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第五十七話 セレスティア対ヴァレル

 銀白の雷が、崩れた礼拝堂を照らしていた。


「私の仲間に、ずいぶんなことをしてくれたわね」


 セレスティアは、倒れたカレンの前に立っていた。


 カレンから返事はない。


 目を閉じたまま、石床に横たわっている。


 呼吸は浅い。


 衣服には、いくつもの赤い染みが広がっていた。


 セレスティアは膝をつかない。


 ヴァレルから視線を外すことなく、足元の気配だけでカレンの状態を確かめていた。


 息はある。


 魔力も、わずかに残っている。


 意識を失ってはいるが、まだ間に合う。


 そう判断してから、正面の男へ目を向けた。


 ヴァレルは短剣を下ろし、セレスティアを見ている。


「セレスティア・ロウ・アステリアか」


「あら」


 セレスティアが薄く笑う。


「私のことを知っているのね」


「その名が、偽りのものである程度はな」


 足元で、雷が一度だけ強く弾けた。


 セレスティアの笑みが消える。


 ほんの一瞬。


 次に浮かんだ笑みは、先ほどまでよりも薄かった。


「どこで聞いたのか、教えてちょうだい」


「答えると思うか」


「そう」


 声は穏やかだった。


 銀白の雷が、石床を静かに這っていく。


「なら、あとで直接聞き出すしかないわね」


 ヴァレルは何も答えない。


 その沈黙が、セレスティアの警戒をさらに強める。


 なぜ。どこから。どこまで。


 男が知っている情報の範囲が見えない。


 セレスティアは、その疑問をいったん脇へ置いた。


 今は先に、目の前の脅威を止める必要がある。


 視線を動かす。


 黒い長衣。


 右手の短剣。


 石床。


 柱。


 壁。


 礼拝堂の至るところに、不自然な切断跡が残されている。


 どれも、短剣が直接届く距離ではない。


 カレンの身体に刻まれた傷も同じだった。


 正面。


 背後。


 側面。


 異なる角度から斬られている。


「あなたの短剣」


 セレスティアが言った。


「距離を無視して攻撃できるのね」


「分かるか」


「ええ。カレンの傷を見ればね」


 倒れたカレンへ、一瞬だけ視線を落とす。


「本気のあの子が、同じ間合いで何度も捉えられるはずがないもの」


「随分と信用している」


「当然でしょう」


 セレスティアはすぐにヴァレルへ視線を戻した。


「私の仲間よ」


 ヴァレルは短剣を持ち直す。


「それと」


 セレスティアは続けた。


「さっき、私の雷を避けたわね」


「それがどうした」


「魔法そのものは斬れない」


 ヴァレルの目が、わずかに細くなる。


「斬れるなら、避ける必要はないでしょう?」


 答えはない。


 それで十分だった。


「短剣の届く距離は関係ない。でも、斬っているのは実体のあるものだけ」


 床に刻まれた痕跡を見る。


「空間を斬っているのか。斬撃だけを別の場所へ通しているのか」


「そこまで分かるか」


「いいえ」


 セレスティアは笑った。


「まだ二つに絞っただけよ」


 足元の雷が強くなる。


「わからないことは、そのままにしておきたくないの」


 ヴァレルの短剣が動いた。


 小さな横薙ぎ。


 刃先は、セレスティアまで届かない。


 だが。


 彼女の前髪が、わずかに揺れた。


 セレスティアは身体を傾ける。


 その直後。


 背後の石柱へ、一直線の切断面が走った。


 石柱の上半分が、音もなく滑り落ちる。


「やはり、見えないのだな」


「ええ」


 セレスティアの周囲へ、風が広がる。


 攻撃に使うには弱すぎる、細く薄い風。


 それが礼拝堂の中を満たす。


 壁を撫で。


 床を滑り。


 ヴァレルの周囲を囲んでいく。


 短剣が、もう一度振られた。


 風の一部が途切れる。


 セレスティアは半歩下がった。


 眼前の空間が斜めに裂ける。


「見えなくても」


 銀白の雷が、途切れた風の輪郭をなぞる。


 それまで見えなかった切断の軌跡が、一瞬だけ白く浮かび上がった。


「見えるものを使えばいいだけね」


 ヴァレルが短剣を返す。


 三度。


 異なる角度から、風が途切れた。


 セレスティアは前へ出る。


 右からの斬撃を沈んでかわし。


 正面の切断面から身体を捻って外れ。


 左から迫る軌跡へ向け、床を蹴った。


 風が爆ぜる。


 身体がわずかに浮き、斬撃の下を抜けた。


 セレスティアの袖が、わずかに裂ける。


 腕へ赤い線が一本だけ走った。


 それを見ても、表情は変わらない。


「軌道は読める」


 セレスティアは裂けた袖を見る。


「でも、完全に避けるには少し厄介ね」


 次の瞬間。


 床が砕けた。


 風と雷をまとい、セレスティアが一気に距離を詰める。


 ヴァレルの短剣が跳ね上がる。


 セレスティアの手へ、銀白の雷が集まった。


 ヴァレルは雷を受けず、身体を捻る。


 同時に短剣を振るい、二人の間にある石床を斜めに切り裂いた。


 足場が崩れる。


 セレスティアの踏み込みがわずかに乱れた。


 その隙に、ヴァレルが距離を取る。


 それでも、雷撃の端が黒い長衣の肩をかすめた。


 布が裂け、焦げた匂いが広がる。


 ヴァレルは二歩下がった。


「危険だな」


「それはこちらの台詞よ」


 セレスティアは追う。


 細い雷が石床を走る。


 前。


 左右。


 ヴァレルの退路を塞ぐように広がっていく。


 短剣が振られた。


 ヴァレルの足元で石床が裂ける。


 砕けた石片が跳ね上がり、雷の進路へ飛び込んだ。


 銀白の光が石片を弾き飛ばす。


 だが、その一瞬でヴァレルは横へ抜けていた。


 セレスティアが手を返す。


 風が回り込み、退いた先からヴァレルの長衣を煽る。


 その動きを追うように、次の雷が走った。


 ヴァレルは柱の陰へ滑り込む。


 短剣が振るわれる。


 柱が根元から斜めに切断された。


 倒れた石柱が二人の間へ落ちる。


 雷が柱へ突き刺さる。


 石が砕け、礼拝堂へ粉塵が広がった。


 その向こうから。


 ヴァレルの斬撃が飛ぶ。


 風が途切れる。


 セレスティアは首を傾けた。


 頬のすぐ脇を、見えない刃が通り過ぎる。


 後方の壁へ、細い切断痕が残った。


「地形を使うのね」


「使えるものを使っているだけだ」


「そう」


 セレスティアの周囲で、銀白の雷が増えていく。


「なら、使えるものを減らしましょうか」


 片手を上げる。


 天井近くへ、複数の雷が集まった。


 細い光が枝分かれし、礼拝堂の柱や梁を避けながら、ヴァレルへ落ちる。


 ヴァレルは短剣を振るう。


 頭上の梁が切断された。


 石と木材が降り注ぐ。


 雷が瓦礫を砕き、光が散る。


 その隙間を縫うように、ヴァレルが走った。


 だが、すべては避けきれない。


 枝分かれした雷の一本が脇腹をかすめた。


 黒い布が焦げる。


 ヴァレルの身体がわずかに傾いた。


 それでも、表情は変わらない。


「妙ね」


 セレスティアが足を止めた。


「何がだ」


「あなた、さっきから短剣しか使っていないでしょう」


 ヴァレルは答えない。


「魔法も使わない」


 銀白の雷が、セレスティアの肩から腕へ絡みつく。


「その短剣にも、まだ別の使い方がある」


「なぜそう思う」


「勘よ」


「曖昧だな」


「ええ。だから困るの」


 セレスティアの笑みが、ほんの少しだけ深くなった。


「どうあっても、本気を出させたくなったわね」


 雷鳴が礼拝堂を揺らす。


 その言葉には、わずかな熱があった。


 未知の力。


 底の見えない敵。


 知りたい。


 確かめたい。


 その危うい好奇心が、一瞬だけ表へ現れる。


 だが。


 セレスティアの視線が、倒れたカレンへ向いた。


 呼吸は浅い。


 血も止まっていない。


 その瞬間、笑みが消えた。


「……と言いたいところだけれど」


 雷の音が低く変わる。


「今は、あなたに付き合っている時間はないわ」


「なら、どうする」


「決まっているでしょう」


 セレスティアは片手を上げた。


「短時間で動けなくする」


 礼拝堂の上空へ、銀白の光が集まった。


 散っていた雷が一本に束ねられていく。


 光は細く。


 鋭く。


 巨大な槍の形を取った。


 礼拝堂の空気が震える。


 石床の破片が、かすかな音を立てて跳ね始める。


 ヴァレルが、初めてその光を正面から見上げた。


 雷槍の先端が、ヴァレルを捉える。


 わずかに動くだけで、落雷の軌道が追ってくる。


 梁を落としても。


 壁を盾にしても。


 今度の一撃は止められない。


「避けられるかしら」


 セレスティアが指先を向ける。


 ヴァレルは雷槍を見上げたまま、短剣を持つ手を下ろした。


「……やむを得んか」


 その声とともに、空気が変わった。


 これまでとは異なる魔力が、ヴァレルの身体から漏れ出す。


 短剣ではない。


 男自身の内側から立ち上がる、重く冷たい魔力。


 セレスティアの笑みが、再びわずかに深くなる。


「ようやく、見せてくれるのね」


 ヴァレルが左手を持ち上げる。


 指先に、黒い光が集まり始めた。


 それが魔法なのか。


 短剣の別の力なのか。


 セレスティアにも、まだ分からない。


 だが。


 ヴァレルの動きが、不意に止まった。


 顔がわずかに横を向く。


 礼拝堂の外。


 旧街道の方角へ。


 何かを探るように、目を細める。


 遠くへ伸びていた三つの魔力の繋がり。


 それが、一つずつ途切れていった。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 ヴァレルの左手から、黒い光が消えた。


 身体を覆い始めていた魔力も、何事もなかったように収まっていく。


 セレスティアの眉が、わずかに動く。


「……何?」


 ヴァレルは答えない。


 先ほどまで立ち上がっていた戦意が、急に薄れていた。


 雷槍は、今もその頭上を狙っている。


 それなのに。


 ヴァレルは、セレスティアから視線を外した。


 そして。


 倒れているカレンを見た。


 その瞬間。


 セレスティアは雷槍を解除した。


 銀白の光が空中でほどける。


 同時に風を爆発させ、カレンのもとへ飛んだ。


 着地と同時に、その身体を抱き上げる。


 ヴァレルから距離を取り、腕の中へ庇った。


 呼吸はある。


 新たな傷もない。


 セレスティアがヴァレルを睨む。


「あなた……」


「判断が早いな」


 ヴァレルは短剣を下ろしたまま言った。


 カレンを攻撃するつもりだったのか。


 それとも。


 ただ視線を向けただけなのか。


 セレスティアには判断できない。


 だが、確かめるためにカレンの命を賭けることなどできなかった。


「本当に、気に入らない男ね」


「ここに留まる理由はなくなった」


 ヴァレルの背後へ、縦一文字の黒い線が走った。


 空間が、音もなく開いていく。


 セレスティアの腕の中で、カレンの身体がわずかに揺れた。


 追えば、追いつけるかもしれない。


 だが、そのためにはカレンを置いていかなければならない。


 セレスティアは動かなかった。


「逃げるの?」


「目的を失っただけだ」


「次は、最後まで付き合ってもらうわ」


 ヴァレルは黒い裂け目へ足を踏み入れる。


「次があればな」


 身体が闇の向こうへ沈んでいく。


 セレスティアの周囲で雷が弾けた。


 けれど、放つことはできない。


 カレンを抱いたままでは、追撃の余波を完全には抑えられない。


 ヴァレルの姿が完全に消える。


 黒い裂け目が細く閉じていった。


「……逃がしたわね」


 セレスティアは悔しそうに呟く。


 だが、すぐに腕の中へ視線を落とした。


「カレン」


 返事はない。


 頬へ手を添える。


 呼吸は浅い。


 脈も弱い。


 それでも、消えてはいない。


「大丈夫」


 誰に言ったのかは、自分でも分からなかった。


「あなたは、死なせないわ」


 崩れた礼拝堂の外から、冷たい風が流れ込んだ。


 その風に混じり、青白い氷が石床の上を走る。


 セレスティアが顔を上げた。


「会長!」


 崩れた入口から、シオンが駆け込んでくる。


 その視線が、礼拝堂の惨状を素早くなぞった。


 斬り裂かれた柱。


 深く割れた石床。


 空間に残る、細い黒線。


 そして最後に、セレスティアの腕の中にいるカレンへ止まる。


「カレンさん」


 シオンは二人のもとへ駆け寄り、その場に膝をついた。


 すぐに首元へ指を添える。


 脈。


 呼吸。


 続けて傷の位置と出血量を確かめる。


「意識は?」


「戻っていないわ」


 シオンは杖を抜いた。


 細い冷気が、カレンの身体へ集まる。


 肩。


 腕。


 脇腹。


 出血の激しい箇所から順に、傷の周囲を冷やしていく。


 冷気は傷口そのものを塞がない。


 流れ出る血を鈍らせ、これ以上傷が広がるのを防ぐためのものだった。


 薄い氷が、斬創の縁だけを覆う。


 体温を奪いすぎないよう、必要な部分へ細く留められていた。


 シオンは一つの傷へ冷気を固定すると、すぐ次へ移る。


 脇腹。


 肩口。


 腕。


 出血量の多い順に処置していく。


「治療ではありません」


 シオンが低く言った。


「止血と、傷の拡大を抑えているだけです。長くは持ちません」


「間に合う?」


 セレスティアが尋ねる。


 シオンはカレンの瞼を確認し、もう一度脈を取った。


「まだ、間に合います」


 その答えを聞き、セレスティアはわずかに息を吐く。


 シオンは処置を続けながら、周囲へ視線を向けた。


「敵は?」


「逃げたわ」


「どの方向へ?」


「方向、という感じではなかったわね」


 セレスティアは、ヴァレルが消えた場所を見る。


「空間を斬って、その中へ消えたわ」


 シオンの目が、空間に残った細い黒線へ向く。


 ほんの一瞬だけ。


「そうですか」


 返事は、それだけだった。


 セレスティアは、その横顔を見る。


「何か心当たりがあるの?」


 シオンはカレンの傷へ冷気を送り続けたまま、首を横に振った。


「いいえ。今の話だけでは、何とも言えません」


 声にも。


 表情にも。


 乱れはなかった。


「そう」


 セレスティアは、それ以上追及しない。


 けれど。


 空間の傷を見た時。


 シオンが驚かなかったことだけは、覚えていた。


「移動できますか」


「ええ」


「できるだけ揺らさないでください。結界の外まで急ぎます」


 シオンが杖を構えたまま立ち上がる。


 傷を覆う薄い氷は、今も維持されている。


 セレスティアはカレンを抱き直した。


「行きましょう」


「はい」


 二人は崩れた礼拝堂の外へ向かう。


 シオンはその隣を歩きながら、カレンの傷へ送り続ける冷気を調整していた。


 その背後。


 ヴァレルが消えた場所には、もう何も残っていない。


 ただ。


 斬り裂かれた空間の名残だけが。


 細い黒線となって、しばらく消えずに残っていた。

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