第五十五話 龍が如く
咆哮の余韻が、礼拝堂跡を震わせていた。
だが、炎が噴き上がったわけではない。
熱風が吹き荒れたわけでもない。
音が消えたあと。
カレンは、ただ立っていた。
まくり上げた袖から覗く腕。
攻撃で裂けた服の隙間から見える肩、背中、脇腹。
傷ついた脚。
その全身に、一匹の火龍が巻きついている。
肩口で牙を剥く頭部。
背をうねる長い胴。
腰を回り、脚へと落ちる尾。
刺青のように皮膚へ刻まれた炎の紋様が、鼓動に合わせて赤く脈打っていた。
カレンは拳を下ろした。
そして。
ゆっくりと、ヴァレルへ歩き始める。
一歩。
また一歩。
血に濡れた靴底が、石床へ赤い跡を残していく。
ヴァレルは短剣を構えたまま動かない。
先ほどまでの爆発的な踏み込みはない。
魔力が外へ膨れ上がる様子もない。
傷ついた身体を引きずり、正面から近づいてくるだけ。
「それが、最後の術式か」
「さあな」
歩調は変わらない。
あと五歩。
四歩。
三歩。
ヴァレルの短剣が、わずかに持ち上がった。
間合いへ入った瞬間を斬る。
カレンも、それを見ていた。
二歩。
そこで。
カレンは、ヴァレルのいない方向へ跳んだ。
斜め上。
壁も。
柱も。
足場になるものなど何もない空間へ。
ヴァレルの視線が追う。
逃げたのではない。
着地する場所すらない方向へ飛び出しただけ。
そう見えた。
空中で、カレンの背を這う火龍が脈打つ。
肩から腰へ。
腰から右脚へ。
炎が皮膚の下を駆け抜けた。
次の瞬間。
落下へ移るはずだった身体が、空中で折れる。
真下へ向かっていた軌道が、あり得ない角度で横へ曲がった。
ヴァレルの視界から姿が消える。
直後。
頭上から拳が落ちてきた。
ヴァレルが短剣を振るう。
刃は空を切った。
カレンは拳を引き、空中で身体を捻る。
背中の火龍が再び脈打つ。
今度は左脚へ。
身体がヴァレルの背後へ弾かれた。
着地はしない。
足が床へ届くより先に腰を回し、踵を振り抜く。
鈍い音が響いた。
蹴りがヴァレルの脇腹を捉える。
黒い長衣が大きく揺れ、身体が横へ流れた。
カレンは追わない。
蹴りの反動で回転し、そのまま上空へ跳ね上がる。
「どこ見てやがる」
声がした時には、もう正面にはいなかった。
床。
壁。
柱。
そんなものを足場にする必要すらない。
体内の火を、一瞬だけ特定の部位へ集中させる。
肩。
背中。
腰。
脚。
火龍が身体の内側を走るたび、進む方向そのものが変わっていく。
前へ飛びながら、上へ。
落ちながら、横へ。
背を向けたまま、懐へ。
人間が進めるはずのない軌道を、炎の龍が無理やり繋いでいく。
拳がヴァレルの頬をかすめた。
返された短剣が、カレンの肩を裂く。
血が飛ぶ。
だが、その時にはもうそこにいない。
次の瞬間には足元。
さらに背後。
肘がヴァレルの腕を打つ。
蹴りが長衣を裂く。
拳が頬を捉えた。
ヴァレルの顔が横を向く。
口元から、細い血が流れた。
カレンは着地しない。
ヴァレルの肩へ片手を置き、その身体を跳び越える。
背後へ回り込み、膝を脇腹へ叩き込んだ。
ヴァレルが前へ押し出される。
その先には、もうカレンがいる。
「どうした!」
拳を振り抜く。
ヴァレルが短剣でそらす。
カレンの腕に傷が走った。
それでも、次の蹴りまでは止められない。
「さっきまでの余裕は!」
踵がヴァレルの肩へ落ちる。
石床が砕け、ヴァレルの膝がわずかに沈んだ。
カレンの身体にも、傷は増え続けている。
腕。
脚。
脇腹。
背中。
短剣が動くたび、少し遅れて皮膚が裂ける。
効いていないわけではない。
確実に傷ついている。
血も失っている。
それでも止まらない。
華龍相は、傷を治す魔法ではない。
壊れた筋肉を火で繋ぎ。
開いた傷を内側から焼き止め。
崩れかけた身体を、次の動きへ投げ続ける。
一度でも動きを止めれば、身体を巡る火がその場に滞留する。
焼き止めていた傷が開く。
無理に繋いでいた筋肉が切れる。
止まれば、死ぬ。
だから。
カレンは止まらない。
ヴァレルが頬の血を指で拭った。
「なるほど」
「あ?」
カレンが何もない上空へ跳ぶ。
ヴァレルは追わなかった。
短剣を逆手へ持ち替える。
「単純に斬るだけでは、追いつかないか」
「今頃気づいたのかよ!」
カレンが頭上から降る。
ヴァレルは、何もない空中へ短剣を振った。
縦に一度。
カレンは身体を横へ弾く。
その肩に、細い傷が走った。
続けて横へ。
カレンが腰を折る。
腹のすぐ前を、黒い線が通り過ぎた。
さらに斜め。
軌道を変えたカレンの背中が裂ける。
「ちっ……!」
ヴァレルの短剣が通った空間へ、細い黒線が残っている。
刃の軌跡。
そう呼ぶには、あまりに静かだった。
黒い線は消えず、その場に留まり続ける。
ヴァレルが短剣を掲げた。
鍔に埋め込まれた黒い石が、深い光を放つ。
「界断刃」
刃が振るわれる。
一度。
二度。
三度。
縦。
横。
斜め。
空間へ、黒い切断面が残されていく。
床から壁へ。
壁から柱へ。
天井近くから、カレンの頭上へ。
ヴァレルはカレンを追わない。
次に進む場所。
跳ぶ場所。
落ちる場所。
その先を斬る。
カレンが空中で身体を折る。
避けた先にも黒線がある。
背中の火龍を脈打たせ、上へ。
そこにも刃。
腰を捻り、床すれすれへ。
頬を黒線がかすめ、血が飛んだ。
「随分、派手になったじゃねえか」
「お前が通れる場所は、もう多くない」
「十分だ」
カレンは進む。
黒線の隙間へ身体を滑り込ませる。
腕を裂かれ。
腿を斬られ。
それでもヴァレルへ拳を届かせる。
ヴァレルは短剣で受ける。
拳と刃がぶつかった。
カレンはその反動すら利用し、後方へ跳ぶ。
全身の火龍が、わずかに暗くなっていた。
指先の感覚が薄い。
視界の端が黒く染まり始めている。
胸の奥が焼ける。
あと何度、軌道を変えられる。
あと何度、攻撃できる。
考えるまでもない。
長くは持たない。
ヴァレルを倒す必要はない。
ここへ留めておけばいい。
だが、自分が先に倒れれば、ヴァレルはすぐにエルネを追う。
まだ足りない。
なら。
残ったすべてを、一撃へ変える。
カレンは何もない空間へ跳んだ。
右へ軌道を変える。
ヴァレルが、その先へ切断面を置く。
カレンは左脚へ火を流そうとした。
だが。
火龍の尾が、途中で明滅した。
身体が沈む。
左へ曲がり切れない。
黒線が太腿を裂く。
「ぐっ……!」
カレンは右側へ逃れる。
ヴァレルの目が、わずかに細くなった。
次の攻防。
カレンは再び左へ曲がろうとする。
火龍が弱く脈打つ。
軌道は浅い。
右へ切り返すしかない。
その次も。
左脚へ火を集めるたび、紋様が乱れる。
傷ついた脚が反応しない。
カレンの軌道は、次第に右へ偏っていく。
ヴァレルの切断面も、それに合わせて置かれていった。
右。
右上。
正面から、右下へ。
逃げ道を一つずつ削るように。
カレンの呼吸が荒くなる。
火龍の光も弱い。
左脚は、もう使えない。
そう見えた。
ヴァレルが短剣を振る。
正面。
右側。
上。
カレンが次に逃げる場所へ、黒線が重なる。
残されたのは、左上だけ。
だが。
今のカレンには、そこへ曲がる力がない。
カレンは正面から突っ込んだ。
「終わりだ」
ヴァレルが短剣を振る。
カレンの正面へ切断面が開く。
右へ避ければ、別の黒線。
上にも刃がある。
止まることもできない。
カレンの口元が、吊り上がった。
「引っかかったな」
消えかけていた左脚の火龍が、突然燃え上がった。
傷ついた筋肉へ、残りの火を叩き込む。
骨が軋む。
関節が悲鳴を上げる。
それでも、左脚が跳ねた。
同時に、背中の火が逆巻く。
肩から腰へ。
腰から脚へ。
それまでとは逆方向へ魔力が駆け抜ける。
空気が爆ぜた。
正面へ進んでいた身体が、空中で止まる。
ほんの一瞬。
直後。
左上へ弾かれた。
ヴァレルの正面から消える。
使えないと見せていた左脚。
もう曲がれないと見せていた方向。
身体の限界そのものが、カレンの罠だった。
ヴァレルの視線が、正面に残る。
カレンはその頭上へ回り込んだ。
空中で身体を反転させる。
脚の火龍が消える。
腰を巻いていた尾が薄れる。
背中をうねる竜身が、右腕へ集まっていく。
全身に刻まれた一匹の火龍が、拳へ向かって駆け上がる。
肩口で牙を剥く頭部が、拳へ重なった。
これが最後。
もう一度、軌道を変える力はない。
次に着地することもできない。
残った魔力。
動かせる筋肉。
失っても構わない命。
そのすべてを拳へ乗せる。
「終わりだ!」
拳が、ヴァレルの頭上へ振り下ろされる。
ヴァレルが顔を上げた。
目が合う。
驚いていない。
その表情を見た瞬間。
カレンは悟った。
遅すぎた。
「読んだのは、お前だけではない」
ヴァレルの短剣は、すでに上を向いていた。
正面の切断面。
右へ置いた刃。
使えない左脚。
それらは、カレンに左上を選ばせるためのもの。
ヴァレルは、限界を偽装している可能性まで読んでいた。
カレンが最後に残した力で、どこへ飛ぶのか。
その到達点へ。
すでに、本命の切断面が置かれている。
黒い線が、カレンの目の前にあった。
避けられない。
逆噴射する力もない。
止まれば、その場で身体が崩れる。
それでも。
カレンは拳を引かなかった。
「知るかよ……!」
火龍をまとった拳が、ヴァレルへ迫る。
あと少し。
あと指一本分。
届く。
その寸前。
カレンの身体が、切断面へ触れた。
胸元から脇腹へ。
深い傷が走る。
血が宙へ広がった。
全身の火龍が、ばらばらに千切れる。
赤い紋様が明滅し。
消えた。
拳を覆っていた龍の頭も、ヴァレルの頬の直前で霧散する。
カレンの身体から力が抜けた。
ヴァレルの横を通り過ぎる。
石床へ落ちた。
肩から叩きつけられ。
一度だけ転がる。
それきり、動かなくなった。
静寂が戻る。
ヴァレルの頬には、熱で焼かれた細い跡が残っていた。
拳は届かなかった。
だが。
あと、ほんのわずかだった。
ヴァレルは倒れたカレンを見下ろす。
炎の紋様は消えている。
裂けた服の下には、焼け焦げた皮膚と無数の傷。
呼吸は。
かすかに残っていた。
「見事だった」
ヴァレルは歩み寄る。
「だが、ここまでだ」
カレンの指が、わずかに動く。
石床を掴もうとする。
もう力は入らない。
ヴァレルは短剣を持ち上げた。
刃先を、倒れたカレンへ向ける。
その瞬間。
白銀の光が、礼拝堂跡を貫いた。
ヴァレルが後方へ跳ぶ。
直後。
二人の間へ雷が落ちた。
轟音。
石床が爆発する。
砕けた石片が宙を舞い、白い稲妻が崩れた柱を駆け上がった。
ヴァレルは長衣の袖で顔を庇いながら着地する。
雷光は消えない。
細い稲妻が石床を這い、カレンを守るように周囲へ広がっていく。
風が吹いた。
舞い上がった埃が払われる。
崩れた礼拝堂の入口に、一人の少女が立っていた。
長い髪が、雷の余波に揺れている。
制服の着こなしにも。
立ち姿にも。
少しの乱れもない。
ただ。
その周囲を走る白銀の雷だけが、彼女の感情を代わりに示していた。
セレスティアはヴァレルを見る。
次に、倒れているカレンへ視線を落とした。
静かな表情の奥で。
雷が鳴る。
「私の仲間に、ずいぶんなことをしてくれたわね」




