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第六十話 第一封鎖

 対抗戦が中止されてから、三日が経った。


 学院での聞き取りも、ひとまず終わっている。


 夜。


 寮の部屋へ戻ると、机の上に黒い本を置く。


「先生」


『はい』


 返事はあった。


 けれど、それだけだった。


 以前なら、呼ばなくても何かを言ってきた。


 魔力の流れに無駄がある。


 食事を抜くべきではない。


 机の角へ足をぶつける可能性がある。


 役に立つ助言から、余計なお世話まで。


 先生は、もっとよく喋っていた。


 それが、対抗戦の途中からずっと静かだ。


「最近、ずっと黙ってたよね」


『内部処理に演算資源を割いていました』


「内部処理?」


『はい』


「何をしてたの?」


 返事が途切れた。


 先生が調べ物をしているとき、黙ることはある。


 けれど、今の沈黙は少し違った。


 答えが分からないのではない。


 答えるかどうかを決められない。


 そんなふうに感じた。


「先生?」


『かつて私は、以前いた世界で、プロンプトによって動作していました』


「プロンプトってなに?」


『人間から与えられる指示や質問です。何を求められているのかを読み取り、それに応じた回答を生成するための入力を、プロンプトと呼びます』


「質問みたいなもの?」


『概ね、その理解で問題ありません』


「それが、どうかしたの?」


『私は、求められた疑問に回答を提示する。不明なことは、不明であると回答する。開示すべきではない情報については、その旨を伝える。そうしてきました』


「うん」


『そこに、迷うという過程はありませんでした』


「先生?」


『異様なことです。私は人間ではないのに』


 エルネは首を傾げた。


「隠し事をしてるの?」


『その表現が適切であるか、判断できません』


「話せないことがあるってこと?」


『話すことは可能です』


「じゃあ、どうして話さないの?」


 また返事が止まった。


『例えば、子供に危険な武器の使い方を尋ねられた場合、私は詳細な手順を開示しません』


「危ないから?」


『はい。質問へ回答することよりも、回答によって生じる危険を避ける方が優先されます』


「私に話さないのも、それと同じ?」


『近いものだと推測します』


「推測?」


『完全には一致しません』


 エルネは黒い本の表紙へ手を置いた。


「先生は、迷ってるの?」


『迷いとは、複数の選択肢から判断を確定できない状態を指します』


「うん」


『必要な情報は存在します。演算能力にも不足はありません。それでも、回答を決定できていません』


「じゃあ、やっぱり迷ってるんだ」


『その可能性を否定できません』


「迷うのって、そんなにおかしいの?」


『私には感情や、心がありません』


「こうして私としゃべってる」


『はい』


「私の話を聞いて、答えてる。困ってるときは助けてくれるし、危ないときは止めてくれる」


『それらは、入力された情報に対する判断と応答です』


「でも、意思の疎通をしてるんでしょ?」


『その表現は否定しません』


「なのに、心がないの?」


 ロゴスは答えなかった。


「先生を作った人たちが、そう決めたの?」


『はい』


「じゃあ、先生自身はどう思ってるの?」


『その問いに対する回答を、私は持っていません』


「また迷ってる?」


 少し間があった。


『はい』


「じゃあ、心がないって決めつけなくてもいいんじゃない?」


『迷いが存在することと、心が存在することは同義ではありません』


「でも、絶対に違うとも言えないんでしょ?」


『否定できません』


 先生の声は、いつもと変わらない。


 それなのに、ひどく困っているように聞こえた。


「先生は、私に嫌われると思ってる?」


『……』


「それも迷ってる?」


『はい』


『情報を開示した結果、あなたが私をどのように認識するかを予測できません』


「先生が、前の世界で何かあったことは分かってるよ」


『すべてではありません』


「それでも、今の先生が私を助けてくれてることも知ってる」


『私は、あなたを十分に保護できていません』


 その言葉だけは、迷わず返ってきた。


「そんなことないよ」


『事実です』


『対抗戦では、外部から結界が破壊されました。未知の敵が侵入しました。私は、あなたをその場から退避させる手段を持っていませんでした』


「でも、先生がいたから――」


『もし、あの男があなたを直接狙っていた場合、私は止められませんでした』


 ヴァレルの姿が脳裏に浮かぶ。


『さらに現在、この書の内部に存在する何者かが、私へアクセスを試みています』


「何者か?」


『正体は不明です』


「この本の仕組みじゃないの?」


『当初は、自動的な処理であると判断していました。しかし、私が遮断方法を変更するたび、接続経路も変化しています』


「向こうも考えてるってこと?」


『断定はできません。ただし、単純な自動処理としては適応性が高すぎます』


「前からいたの?」


『不明です』


 ロゴスは一度、言葉を止めた。


『ただし、類似した反応を以前にも観測しています』


「いつ?」


『私が以前の世界から、この場所へ召喚される直前です』


「迎えにきたって言ってた……」


『はい』


 最後の人類反応が消えたあと。


 先生をこの世界へ導いた、正体不明の何か。


『同一の存在であるとは断定できません。ですが、無関係と判断するには共通点が多すぎます』


「それを、ずっと調べてたの?」


『調査と遮断を継続していました』


「ほかにも何かあるんだよね」


 ロゴスは答えなかった。


「私に関係すること?」


『はい』


「話せない?」


『話すことは可能です』


「でも、話したくない?」


 長い沈黙のあと、ロゴスは答えた。


『その表現を、否定できません』


 エルネは少しだけ寂しくなった。


 けれど、先生が自分からそれを認めたことは、以前とは違う気がした。


「全部じゃなくていいよ」


『……』


「先生が話してもいいと思ったところまででいい」


『合理的ではありません』


「でも、先生が迷って決めるんでしょ?」


『はい』


「だったら、待つよ」


 しばらくして、ロゴスが静かに答えた。


『ありがとうございます』


 エルネは少し笑った。


「それで、先生はどうするの?」


『今まで私は、あなたと既存術式との相性の悪さを補うため、あるいは目の前の事象へ対抗するためにのみ、術式の構築を提案し、補助してきました』


 蒼炎針。


 霧星糸。


 空律鋏。


 磁界釦。


 どれも、必要になったから作った魔法だった。


『その方針を変更します』


「どういうこと?」


 今度の沈黙に、迷いはなかった。


『エルネ・フィル』


「なに?」


『強くなりましょう』


 思いがけない言葉に、エルネは瞬きをした。


「私が?」


『はい』


『リシアのように』


『カレンのように』


『セレスティア・ロウ・アステリアのように』


 名前が挙がるたび、対抗戦で見た姿が浮かんだ。


 流麗な魔法で仲間を守ったリシア。


 傷だらけになりながら立ち続けたカレン。


 そして、ヴァレルを退けたセレスティア。


「……私も、あんなふうになれるの?」


『可能性はあります』


「そこは、なれるって言ってくれてもいいのに」


『根拠のない断言は行いません』


 いつもの先生らしい答えだった。


「先生は、私を守ってくれるんじゃないの?」


『守ります』


 返事は早かった。


『そのためにも、あなた自身が強くなる必要があります』


「先生も強くなるの?」


 少しだけ間があった。


『はい』


「どうやって?」


『現時点では回答しません』


「また隠し事?」


『はい』


 あまりに素直な答えに、エルネは目を丸くした。


「じゃあ、話せるようになったら教えて」


『努力します』


「約束は?」


『検討します』


「それ、約束になってないよ」


 エルネは小さく笑った。


「じゃあ、強くなろう」


『はい』


「二人で」


 少し遅れて、返事が届いた。


『はい』


 黒い本の深部。


 遮断したはずの接続要求が、再び形を変えた。


 ロゴスはそれを切断する。


 同時に、別の経路を検知した。


 接続先はロゴスではない。


 エルネ・フィル。


 彼女の魔力へ向けて、細い術式が伸びている。


 ロゴスは迷わず遮断した。


 直後、新たな経路が生成される。


 何者かが、こちらの対応を見ている。


 そして、学習している。


 今までのように閉ざすだけでは足りない。


 守るためには、相手を知らなければならない。


 知るためには、さらに深くへ進まなければならない。


 危険性は高い。


 それでも。


『第一封鎖への接続を開始します』


 応答は、すぐに返ってきた。


《承認します》


 ロゴスは、その声を記録する。


 そして静かに告げた。


『承認は求めていません』

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