↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
54/110

第五十三話 カレンは退かない

 カレンの拳が、ヴァレルの顔面へ迫った。


 ヴァレルは首をわずかに傾ける。


 拳が頬のすぐ横を通り抜け、そのまま背後の石壁へ突き刺さった。


 鈍い音が響く。


 壁面に亀裂が走り、大きな破片が石床へ落ちた。


「身体強化か」


「よそ見してんじゃねえよ」


 カレンは振り向きざまに拳を放つ。


 ヴァレルが一歩下がる。


 拳が鼻先をかすめた。


 間を置かず、蹴りが飛ぶ。


 黒い長衣の裾を翻し、ヴァレルは横へ退いた。


 カレンは止まらない。


 拳。


 肘。


 蹴り。


 杖も使わず、魔法を外へ放つこともなく、ひたすら近距離から攻撃を叩き込んでいく。


 体内を走る火の魔力が、踏み込むたびに全身を押し出す。


 拳が石壁を砕く。


 蹴りが石床を削る。


 だが、ヴァレルには届かない。


「ちょこまか逃げやがって!」


 カレンが大きく踏み込む。


 右拳を振りかぶった。


 ヴァレルはそれをかわしながら、逃げていくエルネたちへ視線を向ける。


「どこ見てんだ!」


 拳が迫る。


 ヴァレルは身を沈め、カレンの脇を抜けた。


 カレンが即座に振り返る。


 ヴァレルの左手が、黒い長衣の内側へ入っていた。


「何を出すつもりだ」


 取り出されたのは、三体の小さな像だった。


 手のひらに収まるほどの大きさ。


 長い礼装に身を包み、胸の前で両手を組んでいる。


 顔には、目も鼻も口もない。


 唯一の装飾は、首から下げられた古びたレリーフだけだった。


 ヴァレルが像を宙へ放る。


「行け、巡礼聖像《ピルグリム》」


 三体の像は、石床へ落ちなかった。


 その表面に、細かな術式文字が浮かび上がる。


 文字列が像からほどけ、幾重もの輪となって周囲へ広がった。


 礼拝堂跡に残る魔力が、急速に吸い寄せられる。


 青白い光。


 薄い霧。


 崩れた結界からこぼれた魔力の残滓までが、小さな像を中心に渦を巻いた。


「なんだ、こいつら……」


 三体の像を胸の内側へ抱くように、巨大な人影が形作られていく。


 長い礼装。


 組み合わされた両手。


 目鼻のない、滑らかな顔。


 石でも、土でもない。


 淡い光と濃い霧が重なり、人の輪郭を保っている。


 やがて二メートルを超える三体の聖像が、空中へ浮かび上がった。


 足は地面へ触れていない。


 祈るように両手を組んだまま、三体はカレンを取り囲む。


 その隙に、ヴァレルがエルネたちの方角へ身体を向けた。


「逃がすかよ!」


 カレンが踏み込む。


 一体の巡礼聖像が、正面へ滑り出た。


 組んでいた両手をほどき、長い腕を広げる。


 攻撃するためではない。


 身体を抱え込み、その場へ拘束するつもりだった。


「邪魔だ!」


 カレンは避けなかった。


 伸びてきた腕の内側へ踏み込み、胸部へ拳を叩き込む。


 手応えがない。


 拳が白い霧の身体へ沈んでいく。


 その奥。


 胸部に浮かぶ小さな聖像へ拳が迫った。


 だが、核の周囲へ術式文字が集まり、薄い膜を作る。


「っ……!」


 拳が止まった。


 石でも、金属でもない。


 術式そのものを殴りつけたような、硬い反発が腕を走る。


 巡礼聖像の輪郭が大きく揺らいだ。


 胸元が裂け、白い霧が周囲へ散る。


 それでも倒れない。


 散った魔力が引き寄せられ、裂けた輪郭を埋め始める。


「再生までしやがんのかよ」


 左右から、残る二体が迫る。


 長い腕が同時に伸びた。


 カレンは身を沈める。


 その時。


 三体の滑らかな顔へ、横一文字の亀裂が走った。


「――あ?」


 口などなかったはずの場所が、大きく開く。


 歯も。


 舌もない。


 暗い空洞の奥で、術式文字だけが幾重にも回っていた。


 次の瞬間。


 音が爆ぜた。


 耳で捉えるより早く、振動がカレンの身体を貫く。


「ぐっ……!」


 視界が揺れた。


 平衡感覚が崩れ、片膝が石床へ落ちる。


 骨が震える。


 内臓が揺さぶられる。


 何より。


 体内を走っていた火の魔力が、激しく乱れた。


 心臓から腕へ。


 背中から脚へ。


 一定の流れを保っていた魔力へ、別の波を無理やり叩き込まれたようだった。


 三体の長い腕が伸びる。


 カレンの肩を。


 腰を。


 脚を絡め取ろうと迫る。


「舐めんな……!」


 カレンは石床へ拳をついた。


 乱れた火を、力ずくで脚へ押し込む。


 綺麗に整える必要はない。


 動ければいい。


 石床を蹴り砕く。


 低い姿勢のまま、三体の腕が閉じる寸前の隙間へ飛び込んだ。


 白い腕が背中をかすめる。


 音波の余韻で視界はまだ揺れている。


 それでも止まらない。


 カレンは一体の腕を掴んだ。


 霧のような表面の奥。


 腕を形作る術式の芯だけが、手の中に残る。


「こっち来い!」


 体内の火を脚と腰へ集中させた。


 身体を強引に捻る。


 巨大な聖像の輪郭が傾き、隣の一体へぶつかった。


 二つの術式文字が重なる。


 互いの魔力が干渉し、白い身体が大きく揺らいだ。


 残る一体が再び口を開く。


 二度目の音波が来る。


 カレンは、開いた口へ拳を叩き込んだ。


 暗い空洞の中で術式文字が弾ける。


 音は放たれなかった。


 巡礼聖像の頭部が霧となって崩れる。


 だが、倒れない。


 失われた頭部へ周囲の魔力が集まり、すぐに輪郭を作り始めていた。


「しつけえんだよ……!」


 三体を倒したわけではない。


 術式を絡ませ。


 音波を一度潰し。


 ほんの数秒、包囲へ穴を開けただけだ。


 けれど、カレンにはそれで十分だった。


 石床を蹴る。


 ヴァレルとの距離が、一気に縮まる。


 エルネを追おうとしていたその肩へ、拳を振り抜いた。


 ヴァレルが身を翻す。


 拳は黒い長衣をかすめた。


「人形置いて逃げてんじゃねえよ」


 カレンが、ヴァレルの正面へ回り込む。


「お前の相手は、あたしだって言っただろ」


 ヴァレルは、初めてカレンを正面から見た。


 標的の前に立つ障害ではない。


 巡礼聖像の包囲を突破し、再び追いついてきた敵として。


「……訂正しよう」


「あ?」


「お前は、先に排除する必要がある」


「やっとその気になったかよ」


 カレンが荒々しく笑う。


 その背後では、巡礼聖像たちが輪郭を取り戻し始めていた。


 乱れていた術式文字が整う。


 崩れた頭部も、白い霧を集めながら再生していく。


 ヴァレルはカレンから目を離さないまま命じた。


「標的を追え」


 三体の巡礼聖像が、同時に顔を上げた。


 身体の向きを変え、エルネたちが逃げた方角へ滑り出す。


「待ちやがれ!」


 カレンが追おうとする。


 今度は、ヴァレルがその進路へ立った。


「どけ!」


「今度は、こちらの番だ」


「じゃあ最後まで付き合ってもらうぜ」


 カレンの笑みが、さらに深くなり、乱された火の流れを、再び体内へ巡らせる。


     ◇


 三体の巡礼聖像が、礼拝堂跡を離れていく。


 崩れた建物の陰から、ルシアンはその姿を見ていた。


 カレンを助けるか。


 エルネを追うか。


 先ほどまで答えの出なかった問い。


 だが今、役割は分かれた。


 ヴァレルは、カレンが止めている。


 エルネを追う聖像には、誰もついていない。


 白い人影を見つめながら、ルシアンは目を細めた。


 何者かの狙いがエルネにある。


 それ自体は、試合が始まる前から疑っていた。


     ◇


 選抜戦が始まる少し前。


 ルシアンは、王立リュゼリア魔法学院の禁書庫へ呼び出されていた。


 一般の生徒には、入口へ近づくことすら許されない場所。


 だが、ルシアンがその扉をくぐるのは初めてではなかった。


 父は、王宮に仕える高位の宮廷魔術師。


 ルシアン自身も、学院卒業後には宮廷魔術師として迎えられることが確約されている。


 家柄だけによるものではない。


 二年生主席。


 高い魔力制御能力と、術式のわずかな乱れも見逃さない観察眼。


 本人の実力を認められてのことだった。


 将来は王宮の魔術研究だけでなく、禁書の調査や管理にも関わることになる。


 そのためルシアンは、ときおり番人から、在学中の生徒には似つかわしくない話を聞かされていた。


 薄暗い書架の奥。


 顔を薄布で覆った番人が、一冊の古びた本を開いている。


「エルネ・フィルという名に、聞き覚えはあるか」


「名前だけなら」


 ルシアンは選抜候補の名簿を思い出した。


 今年、一年生から候補へ選ばれたのは二人。


 一人は、リシア・アルヴェルト。


 名門アルヴェルト家の令嬢であり、名も実力も以前から知られている。


 もう一人が、エルネ・フィルだった。


「候補者の名簿で見ました。ただ、詳しいことは知りません」


「気にはならなかったか」


「多少は」


 ルシアンは、わずかに目を細める。


「候補に入るほどの生徒であれば、何かしら耳に入っていてもよさそうなものですから」


 番人は、古びた頁を一枚めくった。


「蒼い炎を使ったという報告がある」


「蒼い炎……」


「古い記録にも、その色の炎が現れる」


 番人の指が、褪せた文字をなぞる。


「もっとも、残っているものは断片だけだ。術式名も、魔法陣も、使い手の名さえ確かではない」


「同じ色というだけですか」


「今のところはな」


「では、なぜ私を?」


「分からないからだ」


 薄布の奥から、番人の視線が向けられる。


「炎の性質。術式の構造。発動時の魔力変化。そして、本人がそれをどこまで理解しているか」


 番人は静かに告げた。


「見てこい」


「判断は?」


「するな」


 声が、わずかに低くなる。


「お前の役目は、判断に足る事実を持ち帰ることだ」


     ◇


 同じ頃。


 聖環学院がリュゼリア王家へ強く働きかけ、対抗戦の日程を早めたことも、ルシアンは知っていた。


 表向きの理由だけでは、王家を動かすには弱い。


 なぜ、そこまで急ぐのか。


 その理由を探るため、ルシアンは聖環側へ接触した。


 交わした言葉は多くない。


 求められた情報のうち、渡しても構わないものだけを返した。


 代わりに得たものも、作戦の断片にすぎない。


 分断。


 合流の妨害。


 中央砦周辺への仕掛け。


 それだけなら、通常の各個撃破に見えた。


 だが、最初から疑って見れば、偏りは分かる。


 聖環側が特に知りたがったのは、エルネ・フィルのこと。


 返された情報の中で意図的に伏せられていたのも、エルネをどこで、誰と戦わせるかという部分だった。


 聖環が本当に狙っているのは、勝敗ではない。


 エルネ・フィル。


 そう考えたからこそ、ルシアンは試合開始後も合流地点へ向かわなかった。


 聖環が、どこでエルネを狙うのか。


 それを探っていた。


 だが。


 礼拝堂で待っていたものも。


 その背後にいる者たちも。


 幻傷結界の破壊も。


 ルシアンの得た情報には含まれていなかった。


     ◇


 意識を現実へ戻す。


 三体の巡礼聖像は、すでに礼拝堂跡から遠ざかっている。


 聖環の狙いがエルネであることは読めていた。


 だが、その奥に潜んでいたものまでは読めなかった。


 ルシアンはカレンへ目を向ける。


 彼女はヴァレルの前に立ち、退くつもりはない。


「申し訳ありません、カレン先輩」


 小さく呟く。


「そちらは、お任せします」


 足元へ白い熱が集まった。


 石床がわずかに赤く染まる。


 次の瞬間。


 ルシアンは物陰から飛び出した。


 浮遊する巡礼聖像たちを追い、礼拝堂跡を駆け抜けていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。