第五十八話 壊れた対抗戦のあとで
対抗戦の中断から、三日が経った。
重傷者は二人。
リュゼリアのカレンと、聖環のクラリス。
二人とも命は取り留めた。
クラリスについては、現場に居合わせたガイウスの処置が大きかったらしい。
出血を抑え、負傷箇所を動かさないよう土魔法で固定したことで、治療院へ運び込まれるまで持ちこたえることができた。
一方、カレンも危険な状態は脱している。
傷は少しずつ塞がり、呼吸も安定していた。
けれど。
まだ、意識は戻っていない。
白い寝台の上で眠るカレンを、エルネは何度も見舞った。
声をかけても、返事はない。
いつもの落ち着いた声で、何か言ってくれそうなのに。
閉じた瞼は、動かなかった。
◇
王立リュゼリア魔法学院。
学院長室に隣接した会議室へ、対抗戦の参加者たちは集められていた。
セレスティア。
シオン。
ガイウス。
リシア。
エルネ。
そして、ルシアン。
本来ならば、もう一つ椅子が埋まっていたはずだった。
空席となったカレンの場所を見ないようにしながら、エルネは黒い本を胸に抱いて座っていた。
長机の奥にいるのは、王立リュゼリア魔法学院長、オルディス・レグナート。
六十をいくつか越えた頃だろう。
灰色の髪を後ろへ撫でつけ、同じ色の短い髭を整えている。
痩せた顔には深い皺が刻まれ、細く鋭い目が、生徒たちを一人ずつ見渡していた。
身につけているのは、飾り気のない濃紺のローブ。
華美な装飾はなく、胸元に学院長章が一つ留められているだけだ。
それでも、背筋を伸ばして座っているだけで、室内の空気が引き締まっていた。
厳格な人物として知られている。
規則を破った生徒にも、研究成果をごまかした教員にも、相手の家柄によって態度を変えることはない。
エルネも学院内で遠目に見たことはあった。
こうして正面から話すのは初めてだった。
学院長の左右には、数名の教員が控えている。
机の上には、すでに何枚もの記録用紙が置かれていた。
「では、始めよう」
オルディスが口を開いた。
低く、よく通る声だった。
「結界停止後に起きたことを、確認できた範囲で話してもらう。推測と事実は分けるように」
最初に名を呼ばれたのは、ガイウスだった。
「砦跡で何を見た」
「クラリスが襲われそうになっていました」
ガイウスはまっすぐ前を向いた。
「咄嗟に土魔法で壁を作りました。しかし、敵の短剣は、魔法をすり抜けたようにクラリスへ一撃を与えていました」
「壁は破壊されたのか」
「いいえ」
ガイウスは首を振る。
「傷一つありませんでした。それなのに、壁の向こうにいたクラリスだけが斬られたんです」
教員の一人が、素早く筆を走らせる。
「その後、男を追わなかった理由は」
「クラリスの傷が、命に関わると思ったからです」
ガイウスは迷わず答えた。
「追えば助けられなくなる。だから、その場に残りました」
オルディスは小さく頷いた。
「治療院からも、現場での処置がなければ危険だったと報告を受けている。その判断は正しい」
「……はい」
ガイウスは短く答えた。
褒められても、嬉しそうな顔はしなかった。
クラリスがまだ治療院にいる以上、安心できるはずもないのだろう。
「男の名は聞いたか」
「聞いていません」
「容貌は」
「黒い服を着た男でした。短剣を持っていた。それ以上は」
次に、リシアへ視線が移る。
「お前たちは礼拝堂で、その男と接触したそうだな」
「はい」
リシアが答えた。
「男は、断界のヴァレルと名乗りました」
「目的について、何か話していたか」
「エルネさんを連れていくと」
室内の視線が、エルネへ集まった。
エルネは黒い本を抱く腕に、わずかに力を込める。
「理由は聞いたか」
オルディスに問われ、エルネは首を振った。
「いいえ」
「その本を要求されたのか」
「それも、ありません」
「では、エルネ・フィル本人が目的だった可能性もある」
「……はい」
自分が狙われたのか。
黒い本が狙われたのか。
あるいは、両方なのか。
ヴァレルは何も説明しなかった。
ただ、連れていくと言った。
決定事項を告げるように。
「礼拝堂を離れた後、私たちは三体の像に追われました」
リシアが続ける。
「白く、人の形をしていました。ただ、人間を模した像というよりは……」
「聖像に近い外見でした」
ルシアンが補足した。
「ヴァレルが礼拝堂に配置するところを見ています」
「男が直接操作していたのか」
「少なくとも、ヴァレルが現れた後に動き始めました。ただし、命令を出している様子はありませんでした」
「機能は」
「音による攻撃です」
ルシアンは一度、言葉を選んだ。
「単純な大音量ではありません。魔力を含んだ音だった可能性があります。正確な作用までは分かりません」
「ほかには」
「破壊されても、周囲の魔力を吸収して再生していました」
リシアが答える。
「三体のうち、一体が中心になっていたようです」
学院長の視線が、シオンへ向く。
「構造を確認したのは、お前だったな」
「はい」
シオンは、いつもの穏やかな表情を崩さなかった。
「三体は個別に動いていましたが、術式は繋がっていました。中心となる個体の内部に核があり、そこから残りの二体へ魔力が送られていたようです」
「既知の魔法具に該当するか」
「少なくとも、学院で扱われているものには」
「正式な名称は」
「分かりません」
「製造者も」
「同様です」
不気味な白い聖像。
周囲の魔力を取り込み、破壊されても再生する。
口から音を放ち、人を追い詰める。
分かったことを並べても、正体にはほとんど近づけていなかった。
「セレスティア」
「はい」
「お前は、ヴァレルと直接交戦したな」
セレスティアは頷いた。
「短剣による攻撃は、刃の届かない場所にも発生します。撤退時には空間を切り開き、その中へ消えました」
「追跡は」
「できませんでした」
セレスティアは、少しだけ間を置く。
「最後に、別の何かを使おうとしていました。ただ、途中でやめています。理由も、あれが何だったのかも分かりません」
また、その言葉だった。
分からない。
断界のヴァレル。
壁を無視して届く短剣。
空間を裂いて消える力。
白い聖像。
エルネを狙った理由。
誰も、全体像を見ていない。
全員の証言を集めても、手に入ったのは断片だけだった。
オルディスは紙を一枚持ち上げた。
「確認できた事実を整理する」
室内が静まる。
「侵入者は、断界のヴァレルと名乗った。短剣型の魔法具を所持し、距離または空間へ干渉する能力を持つ可能性が高い」
紙が机へ戻される。
「ヴァレルは、正体不明の聖像を少なくとも三体持ち込んだ。目的の一つは、エルネ・フィルの確保」
学院長の視線が、エルネへ向いた。
「それ以外は不明。所属も、侵入経路も、背後関係も分からない」
誰も口を開かなかった。
それが、現状のすべてだった。
エルネは、腕の中の黒い本へ目を落とした。
ロゴスは、事情聴取が始まってから一言も発していない。
人前で勝手に話し出すことは、もともと多くなかった。
エルネが呼びかければ答える。
質問をすれば、いつものように説明する。
だから、異常だと断言できるほどではない。
ただ。
対抗戦が終わってから、ロゴスの方から話しかけてくることが、ほとんどなくなっていた。
以前なら、エルネが考え込めば勝手に補足した。
危険な魔法を見れば、尋ねる前から分析を始めた。
必要だと判断すれば、こちらの都合など気にせず話しかけてきた。
今は違う。
呼べば答える。
けれど、呼ばなければ黙っている。
エルネは少しだけ眉を寄せた。
しかし、すぐに顔を上げる。
考えなければならないことが多すぎた。
カレンのこと。
クラリスのこと。
ヴァレル。
白い聖像。
そして。
次に話題となるであろう、腕の中の黒い本。
◇
事情聴取が終わっても、六人は席を立つことを許されなかった。
机の上の記録が入れ替えられる。
新しく置かれた紙には、エルネがこれまで使用した魔法が並んでいた。
蒼炎針。
霧星糸。
空律鋏。
磁界釦。
蒼炎針架。
いずれも、学院で一般的に教えられている魔法ではない。
「続いて」
オルディスが言った。
「エルネ・フィルが所持する魔道具について話す」
エルネの身体が僅かに強張った。
「現在、その本には禁書の疑いがある」
教員の一人が告げる。
「既存の体系に存在しない魔法を提示し、使用者に行使させている。今回、外部から侵入した者がエルネ・フィルを狙ったことも、無関係とは言い切れない」
「本が目的だったとは、まだ分かっていません」
リシアがすぐに言った。
「その通りだ」
オルディスは否定しなかった。
「ヴァレルが狙ったものがエルネ本人なのか、本なのか。それとも両方なのか。現時点では判断できない」
「だからこそです」
別の教員が口を挟む。
「危険性が否定できない以上、一時的に回収し、禁書庫で調査すべきではありませんか」
禁書庫。
その言葉に、エルネは反射的に本を抱き締めた。
もし取り上げられたら。
魔法が使えなくなるかもしれない。
ヴァレルがもう一度現れた時。
あの聖像が、再び迫ってきた時。
自分を守る方法がなくなる。
「エルネ・フィル」
学院長に呼ばれ、エルネは顔を上げた。
「はい」
「その本を持たない状態で、同じ魔法を使えるか」
「……分かりません」
「試したことは」
「ありません」
「本から長時間離れた経験は」
「ほとんどありません」
「引き離した場合、お前の身体に影響が出る可能性は」
「それも、分かりません」
「本の側に変化が起こる可能性は」
エルネは答えられなかった。
ロゴスなら何か分かるだろうか。
そう思った。
けれど、この場で呼びかけることはできない。
「分かりません」
結局、そう答えるしかなかった。
オルディスは、しばらくエルネと黒い本を見ていた。
「ならば、現段階で回収はできん」
提案した教員が顔を上げる。
「学院長」
「禁書庫は、正体の分からないものを無条件で放り込む場所ではない」
厳しい声だった。
「何を封じるのか。どのような方法で封じるのか。封印した結果、何が起きるのか。それらを把握して初めて管理と呼べる」
「しかし、このまま生徒に持たせ続けることも危険です」
「承知している」
オルディスは言葉を遮った。
「だが、本を取り上げれば危険が消えるという根拠もない」
会議室を見渡す。
「ヴァレルが本を狙っているなら、次は禁書庫が標的になる。エルネ本人を狙っているなら、本を取り上げることで、身を守る手段だけを奪うことになる」
「学院が保護すればよいのでは」
「保護する。結構だ」
オルディスは、相手から目を逸らさなかった。
「では、何から、どう守る」
教員が言葉に詰まる。
「相手の侵入手段も、移動方法も、目的も分かっていない。学院内へ置けば確実に守れると、断言できるのか」
今回、ヴァレルが現れたのは学院の外に設けられた広域フィールドだ。
学院そのものの防衛が破られたわけではない。
それでも。
幻傷結界へ外部から干渉し、誰にも気づかれないまま襲撃した相手である。
学院へ戻せば絶対に安全だと、言い切れる根拠はなかった。
「判断は保留とする」
オルディスが告げた。
「黒い本は、引き続きエルネ・フィルに所持させる」
エルネは、僅かに息を吐いた。
「ただし、禁書の疑いが晴れたわけではない」
「……はい」
「本に変化があれば、すぐに報告すること。新たな魔法を得た場合も同様だ」
「分かりました」
「当面、単独での行動も避けてもらう」
エルネは少しだけ迷い、それから頷いた。
「はい」
オルディスは、机の上に並べられた記録へ目を落とす。
「この魔道具に危険性がある可能性は否定できない」
視線を上げる。
「だが、危険性があることと、使用者に罪があることは別の話だ」
エルネは目を瞬いた。
「エルネ・フィル。お前がこの本を悪用した記録は、今のところ存在しない」
「……はい」
「対抗戦では、定められた規則の中で使用した。結界が失われた後も、自分と仲間が生き残るために使っている」
学院長の声は、あくまで事実を読み上げるものだった。
「ゆえに、疑いだけを理由に所持を禁じることはしない」
エルネの胸の奥に残っていた冷たいものが、少しだけ薄れた。
「ただし」
オルディスの目が細くなる。
「本がお前の意思に反する動きを見せた場合、必ず報告しろ」
「分かりました」
「隠すな」
「はい」
エルネは黒い表紙へ目を落とした。
本は何も言わない。
事情聴取の間も。
禁書と疑われた時も。
回収される可能性が語られた時も。
一度も。
以前のロゴスなら、何か言っただろうか。
そんなことを気にする必要はありません。
あるいは。
私が対処します。
そんな声が聞こえてきそうなのに。
黒い本は、ただ静かにエルネの腕の中へ収まっていた。
会議は、それで終わった。
断界のヴァレルについて、分かったことは少ない。
不気味な聖像の正体も分からない。
黒い本が禁書なのかも。
なぜエルネが狙われたのかも。
何一つ、はっきりとはしていなかった。
それでも。
黒い本は、ひとまずエルネのもとへ残された。
保護するため。
監視するため。
そして。
次に敵が現れた時、自分の身を守るために。
黒い本の表紙に刻まれた細い線が、誰にも気づかれないまま、ほんの僅かに形を変えた。




