第五十四話 界断刃《セヴァランス》
体内を巡る火の魔力が脚を押し出し、一瞬でヴァレルとの距離を消した。
右拳。
ヴァレルが半歩退く。
続けて左肘。
身を沈めてかわされる。
そのまま膝を跳ね上げると、黒い長衣の裾が揺れ、ヴァレルの身体が後方へ流れた。
「逃げてばっかじゃ、あたしは止められねえぞ」
「止める必要はない」
ヴァレルの右手が腰元へ伸びた。
黒い鞘。
そこから、細身の短剣が引き抜かれる。
刃は短い。
目立った装飾もない。
ただ、鍔の中央に埋め込まれた黒い石だけが、鈍い光を返していた。
カレンの目が細くなる。
「やっと出したか」
「出させたことを誇るべきではない」
「だったら、使ってみろよ」
カレンが再び踏み込む。
ヴァレルは短剣を構えた。
構えと呼ぶには、あまりに自然だった。
腕を軽く下げ、刃先を斜めに向けただけ。
カレンの拳が迫る。
ヴァレルが身をかわした。
すれ違いざま、短剣を持つ手首がわずかに返る。
ただ、それだけだった。
斬られた感触はない。
カレンは止まらず、振り向きざまに蹴りを放つ。
ヴァレルが後方へ退いた。
蹴りは届かない。
「どうした。それで終わりかよ」
カレンが笑った。
直後。
まくり上げた左袖が、音もなく裂けた。
「……あ?」
遅れて、腕へ赤い線が走る。
皮膚が開き、血が噴き出した。
カレンは一歩下がる。
傷は浅くない。
だが、短剣は触れていなかった。
刃先は、届いてすらいない。
「今のは……」
「考える時間があるのか」
ヴァレルが前へ出る。
今度は向こうから間合いを詰めてきた。
短剣が横へ流れる。
カレンは刃筋を見切り、身体を後ろへ反らした。
避けた。
そう思った。
ヴァレルがその横を通り過ぎる。
一拍置いて。
カレンの脇腹が裂けた。
「がっ……!」
血が飛ぶ。
膝が揺れ、口の中へ鉄の味が広がる。
深い。
先ほどの傷とは比べものにならない。
脇腹を押さえた指の間から、血が溢れていく。
「刃は……届いてねえ」
「そう見えたか」
「答える気はねえって顔だな」
「理解したところで、避けられるとは限らない」
「随分と自信あんじゃねえか」
カレンは短く息を吐いた。
乱れた魔力を、再び体内へ流す。
喧火上等。
火を筋肉へ。
骨へ。
血管へ。
傷が治るわけではない。
失った血が戻るわけでもない。
それでも、動けと身体を内側から押し続ける。
カレンは腰を落とした。
「もう一回だ」
「まだ続けるか」
「当たり前だろ」
石床を蹴る。
右拳を見せる。
ヴァレルの短剣が動いた。
カレンは途中で軌道を変え、低く滑り込む。
肩から身体をぶつけた。
ヴァレルの姿勢が、初めてわずかに崩れる。
すぐさま追撃。
脇腹の傷が開く。
痛みを無視し、拳を振るう。
ヴァレルが短剣を持ち上げた。
カレンは腕を引き、距離を取る。
刃には触れていない。
それでも右肩に鋭い痛みが走った。
「くそっ……!」
服が裂ける。
肩口から背中へ、斜めに傷が開いた。
刃の長さ。
腕の動き。
間合い。
どれも、実際の傷と噛み合わない。
見切るには情報が足りない。
ならば。
見切れないまま、食らいつくしかない。
カレンは再び前へ出た。
右。
左。
肘。
蹴り。
傷を増やしながら、距離を詰め続ける。
ヴァレルの手首が動くたび、身体のどこかが裂けた。
腕。
腿。
肩。
背中。
攻撃を受けた感覚はない。
痛みと傷だけが、少し遅れて身体へ現れる。
それでもカレンは止まらなかった。
一度、拳がヴァレルの頬をかすめた。
二度目は、蹴りが長衣を裂いた。
三度目。
肩を掴み、石壁へ叩きつけようとする。
ヴァレルが短剣を振った。
カレンは手を離す。
腹部に、熱が走った。
「っ……!」
身体の正面へ、横一文字の傷が開いた。
血が一気に溢れる。
足から力が抜け、片膝が石床へ落ちた。
呼吸をするたび、腹の奥が軋む。
石床へ落ちた血が、赤い水たまりを広げていく。
ヴァレルは追撃しなかった。
短剣を下げたまま、カレンを見下ろしている。
「終わりだ」
「……何がだよ」
「お前はもう動けない」
カレンは火を巡らせようとした。
だが、反応が鈍い。
傷ついた筋肉が動きを拒み、失った血が身体から熱を奪っていく。
それでも、頭だけは妙に冷えていた。
どれだけ稼げた。
礼拝堂跡へ目を向ける。
先ほど砕けた石片が、まだ斜面を転がっている。
舞い上がった埃も、落ち切っていない。
遠ざかった足音の余韻さえ、耳の奥に残っている。
まだ三分も経っていない。
これだけ傷を負って。
これだけ攻撃を重ねて。
稼げた時間は、それだけだった。
「……冗談だろ」
声が漏れた。
ヴァレルは礼拝堂の外へ視線を向ける。
「標的はまだ近い」
カレンの指が、血に濡れた石床を掴んだ。
まだ足りない。エルネは逃げ切れない。
巡礼聖像も追っている。
ここでヴァレルまで通せば、何のために残ったのか分からない。
「そうかよ」
「お前がここで倒れても、結果は変わらない」
「そいつは困るな」
カレンは片膝を立てた。
腹部から再び血が流れる。
「立つつもりか」
「見りゃ分かんだろ」
「動けば死ぬぞ」
カレンの動きが、ほんの一瞬だけ止まった。
それから、笑った。
「今さらだな」
体内へ意識を沈める。
火の魔力は、まだ残っている。
少ない。
だが、使い切るには十分だった。
喧火上等は、火を体内へ巡らせる魔法だ。
流れを整え。
肉体を支え。
壊れないぎりぎりのところまで、人間の限界を引き上げる。
だから、まだ戻れる。
今なら、術式を止められる。
倒れたまま助けを待てば、生き残れるかもしれない。
だが、その先へ進めば、もう戻れない。
カレンはそれを知っていた。
教わった技ではない。
使うことを許された技でもない。
喧火上等を使い続け、自分の身体と火を知り尽くした末に、一度だけ辿り着いた術式。
そして。
二度と使わないと決めた術式。
火を巡らせるのではない。
身体へ刻む。
血へ。
肉へ。
骨へ。
傷ついた魔力経路そのものへ。
火を流す道が壊れているなら、壊れた身体ごと燃やして道にする。
治すためではない。
生き延びるためでもない。
残されたすべてを、一度の戦いへ変えるための術式。
発動した後に何が残るのか。
カレン自身にも分からない。
ただ一つだけ確かなことがある。
これを使えば。
もう、次はない。
カレンは石床から手を離した。
震える脚で、ゆっくりと立ち上がる。
傷口から血が落ちる。
身体は傾きかけたが、踏みとどまった。
ヴァレルが短剣を構え直す。
「無意味だ」
「かもな」
カレンは両足を開く。
拳を握る。
指先の感覚は、すでに薄い。
「でも、アタシが倒れるかどうかは関係ねえ」
息を吸う。
胸の傷が軋んだ。
「お前を、ここから先へ行かせるかどうかだ」
呼吸を止める。
体内を巡っていた火の魔力が、静かに速度を落とした。
腕から。
脚から。
心臓から。
すべての流れが、一つずつ止まっていく。
喧火上等の熱が消えた。
血を失った身体へ、冷たさが戻る。
ヴァレルの眉がわずかに動く。
「術式を解いたか」
「逆だよ」
カレンは目を閉じた。
止めたはずの火が、今度は流れではなく、沈んでいく。
魔力経路の外へ。
筋肉の隙間へ。
骨の内側へ。
本来、火が触れてはならない場所へ。
一度でも制御を誤れば、その場で身体が焼ける。
成功しても、その先に待つものは変わらない。
それでもカレンは、最後の一線を越えた。
次の瞬間。
右腕の皮膚の下に、赤い光が走った。
細い線だった。
だが、それはすぐに枝分かれし、まくった袖の下の腕一面へ燃える紋様を刻んでいく。
肩へ。
鎖骨へ。
喉元へ。
炎の線は、裂けた服の隙間から背中へ回り込み、脇腹の傷を縁取るように走った。
腰へ。
太腿へ。
脛へ。
赤い紋様は、ただ散らばっているのではない。
一本の流れとして、全身を這っていく。
肩口には、牙を剥く竜の頭。
背にはうねる胴。
腕を伝う爪。
腰を巻き、脚へと落ちていく長い尾。
それはまるで――
全身に、一匹の火竜の刺青が彫り込まれたようだった。
皮膚の上ではない。
皮膚の下で、竜そのものが燃えている。
傷口から流れていた血が、紋様に触れた端からじゅっと蒸気を上げた。
治ったわけではない。
焼き止め、無理やり動ける形へ留めているだけだ。
カレンは目を開いた。
傷だらけの口元が、獰猛に吊り上がる。
最後に残った魔力が、心臓へ集まる。
鼓動が一度、大きく鳴った。
その拍動に合わせて、全身の火竜が脈打つ。
竜が、今にも肉の下から這い出そうとしているように。
カレンは正面のヴァレルを見据えた。
「喧火上等……」
自分の退路を焼き払い。
残りのすべてを戦いへ変える。
「華龍相!」
龍が、吠えた。




