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第六十四話 我々は、いまだ信じる者である

 訓練場から女子寮へ戻る頃には、空が赤く染まり始めていた。


「疲れた……」


 エルネは黒い本を抱えたまま、石畳の道をとぼとぼと歩く。


 魔力は残っている。


 流転軌《ベクトル・シフト》は、飛んでくる攻撃を正面から受け止める魔法ではない。ほんの少し進路を曲げるだけなので、消費も小さい。


 それなのに、頭の中だけは何時間も試験を受け続けたように重かった。


(先生。私、魔力は残ってるんだよね?)


『はい。十分な残量を確認しています』


(なのに、どうしてこんなに疲れてるの?)


『感知、軌道予測、干渉位置の選択を短時間に繰り返したためです。精神的な疲労と推測します』


(先生は疲れてないの?)


『疲労に該当する機能はありません』


(少しくらい付き合ってくれてもいいのに)


『同じ速度で移動することは可能です』


(そういう意味じゃない)


 寮へ続く道には、ほとんど人影がなかった。


 訓練場で起きた轟音を聞きつけた生徒たちは、逆方向へ集まっているらしい。


 遠くから、教官らしき怒鳴り声が聞こえた。


「訓練場の壁を壊した者は誰だ!」


 エルネは歩く速度を少しだけ上げた。


(先生。聞こえなかったことにしよう)


『聴覚上、明瞭に確認しています』


(確認しなくていいから)


 角を曲がる。


 女子寮まで、あと少し。


 その道の脇に、一人の男が立っていた。


 年齢は四十歳前後だろうか。


 黒い長衣に身を包み、首元には銀色の飾りが下がっている。整えられた髪と穏やかな顔立ちは、どこかの教会に勤める神父のようだった。


 学院を訪れた聖職者。


 そう言われれば、何の疑問も抱かなかっただろう。


 男はエルネを見ると、静かに一礼した。


「エルネ・フィルさんですね」


「はい……?」


 エルネは足を止めた。


「どちら様でしょうか」


 男の視線が、エルネの抱える黒い本へ一瞬だけ落ちる。


 ほんの一瞬。


 けれど、その目の動きをエルネは見逃さなかった。


「単刀直入に申し上げます」


 男は穏やかな笑みを浮かべたまま告げる。


「ヴァレルについて、お教えしましょう」


 背筋に冷たいものが走った。


 エルネは反射的に一歩後ろへ下がる。


 黒い本を胸元へ引き寄せ、右手を前へ出した。


 流転軌を発動するための魔力を巡らせる。


『対象から攻撃準備に該当する魔力反応は確認できません』


(でも、ヴァレルを知ってる)


『その点は否定できません』


 誰かを呼ばなければ。


 シオンはまだ訓練場にいる。


 セレスティアも、ガイウスも、ミュゼもいる。


 大声を出せば、誰かが来てくれるかもしれない。


 そう考えた瞬間。


 全身に包帯を巻かれ、医務室の寝台に横たわるカレンの姿が脳裏をよぎった。


 自分を逃がすため、一人でヴァレルの前に残った。


 傷だらけになっても、エルネを守ろうとした。


 また誰かを呼んだら。


 また、自分の代わりに誰かが傷つくのではないか。


「近寄らないで!」


 エルネの声が、静かな道へ響いた。


 男はすぐに足を止めた。


「承知しました」


 両手を上げることも、慌てて弁解することもしない。


 ただ、その場でエルネとの距離を保つ。


(私一人で、なんとかしなくちゃ)


『その判断には危険が伴います』


(分かってる。でも――)


『否定します。現在のあなたは、危険を一人で処理することと、誰かを守ることを混同しています』


 ロゴスの言葉に、エルネは一瞬だけ息を詰まらせた。


 男はそんなエルネを見つめ、わずかに目を細める。


「ご安心ください。あなたを連れ去るつもりはありません」


「信じられるわけないでしょう」


「ごもっともです」


 あまりに素直に認められ、エルネの方が言葉に詰まった。


 男から強い魔力は感じない。


 武器らしいものも見えない。


 流転軌を使おうとしても、淡青色の軌道はどこにも現れなかった。


 攻撃がないのだから、曲げるべき進路もない。


 それが逆に不気味だった。


「では、何をしに来たんですか」


「これをお渡しするためです」


 男は長衣の内側へ手を入れた。


 エルネの指先へ力が入る。


 しかし、取り出されたのは一通の封筒だった。


 白い封筒。


 黒い封蝋。


 中央には、見覚えのない紋章が刻まれている。


「そこに置いてください」


「もちろんです」


 男は近くの石造りの欄干へ封筒を置いた。


 そして、エルネからさらに一歩離れる。


「招待状です」


「招待……?」


「ヴァレルの目的。そして、彼が所持する短剣についてお話しします」


「あなたは、あの人の仲間なんですか」


 男は少し考えるように沈黙した。


「同じ場所に所属している、という意味であれば」


「やっぱり仲間じゃないですか」


「同じ学院の生徒が、すべて同じ考えを持っているわけではないでしょう」


「それは……」


「我々も同じです」


 男の口調は最後まで穏やかだった。


 ヴァレルのような威圧感もなければ、エルネを値踏みするような冷たさもない。


 だからこそ、何を考えているのか分からなかった。


「あなたたちは、何なんですか」


「その答えも、招待に応じていただければ」


「ここで話してください」


「この場所では、話せないこともございます」


「それなら、シオン先輩たちを呼びます」


「信頼できる同行者をお連れいただくことは、問題ありません」


 エルネは眉を寄せた。


「一人で来い、とは言わないんですか」


「そのようなことを申し上げても、信用を失うだけでしょう」


「もう十分怪しいですけど」


「それも、ごもっともです」


 何を言っても穏やかに返される。


 エルネはだんだん腹が立ってきた。


「あなた、名前は?」


 男は少しだけ笑った。


「招待に応じていただければ、その時に」


「何も教えてくれないじゃないですか!」


「ヴァレルについて教える、と申し上げました。私について教えるとは申し上げておりません」


「そういう言葉の使い方、ずるくないですか?」


「時折、言われます」


 初めて男の笑みに、わずかな人間らしさが混じった。


 だが、それもすぐに消える。


「本日は、用件のみで失礼いたします」


「待ってください」


 男は一礼し、踵を返した。


「あなたは、ヴァレルをどうしたいんですか」


 足が止まる。


 男は振り返らずに答えた。


「止めなければならないと考えています」


「どうして?」


「彼が、我々の許容できる境界を越えたためです」


「私を襲ったからですか」


「それだけではありません」


 男はゆっくりと振り返る。


 穏やかな目が、今度はまっすぐにエルネを捉えた。


「ヴァレルは、あなたが何者であるかを確かめるためなら、どれほどの犠牲が出ても構わないと考えています」


 エルネの胸が強く鳴った。


「私が、何者……?」


「その答えを、彼より先に見つける必要があります」


 それだけ告げると、男は再び歩き出した。


 光に包まれることもない。


 空間を切り裂くこともない。


 ただ、普通に石畳の道を歩いていく。


「待って!」


 エルネは一歩踏み出した。


『追跡を推奨しません』


(どうして?)


『攻撃反応はありません。しかし、周囲から複数の視線を検出しています』


 エルネは足を止め、辺りを見回した。


 校舎の窓。


 並木の陰。


 夕暮れに沈む屋根の上。


 人の姿は見えない。


(仲間がいるの?)


『不明です。学院の警備、一般生徒、あるいは別の観測者である可能性があります』


 男は途中ですれ違った教官へ、丁寧に頭を下げた。


 教官も特に不審がることなく、軽く会釈を返している。


 そのまま男は正門へ向かい、やがて夕暮れの中へ消えていった。


 あまりにも普通に。


 まるで、正式な客人として学院を訪れただけのように。


「……何なの、あの人」


『現時点では判断できません』


「先生でも分からないの?」


『情報が不足しています』


「そういうところは正直だよね」


 男の姿が完全に見えなくなってから、エルネは欄干へ近づいた。


 白い封筒。


 黒い封蝋。


 紋章は、円の中に閉じた瞳のような形をしていた。


(罠は?)


『既知の呪詛、転移、攻撃術式は確認できません』


(じゃあ、安全?)


『否定します。確認できないことと、安全であることは同義ではありません』


「ですよね……」


 エルネは慎重に封筒を持ち上げた。


 表には、整った文字で自分の名前が記されている。


 エルネ・フィル殿。


 封蝋を割り、中の紙を開く。


 場所は、王都の外れにある古い礼拝堂。


 日時は、三日後の日没。


 信頼できる同行者を連れてきても構わない、と書かれている。


 そして、その下。


 短い一文だけが、他よりも濃いインクで記されていた。


 エルネは声に出して読む。


「我々は、いまだ信じる者である」


 夕暮れの風が、招待状を小さく揺らした。

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