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第五十六話 シオン・レイヴァンは何者なのか

 礼拝堂跡を離れてから、エルネは一度も振り返っていなかった。


 振り返れば、足が止まる。


 カレンが一人で残ったことを、考えてしまう。


「エルネさん、もう少しです」


 隣を走るリシアが、エルネの腕を支えていた。


「森まで入れば、身を隠せる場所があります」


「でも、カレン先輩が……」


「今は走ってください」


 声は強かった。


 けれど、エルネの腕を支える手には、普段よりも力が入っている。


 リシアも心配している。


 それでも、カレンから任された役目を果たそうとしていた。


 エルネは唇を噛み、前を向いた。


 魔力はほとんど残っていない。


 走るだけで息が切れる。


 足を踏み出すたび、身体が泥の中へ沈んでいくように重かった。


 崩れた石門を抜け、旧街道へ出る。


 道の両側には、倒れた石柱と枯れた木々。


 その先に森の影が見えていた。


 あと少し。


 そこまで考えた時。


 背後から、低い振動が届いた。


 足音ではない。


 何か重いものが滑ってくるような、途切れのない音。


 リシアが振り返る。


「エルネさん」


 その声だけで、何かが追ってきていると分かった。


 エルネも肩越しに後ろを見る。


 三体の白い人影が、旧街道の上を滑っていた。


 長い衣。


 祈るように組まれた両手。


 目も鼻も口もない、滑らかな顔。


 足は地面へ触れていない。


 白い霧を引きながら、一定の姿勢のまま距離を縮めてくる。


「あれ……何ですか」


「分かりません」


『追跡対象、三体』


(先生。あれ、何なの)


 返答までに、ほんのわずかな間があった。


『不明です。魔力によって構成されている可能性があります』


(先生にも分からないの?)


『観測情報が不足しています』


 答えは、いつもと変わらない。


 ただ、少しだけ遅かった。


 礼拝堂の方角から、自分たちだけを追ってきた。


 魔法なのか。


 魔道具なのか。


 人の手で動かされているのか。


 二人には何も分からない。


 ただ一つ。


 あれが味方ではないことだけは、疑いようがなかった。


「速い……」


 走っている二人よりも、明らかに速い。


 振り返るたびに距離が縮まっている。


「エルネさん、先に行ってください」


 リシアが足を止めた。


「駄目です!」


「二人とも追いつかれる方が駄目です」


 リシアはエルネから手を離し、杖を構える。


 街道脇の湿った土。


 割れた石の窪みに溜まった水。


 木々の葉に残る水滴。


 周囲から細い水流が集まり始める。


「ここで止めます。その間に――」


 三体の白い人影が、同時に顔を上げた。


 滑らかな顔の下半分へ、横一文字の亀裂が走る。


「なに……?」


 リシアの声が漏れた。


 亀裂が大きく開いていく。


 歯も。


 舌もない。


 暗い空洞の奥で、幾重もの術式文字が回り始める。


 エルネには、それが何を意味するのか分からなかった。


「伏せてください!」


 鋭い声が飛んだ。


 次の瞬間。


 一筋の白い熱線が、先頭の人影の顔を撃ち抜いた。


 開きかけた頭部が、光と霧になって弾ける。


 エルネとリシアは、反射的に身を低くした。


 残る二体の口が開く。


 旧街道へ、ルシアンが滑り込んできた。


「耳を塞ぐだけでは防げません! 姿勢を低く!」


 ルシアンは着地と同時に片手を石床へ向けた。


 白い光が走る。


 地面が一瞬で熱せられ、二人の前で空気が膨れ上がった。


 直後。


 音が爆ぜた。


 耳から入ったという感覚はなかった。


 身体全体が、内側から揺さぶられる。


 ルシアンが作った空気の層が、大きく波打った。


 振動は完全には消えない。


「うっ……!」


 エルネの視界が傾く。


 足元が横へ滑ったような感覚に襲われ、地面へ片手をついた。


 リシアも一歩よろめる。


 集まりかけていた水流が揺れ、いくつかが形を失った。


『魔力を伴う振動を確認』


(どうすればいいの)


 少し遅れて、ロゴスの声が返る。


『再被弾を避けてください。現時点では、それ以上の対処法を提示できません』


(解析中?)


『はい』


 短い返事だった。


 何かがおかしいわけではない。


 ただ、今日は返事までの間が少し長い。


「今のは……」


 リシアが顔を上げる。


「おそらく、魔力を含んだ音波です」


 ルシアンは三体から目を離さなかった。


「身体だけでなく、術式の制御まで乱されます。顔が開いたら、撃たせないでください」


「どうして知っているんですか」


「礼拝堂で見ました」


 短く答える。


 頭部を失った白い人影へ、すでに周囲の霧が集まり始めていた。


 輪郭が戻る。


 顔が、再び形作られていく。


「戻ってる……」


「外側を壊しても、すぐに再形成します」


 ルシアンの視線が、白い身体の中央へ向く。


 霧の奥には、小さな像のようなものが浮かんでいた。


「中心に、何かあります」


『内部に魔力の集中を確認』


(あの小さい像?)


『はい』


(壊せば止まる?)


 わずかな間。


『障壁との関係を解析しています』


 ロゴスは何かを調べ続けているらしい。


 それがこの白い人影についてだけなのか、エルネには分からなかった。


「弱点ですか?」


 リシアが尋ねる。


「断定はできません」


 ルシアンは首を振った。


「カレン先輩の攻撃でも、止めきれませんでした。今は倒すより、距離を取るべきです」


 三体が祈りの姿勢を解いた。


 長い腕が広がる。


 ルシアンは、エルネたちを庇うように前へ出た。


「私が音波を止めます。リシアさんは、動きを抑えられますか」


「やります」


 リシアが杖を振るう。


 散っていた水が再び集まった。


 複数の帯となって、左右から回り込もうとしていた二体へ絡みつく。


 腕。


 胴。


 霧の礼装。


 水帯が輪郭ごと締め上げる。


 白い人影の動きが、わずかに鈍った。


 だが、止まらない。


 水を引きずりながら、こちらへ近づいてくる。


「エルネ君は下がっていてください」


「でも、私も――」


「魔力が残っていません」


 ルシアンの声は穏やかだった。


 だが、拒ませない強さがある。


「今使えば、逃げる力まで失います」


(先生。一本だけなら)


『推奨しません』


(蒼炎針なら)


『安定形成を保証できません。残存魔力は危険域です』


 今度の返事は早かった。


 エルネは杖を握ったまま、答えられなかった。


 一体の顔へ、再び亀裂が走る。


「来ます!」


 ルシアンの指先から白い光が放たれた。


 口が開き切る前に、熱線が顔面へ突き刺さる。


 術式文字が弾けた。


 音波は放たれない。


 しかし、もう一体が横から腕を伸ばす。


 リシアが水帯を引く。


 白い腕の軌道がずれた。


 ルシアンは身を沈め、その下を抜ける。


 指先の白い光を、胸部へ叩き込んだ。


 魔力体へ穴が開く。


 内部に浮かんでいた小さな白い像が、一瞬だけ露出した。


 その周囲へ細かな術式文字が集まり、薄い膜を作る。


 ルシアンの熱線が弾かれた。


「障壁……」


 穴が閉じ始める。


 散った霧が吸い寄せられ、白い身体へ戻っていく。


 ルシアンはすぐに距離を取った。


「リシアさん。右をお願いします」


「はい!」


 リシアが二本の水帯を右側の人影へ集中させる。


 ルシアンは左へ。


 白い熱線で頭部を崩し、音波を封じる。


 倒すことはできない。


 それでも、エルネへ近づけさせない。


 右の人影が、両腕を大きく広げた。


 水帯が引き伸ばされる。


 リシアの足が地面を滑った。


「っ……!」


「リシアさん!」


 エルネが駆け寄る。


 その瞬間。


 中央の人影が、二人へ向きを変えた。


 顔へ亀裂が走る。


 ルシアンは左の一体へ熱線を放った直後だった。


 間に合わない。


「エルネさん、下がって!」


 リシアがエルネの前へ出る。


 水帯を広げ、二人の前へ重ねる。


 口が開く。


 奥の術式文字が高速で回転する。


 音が放たれる――その寸前。


 白い人影の身体が、内側から凍りついた。


 青白い氷が、胸から喉へ。


 喉から開いた口の中へと走る。


 回転していた術式文字が、一つずつ動きを止めた。


 音は出なかった。


「そのまま離れて」


 静かな声がした。


 旧街道の奥。


 細身の杖を手に、シオンが立っていた。


「シオン先輩!」


 シオンは返事をせず、凍りついた白い人影を見ている。


 その目から、いつもの柔らかさが消えていた。


「これは……」


 小さく呟く。


 だが、続きを口にはしなかった。


 残る二体がシオンへ顔を向ける。


 一体の口が開き始める。


 シオンが杖を振った。


「凍律《フロスト・コード》」


 白い顔の内側へ、氷が走る。


 暗い空洞の奥で回る術式文字を、一つずつ凍結していく。


 もう一体が、長い腕を伸ばした。


 ルシアンが白い熱線で弾く。


「助かりました」


「話は後にしよう」


 シオンは短く答えた。


 その視線が、ほんの一瞬だけルシアンへ向く。


 ルシアンは何も言わず、わずかに目を逸らした。


 シオンも、それ以上は触れなかった。


「まずは、これを止める」


 氷が魔力体の内部へ広がっていく。


 だが、白い霧はその外側へ集まり続けていた。


 凍った場所を避けるように、輪郭を作り直そうとしている。


 シオンの眉がわずかに動く。


「周囲の魔力を取り込んでいる」


(先生。本当?)


 少し遅れて、ロゴスが答える。


『確認しました。外部から魔力が流入しています』


 リシアが周囲を見る。


 空気中に残る魔力。


 湿った地面。


 壊れた結界から流れ込んだ残滓。


 目には見えない力が、三体へ吸い寄せられている。


「流れを止めればいいんですね」


「できますか」


「やってみます」


 リシアが杖を両手で握った。


 地面へ落ちていた水が一斉に浮かび上がる。


 細い水帯となり、三体の周囲へ円を描く。


 白い人影へ流れ込もうとしていた魔力を包み込み、その流れを外側へ押し流していく。


 再形成の速度が落ちた。


『周辺魔力の流入低下を確認』


(リシアさんが流れを止めたから?)


『はい』


「今です」


 シオンの氷が一気に胸部へ集中する。


 魔力体の内部で、小さな白い像が凍りついた。


 それを守るように、術式文字が集まる。


「中心の像が、術式を維持しているようです」


 シオンが言った。


 ルシアンの目が細くなる。


「やはり、あれが」


「おそらく。周囲との接続を断てば、障壁も弱まる」


『障壁強度、低下』


(それなら壊せる?)


『成功可能性は上昇しています』


 リシアの水帯が、流れをさらに外へ引く。


 小像の周囲に浮かんでいた術式文字が揺らいだ。


 ルシアンが指先を向ける。


 白い熱が一点へ集まる。


「離れてください」


 熱線が放たれた。


 氷に閉じ込められた小像を貫く。


 乾いた音がした。


 白い像へ亀裂が走る。


 巨大な身体が大きく揺らいだ。


 次の瞬間。


 光と霧が、支えを失ったように崩れ落ちる。


 一体。


 残る二体が、同時に腕を伸ばす。


 シオンの氷が足元から這い上がった。


 リシアの水帯が身体を縛る。


 ルシアンが開きかけた口を熱線で撃ち抜く。


 三人の術式が重なる。


 周囲の魔力を奪われ。


 音波を封じられ。


 内部の小像が氷に包まれる。


 二本の白い熱線が、続けて走った。


 一つ。


 もう一つ。


 胸の小像が砕ける。


 二体の巨大な人影が、ほとんど同時に崩壊した。


 白い霧が街道の上へ広がる。


 やがて光を失い、空気へ溶けていった。


 あとに残ったのは、砕けた三つの小像だけだった。


 祈るように組まれた手。


 何もない顔。


 首元に下がる、小さなレリーフ。


 シオンは、その一つへ近づいた。


 屈み込み、直接触れず、杖先で破片を動かす。


 表情は変わらない。


 けれど。


 その目には、明らかな緊張があった。


『対象シオン・レイヴァン。魔力流に変化』


(何か知ってるのかな)


『情報が不足しています』


 返答は、少しだけ遅かった。


 エルネは黒い本を抱え直す。


 ロゴスは今も、何かを処理しているらしい。


 けれど、今はそれを尋ねている余裕がなかった。


「怪我は?」


 シオンが立ち上がる。


「私は大丈夫です」


 リシアが答えた。


「エルネさんは、魔力をほとんど使い切っています」


「分かりました」


 シオンはエルネを見る。


「これ以上、術式を使わないでください」


「はい……」


 シオンの視線が、一瞬だけエルネの黒い本へ落ちる。


 すぐに戻った。


「何がありました」


 エルネは息を整える。


 どこから話せばいいのか。


 礼拝堂で待っていたノア。


 黒い本を見つめていた男。


 幻傷結界の崩壊。


 そして、黒い長衣の男。


「結界が、突然壊れました」


「原因は見ましたか」


「分かりません。空に亀裂が入って、それから全部、壊れて……」


「そのあと、黒い服の男が現れました」


 リシアが続ける。


「エルネさんを連れて帰ると言っていました」


 シオンの杖を握る指が、わずかに強くなる。


「先ほどの像を放ったのも、その男ですか」


 エルネとリシアが答えるより先に、ルシアンが口を開いた。


「はい」


 シオンの視線がルシアンへ向く。


「ヴァレルが、小さな像を三体放つところを見ました」


「あなたは、その場にいたのですね」


「……少し離れた場所からですが」


 返答に、わずかな間があった。


 シオンはルシアンを見た。


 問いはある。


 だが、その場で追及はしなかった。


「分かりました。後で詳しく聞きます」


「承知しました」


 ルシアンの返事は、いつもより少し硬かった。


「カレンさんは」


 エルネの胸が詰まる。


「私たちを逃がすために、残りました」


「一人で?」


「はい」


 シオンの声から、温度が消えた。


「男は、何と名乗りました」


「ヴァレルです」


 シオンの動きが止まる。


「もう一度お願いします」


「断界のヴァレル、と」


 顔から、わずかに血の気が引いた。


『対象シオン・レイヴァン。心拍上昇』


(知ってるんだ)


 少し間を置いて、ロゴスが答えた。


『その可能性があります』


 砕けた白い像。


 幻傷結界の破壊。


 エルネの確保。


 そして、その名。


 シオンの中で、疑いが確信へ変わる。


「礼拝堂は、どちらです」


 リシアが来た道を指した。


「この街道を戻って、崩れた石門を右です」


 シオンは、すでに歩き始めていた。


「シオン先輩?」


「ルシアン」


 呼ばれたルシアンが姿勢を正す。


「エルネさんとリシアさんを、安全な場所へ」


「あなたは?」


「礼拝堂へ行きます」


「一人で向かうつもりですか」


「時間がありません」


 ルシアンは、シオンの表情を見る。


 何かを知っている。


 それも、簡単には口にできないことを。


 だが。


 今それを問い返せる立場ではなかった。


「……分かりました」


 シオンは一度だけ頷く。


 エルネは、遠ざかろうとする背中へ声をかけた。


「待ってください!」


 シオンが振り返る。


「カレン先輩を……助けてください」


 その目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。


「そのために行きます」


 足元へ、青白い氷が走った。


 旧街道の上へ細い氷の道が伸びていく。


 シオンはその上を滑るように加速した。


 礼拝堂へ。


 断界のヴァレルがいる場所へ。


 その姿は、すぐに木々の向こうへ消えた。


 エルネは、見えなくなった背中を見つめる。


 あの白い像の止め方。


 ヴァレルの名を聞いた時の反応。


 まるで。


 シオンは以前から、あのような者たちを知っていたかのようだった。


「ルシアン先輩」


 エルネが振り返る。


 ルシアンも、シオンが消えた方角を見ていた。


「シオン先輩は、何者なんでしょう」


「……分かりません」


 わずかな間を置き。


 ルシアンは静かに付け加えた。


「どうやら、私たちは互いに知らないことが多すぎるようです」

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