第六十五話 学院を抜け出す夜
招待状を受け取った翌日。
エルネは女子寮の廊下で、リシアの部屋へ向かっていた。
昨夜はほとんど眠れなかった。
ヴァレルについて教える。
神父のような男が残した、その言葉が頭から離れない。
招待状には三日後の日没、王都外れの古い礼拝堂へ来るよう記されていた。信頼できる者を同行させても構わない、ともある。
だったら、最初に相談する相手はリシアだ。
同じ一年生で、一番話しやすい。きっと真剣に聞いてくれる。
そして、きっと――一緒に行くと言う。
扉まであと数歩というところで、エルネの足が止まった。
医務室の寝台。
包帯に覆われたカレン。
自分を逃がすため、一人でヴァレルの前へ残った姿が脳裏に浮かぶ。
もし、礼拝堂で同じことが起きたら。
今度はリシアが、エルネを守るために傷ついたら。
「……やめよう」
エルネは小さく呟き、踵を返した。
『相談することと、同行させることは同義ではありません』
(分かってるよ)
『では、相談を中止する理由はありません』
(リシアは絶対に来るって言うもん。私、たぶん断れない)
『非合理的です』
(先生は、リシアにあの顔で頼まれて断れるの?)
『顔貌によって判断は変化しません』
(先生に聞いた私が悪かった)
誰にも頼らず、一人で行くつもりはない。
礼拝堂の男がヴァレルの名を出した時、何か知っているような反応を見せた人物がいた。
エルネは進路を変え、生徒会室へ向かった。
◇
「王都外れの古い礼拝堂、か」
シオンは招待状を読み終えても、しばらく顔を上げなかった。
放課後の生徒会室には二人しかいない。
封蝋に刻まれた、閉じた瞳のような紋章。
その下に記された一文。
――我々は、いまだ信じる者である。
シオンの指が、封蝋の縁でわずかに止まった。
「シオン先輩。これ、知ってますよね」
「どうしてそう思うの?」
「今、知ってる人の止まり方をしました」
「止まり方で分かるものかな」
「いつも顔に出ないから、指を見ることにしました」
「観察されていたんだね」
「ごまかさないでください」
シオンは困ったように笑い、招待状を机へ置いた。
「行くつもり?」
「ヴァレルについて知りたいです」
「会長たちに話せば、止められるよ」
「……ですよね」
学院はヴァレルの襲撃以来、厳戒態勢にある。
正門の警備は増員され、生徒の外出は原則禁止。正体不明の人物から届いた招待状を見せれば、エルネは寮から出ることさえ禁じられるかもしれない。
「でも、知らないまま次を待ちたくありません」
「次?」
「ヴァレルが、また来るまでです」
シオンの笑みが、ほんの少し薄くなった。
「今度は、逃げるだけにはなりたくないんです」
エルネは自分の手を見る。
流転軌。
それだけでヴァレルに勝てるとは思っていない。
だが、誰かに守られながら震えているだけだった時とは違う。
少なくとも、自分へ向けられた攻撃を外すことはできる。
シオンはしばらく黙ってエルネを見ていた。
「……分かった。同行しよう」
「いいんですか?」
「一人で行かせるよりはね。今回は、僕と君の二人で行くのがいいと思う」
「二人だけですか?」
「うん」
「会長は?」
「言えば、まず許可しないだろうね」
「ガイウス先輩とか、ルシアン先輩は?」
「人数は増やさない」
柔らかな口調だったが、迷いはなかった。
「でも、罠かもしれません」
「その男が君を攫うつもりなら、その時にやっていると思うよ」
エルネは目を瞬いた。
「学院で?」
「君が一人になる場所を選んで声をかけた。攻撃する機会は十分にあったはずだ。それでも近づかず、招待状だけを置いて帰った」
「でも、仲間を呼ばれるのが怖かっただけかも」
「それなら、そもそも学院の中で接触する必要がない」
シオンは封蝋を指先でなぞった。
「誰かは知らないけれど、ずいぶん堂々と入ってきたものだね。今日、学院に来客の予定なんて組まれていなかったのに」
「予定がなかったんですか?」
「少なくとも、生徒会には何も届いていない。今は外部の人間が一人入るだけでも、必ず報告が来るはずだよ」
あの男は途中ですれ違った教官へ、当たり前のように会釈していた。
教官も不審がっていなかった。
まるで、最初からそこにいることを許されていたように。
「相手は、学院の誰かと通じている……?」
「それは分からないさ」
シオンはあっさり答えた。
「協力者がいるのかもしれない。警備の認識を欺いたのかもしれない。正規の許可があるように見せかけた可能性もある」
「どれでも怖いんですけど」
「そうだね」
「そんなに穏やかに認めないでください」
「ただ、少なくとも対話する意思はある。大人数で押しかければ、相手が姿を見せない可能性も高い」
「それで二人?」
「それもある。それに、何かあっても僕たち二人なら何とかできる」
シオンは当然のことのように言った。
「言い切りましたね」
「君は自分に向けられた攻撃へ対応できるようになった。僕は君を守りながら戦える。危険なら、二人で逃げればいい」
「相手がヴァレルくらい強くても?」
「勝つとは言ってないよ」
「今、すごく安心したのに」
「勝つために行くわけじゃない。話を聞き、生きて戻る。それなら何とかする」
静かな言葉だった。
「会長たちには、本当に何も言わないんですか」
「言えば出られないからね」
「あとで、すごく怒られません?」
「帰ってきてから考えよう」
「絶対に怒られる人の言い方だ……」
シオンは招待状を折り畳み、エルネへ返した。
「出発は三日後。日没前に礼拝堂へ着くようにする」
「正門は通れませんよね」
「もちろん」
「どうするんですか?」
「厳戒態勢になって増えた警備は、正門と外壁に集中している」
シオンは生徒会室の机から学院の見取り図を取り出した。
細い指が、敷地の北側にある古い実習棟を示す。
「ここに、今は使われていない資材搬入口がある。結界の内側からなら開けられる」
「副会長が教えていい道なんですか?」
「よくないね」
「迷いなく答えた!」
「だから、誰にも言わないように」
「会長にも?」
「特に会長には」
その言葉だけで、エルネは礼拝堂に行くことよりも、帰ってきた後の方が怖くなった。
◇
当日を迎えた。
日が傾き始めた頃、エルネは黒い本を抱え、古い実習棟の裏手に立っていた。
蔦に覆われた鉄扉の前で、シオンが鍵を差し込む。
小さな音を立て、長く閉ざされていた扉が開いた。
その向こうには、学院の外へ続く細い道。
「今なら、巡回が反対側へ回っている。行こうか」
「本当に行くんですね」
「ここまで来て、やめる?」
エルネは胸元の招待状へ触れた。
ヴァレルの目的。
あの短剣。
そして、いまだ何かを信じ続けている者たち。
「行きます」
二人が外へ出る。
背後で鉄扉が閉じ、学院の灯りが見えなくなった。
王都の外れには、古い礼拝堂の尖塔が夕闇の中に浮かんでいた。
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