第六十一話 ないなら、新しく作ります
「先生?」
机に置かれた黒い本は、返事をしなかった。
開かれたページには文字もなく、ただ底の見えない黒だけが広がっている。
ロゴスが第一封鎖と呼ばれる領域へ接続してから、どれほど経ったのだろう。
窓の外は、すっかり暗くなっていた。
いつもなら、呼びかければすぐに返ってくる。
どうでもいい独り言にまで、必要のない訂正を返してくるくせに。
「先生。聞こえてる?」
エルネがもう一度呼びかけた、その時だった。
黒いページの上を、細い白線が走った。
『接続を終了しました』
「わっ!」
思わず椅子ごと後ろへ下がる。
「返事するなら、もう少し前触れがあってもいいんじゃない?」
『呼びかけを確認したため、応答しました』
「そういう話じゃないの」
ロゴスの声は、いつもと変わらない。
それだけで、胸の奥に溜まっていた息が抜けていく。
「戻ったんだよね?」
『はい』
「何か分かった?」
『複数の情報を取得しました』
エルネは椅子を引き戻し、黒い本の前へ座り直した。
「最初から聞かせて」
『万象解体書は、現象を観測し、その構造と成立条件を理解するための機能を有しています』
「魔法を教えてくれる本、ってこと?」
『不正確です。完成した魔法を与えるのではなく、使用者自身の理解を補助するものだと推測されます』
「私たちが今までやってきたみたいに?」
蒼炎針。
霧星糸。
空律鋏。
磁界釦。
どれも、既存の術式を覚えて使ったものではない。
目の前で起きた現象をロゴスと共に調べ、必要な働きだけを取り出して、新しい術式へ組み直した。
『近いと判断します。ただし、本来想定された使用方法と、現在の使用方法が一致している保証はありません』
「何のために作られたの?」
『最終的な目的は不明です』
「作った人は?」
『不明です』
「そこは何も分からなかったんだ」
『作成者に関する情報は取得できませんでした』
少し残念ではあった。
けれど、ロゴスが分からないことを、分からないまま伝えてくれた。
以前なら、必要のない情報だと判断して、話さなかったかもしれない。
『より重要な情報があります』
「何?」
『万象解体書は、あなたの魔力へ直接接続しようとしていました』
エルネの表情が固まった。
「私に、何をするために?」
『魔力流路、知覚領域、現象への理解に影響を与える処理だと判断します』
「それって、私の中を変えるってこと?」
『可能性はあります』
「記憶とか、性格も?」
『人格への干渉は目的ではないとの回答を得ました』
「じゃあ、大丈夫なの?」
『否定します。目的に含まれていないことと、影響が発生しないことは同義ではありません』
安心しかけた心が、一瞬で元へ戻った。
悪意がないから安全とは限らない。
知らないうちに、自分の感じ方や考え方まで変えられる可能性がある。
「先生は、どうしたの?」
『接続を遮断しました』
「私に聞かずに?」
『緊急性が高いと判断しました』
エルネは少しだけ考えた。
本当なら、また勝手に決めたと怒るところだ。
けれど、危険な処理を止める前に相談されても困る。
「……それは、ありがとう」
『はい』
「でも、そのことをちゃんと話してくれたんだね」
『隠すべきではないと判断しました』
「前だったら?」
『安全は確保したとだけ報告していた可能性があります』
「そこは否定しないんだ」
『事実です』
相変わらず、言葉には容赦がない。
それでも、少し変わった。
危険を一人で抱え込み、エルネには安心できる部分だけを見せるのではなく、怖いことも、分からないことも話してくれた。
「先生の知識も、あの本に使われてるの?」
『はい。私の知識は、この世界の魔法を異なる観点から理解するための基準として利用されています』
「私の中に、先生の知識を入れようとしてるわけじゃない?」
『否定します。理解していない情報を、そのままあなたの能力として定着させることはできないとの回答を得ました』
「じゃあ、私が理解しないと使えない」
『はい』
その答えには、少しだけ安心できた。
突然、知らない力を頭へ押し込まれるわけではない。
反対に言えば、強くなるためには、自分で考えて理解しなければならないということでもある。
「ヴァレルの短剣については?」
『情報を取得しました』
エルネの指先に力が入る。
カレンを斬った黒い線。
空間を切り裂き、その向こうへ消えた灰銀色の男。
『万象解体書による回答では、《登録済み魔法具に分類されます》』
「何に登録されてるの?」
『詳細は取得できませんでした。用途については、《攻撃・移送・その他の目的など多岐に渡ります》』
「移送……」
『使用者の登録については、《その記録は抹消されました。現在の使用者については不明》との回答です』
「ヴァレルが持っていたのに?」
『所持者と、登録上の使用者が一致するとは限りません』
「誰が記録を消したの?」
『不明です』
「また不明」
『はい』
だが、移送という言葉には心当たりがある。
ヴァレルは、エルネを見て言った。
迎えに来た、と。
「ヴァレルは、私を殺すんじゃなくて、どこかへ連れていこうとしたのかな」
『その可能性は高いと判断します』
「どこに?」
『不明です』
「連れていって、何をするつもりだったの?」
『不明です』
答えは出なかった。
けれど、ヴァレルの狙いが黒い本だけではない可能性は高くなった。
エルネ自身を、どこかへ移送する。
そのためにカレンを斬り、セレスティアと戦い、学院へ侵入した。
「また来ると思う?」
『可能性はあります』
「次に来た時、私は自分で止められる?」
短い沈黙のあと、ロゴスは答えた。
『現状では困難です』
「はっきり言うね」
『誤った期待を与えるべきではありません』
分かっていた。
ヴァレルを前にして、エルネは何もできなかった。
カレンが傷つき、セレスティアが駆けつけて、ようやくヴァレルは退いた。
また誰かが自分の前に立つまで待つ。
そんなことは、もうしたくない。
「私、強くなりたい」
『確認しています』
「今度は、誰かに守ってもらうだけじゃなくて、自分でも戦えるようになりたい」
『目標として記録します』
「方法は……まず先輩たちに聞いてみる!」
『……試行は自由です』
「今、変な間があったよね?」
『否定します』
「絶対あった」
◇
翌日の放課後。
エルネは生徒会室の扉の前に立っていた。
手を上げる。
けれど、叩けない。
『入室を推奨します』
(分かってる)
『扉の前で百四秒経過しています』
(数えなくていいから!)
意を決して、扉を叩く。
「どうぞ」
セレスティアの声が返ってきた。
「失礼します」
生徒会室には、セレスティアとシオンがいた。
机の上には、対抗戦襲撃事件に関する書類が積み上げられている。
二人が忙しいことは、見れば分かった。
それでも、今は聞いておきたかった。
「あら、エルネさん」
セレスティアが書類から顔を上げた。
「何か報告があるのかしら?」
「報告もあります。でも、その前にお願いがあります」
エルネは黒い本を抱き直した。
「私に、戦い方を教えてください」
セレスティアとシオンが、ほぼ同時に黙った。
「理由を聞く必要はなさそうね」
セレスティアが静かに言う。
「カレンのことかしら」
「それもあります」
エルネは頷いた。
「でも、それだけじゃありません。またヴァレルが来た時、誰かが私を守って傷つくのを待ちたくないんです」
「一人で戦いたい?」
「一人でも、戦えるようになりたいです」
誰の力も借りないという意味ではない。
これまでも、何度も助けられた。
これからだって、きっと助けられる。
だからこそ、自分も誰かを助けられるようになりたかった。
セレスティアはエルネの顔を見つめ、やがて小さく息を吐いた。
「学院の先生に相談したら――と言いたいところだけれど、同じことを言われそうだから、私が言うわ」
「同じこと?」
「大体の場合は、先達から学ぶものよ。すでに誰かが歩いた道をたどり、失敗を避けながら強くなる」
セレスティアの視線が、エルネの抱える黒い本へ落ちる。
「けれど、あなたの魔法は普通ではないわ」
「……はい」
「私たちの魔法と似て見えても、術式の考え方が根本から違う。基礎訓練なら教えられるけれど、あなたの個性を伸ばすという意味では、私は適任ではないわね」
「セレスティア先輩でも?」
「私だから、かもしれないわ」
意外な答えだった。
「私は、自分のやり方なら教えられる。でも、あなたが同じやり方で強くなれるとは限らない。分からないものを、分かったふりで教えることはできないわ」
断られた。
けれど、突き放されたとは感じなかった。
「先輩は、どうやって強くなったんですか?」
「私?」
セレスティアは少し考えた。
「うーん」
しばらく真剣に悩んだ末、きれいな顔で言った。
「最初から強かったから、よく分からないわね」
「聞く人を間違えました」
「失礼ね。私だって努力はしたわよ?」
「何をしたんですか?」
「できないことを、できるようになるまで繰り返したわ」
「最初にできなかったことは?」
「いくつかあったと思うけれど」
「覚えてないんですか?」
「昔のことだもの」
「やっぱり参考にならない……」
「会長の経験を一般化するのは、おすすめしません」
シオンが穏やかに口を挟んだ。
「シオン?」
「会長は、できない状態を想定するのがあまり得意ではありませんから」
「最近、私への扱いが少し雑ではなくて?」
「事実を申し上げています」
シオンはエルネへ顔を向けた。
「僕が教えられるのも、基礎的な魔力制御や、危険な場面での判断くらいかな」
「シオン先輩も?」
「うん。君の術式に僕たちの方法を無理に当てはめると、長所を損なうかもしれない」
「でも、今のままじゃヴァレルには届きません」
「その通りだね」
シオンは、そこで言葉を濁さなかった。
「君の魔法は、状況に必要な答えを作ることに優れている。でも、その答えを作るまでに時間がかかる」
ヴァレルの一撃を思い出す。
気づいた時には、黒い線がカレンへ届いていた。
「ヴァレルのような相手は、君が術式を完成させるまで待ってくれない」
「じゃあ、どうすれば……」
「それを僕たちが決めるのは、少し危険だと思う」
シオンの細い目が、エルネの抱える黒い本へ向けられた。
「君の魔法は、その本の補助を受けて生まれたものなんだろう?」
「はい」
「だったら、今ある術式をどう伸ばせるのか、まずはその本を調べた方がいいんじゃないかな」
セレスティアも黒い表紙へ目を向けた。
「少なくとも、私たちより、その禁書の方があなたの術式には詳しそうね」
エルネは腕の中の黒い本を見下ろした。
ロゴスが意思を持ち、エルネと会話できる存在だということを、二人は知らない。
だから、ただ小さく頷く。
「……調べてみます」
「基礎訓練なら、いつでも付き合うわ」
セレスティアが続けた。
「体力も、魔力の維持も、覚えておいて損はないもの」
「僕も、回避や足運びくらいなら見られるよ」
「ありがとうございます」
欲しかった答えとは、少し違った。
それでも、できることはある。
そのことが分かっただけでも、来てよかったと思えた。
◇
生徒会室を出たエルネは、誰もいない廊下で足を止めた。
(先生)
『はい』
(こうなるって分かってた?)
『はい』
(やっぱり!)
『両名の回答は、予測の範囲内でした』
(だったら、最初から先生が教えるって言えばよかったじゃない)
『私が唯一の選択肢であると、確認前に断定することは適切ではありません』
(私に選ばせたの?)
『はい』
以前のロゴスなら、最も効率のよい方法だけを示していたかもしれない。
先輩たちへ相談する時間は不要だと判断し、初めから答えを決めていたかもしれない。
(私が、セレスティア先輩たちに教わるって言ったら?)
『その選択を支援しました』
(先生は、それでよかったの?)
『非効率であると判断した可能性はあります』
(正直だね)
『事実です』
エルネは小さく笑った。
それから、黒い本を胸の前へ持ち上げる。
(先生なら、私に教えられる?)
『はい』
迷いのない答えだった。
『こうなることは予測していました』
(だから黙ってたの?)
『あなた自身が、ほかの選択肢を確認する必要があると判断しました』
そして、ロゴスは告げた。
『エルネの訓練は、私が見ます』
いつもと変わらない、平坦な声。
それでも、その言葉はエルネの胸へまっすぐ届いた。
(……お願いします。先生)
『確認しました』
(最初は何をするの?)
『訓練方針を提示します』
黒いページに、これまでの戦闘記録映像が浮かび上がる。
拳を振るうカレン。
氷の上を滑るシオン。
雷風をまとい、瞬時に距離を詰めるセレスティア。
そして、ヴァレルの黒い刃を前に立ち尽くすエルネ。
『魔導士といえど、これまでの戦いから接近戦への対応が必要なのは明らかです』
(私も殴るの?)
『推奨しません』
(よかった)
『筋力、速度、技術、経験のすべてが不足しています』
(そこまで言わなくてもよくない?)
『事実です』
少しもよくなかった。
『優先すべきは、敵が接近した状況でも、素早く魔法を発動させることです』
(動きながら魔法を使えるようにする?)
『はい。それと同時に、攻撃を正面から受けないための体裁きを学ぶべきだと判断します』
(体裁きは、シオン先輩たちに教えてもらえるかも)
『推奨します』
(魔法は?)
『接近戦に適した魔法を選定します』
黒いページに、四つの術式が浮かんだ。
蒼炎針。
霧星糸。
空律鋏。
磁界釦。
(蒼炎針が一番速いんじゃない?)
『否定します』
(でも、対抗戦ではすぐ発動できたよね)
『即時発動には、莫大な魔法力を消費します。緊急時の使用は可能ですが、接近戦で繰り返し使用する手段には適しません』
(じゃあ、空律鋏?)
『物理攻撃への効果がありません』
(磁界釦は?)
『対象と固定位置を定めるまでに時間を要します』
(霧星糸は、攻撃魔法じゃないし)
『はい』
(全部駄目じゃない)
『現在保有する魔法の中に、条件を満たすものはありません』
四つの術式が、黒いページから消えていく。
残ったのは、何も描かれていない空白だけだった。
(じゃあ、どうするの?)
ロゴスは、あまりにも当然のことのように答えた。
『新しく作ります』




