、言えないことは決して口にしない。
ヴァレルとは違う。
だからといって、味方でもない。
エルネは黒い本を抱き締めたまま、祭壇の前に立つ神父を見つめた。
――我々は、いまだ信じる者である。
彼らが何を信じているのか。
なぜ自分と万象解体書が必要なのか。
その答えは、またしても与えられなかった。




