第五十二話 迎えに来た男
迎えに来た。
そう告げた男――ヴァレルは、エルネへ差し出した手を下ろさなかった。
けれど、その淡い瞳が見ているのは、エルネ本人ではない。
彼女が抱えている、黒い本だった。
「迎えに来たって、どういうこと?」
エルネは本を抱く腕に力を込めた。
「私は、あなたなんて知らない」
「お前が知らないことに意味はない」
ヴァレルの声には、怒りも苛立ちもなかった。
「その本を持つ者を、我々は長く探していた」
「この本を……?」
「お前は、自分が何者なのかを知らない」
ヴァレルの視線が、ゆっくりとエルネの顔へ上がる。
「だから迎えに来た。本来いるべき場所へ連れ戻すために」
「勝手なことを言わないで」
エルネは一歩下がった。
「私はどこにも行かない!」
「意思を聞きに来たわけではない」
ヴァレルが歩き出す。
短剣の先から落ちた赤い雫が、石床へ小さな染みを作った。
すぐに、カレンがエルネの前へ立つ。
「本人が嫌だと言っています」
「退け」
「お断りします」
「お前に用はない」
「こちらにはあります」
ヴァレルの足が止まった。
カレンは前を向いたまま、背後へ声を投げる。
「エルネさん」
「はい」
「魔力は、どれくらい残っていますか」
「え?」
「正直に答えてください」
エルネは黒い本へ目を落とした。
広域魔法を発動してから、身体の中が空っぽになったように重い。
息を整えているだけでも、胸が苦しかった。
「ほとんど……残っていません」
カレンは小さく息を吐く。
予想していた答えだった。
「リシアさん」
「はい」
「エルネさんを連れて、ここから離れてください」
リシアの表情が険しくなる。
「カレン先輩は?」
「私が残ります」
「一人でですか?」
「はい」
「待ってください!」
エルネが声を上げた。
「そんなの駄目です。あの人、普通じゃありません」
「今のあなたでは戦えません」
カレンは振り返らなかった。
「でも――」
「足手まといだと言っているわけではありません」
その声は、普段と変わらず静かだった。
「あなたを戦わせないと言っています」
エルネは言葉を失った。
ヴァレルは三人のやり取りを黙って眺めている。
逃げ切れるはずがないと、最初から分かっているようだった。
「逃がすつもりか」
「ええ」
「無駄だ」
「それを決めるのは、あなたではありません」
「お前では、私を止められない」
ヴァレルが短剣をわずかに持ち上げる。
その言葉を聞いた瞬間。
カレンの脳裏に、対抗戦が始まる前の声がよみがえった。
『今回の対抗戦、エルネさんについていてあげて』
なぜ自分なのか。
そう尋ねたカレンに、セレスティアは穏やかに笑っていた。
『でも、あなたは多分、考えるより先に手が出るでしょう』
随分な言い方だと思った。
否定はできなかったが。
『ただ、誰よりもまっすぐなあなたなら、エルネさんを任せられる。そんな気がしているの』
会長に頼まれたから守る。
任せられたから、ここに残る。
それだけではない。
今、カレンの後ろにいるのは、ただ見張るよう言われた一年生ではなかった。
一緒に戦った後輩だ。
自分を信じ、背中を預けた仲間だ。
「……会長」
カレンは小さく呟いた。
「やっぱり、あんたは人を見る目があるよ」
手にしていた杖を離す。
からん、と。
乾いた音を立てて、杖が石床へ転がった。
「カレンさん?」
続けて制服の上着へ手をかける。
留め具を外し、その場へ脱ぎ捨てた。
上着が、転がった杖の上へ落ちる。
カレンはシャツの袖をまくりながら、ゆっくりと首を鳴らした。
ヴァレルが、わずかに眉を動かす。
「何のつもりだ」
カレンは拳を握った。
「リシアさん」
ヴァレルから目を離さずに言う。
「お願いします」
リシアは一瞬だけ迷った。
だが、すぐにエルネの腕を取る。
「行きます」
「でも、カレンさんが――」
「早く!」
カレンの声が飛ぶ。
エルネの身体が震えた。
その声は、まだいつものカレンのものだった。
けれど、もう振り返ってはくれなかった。
「……分かりました」
リシアに腕を引かれ、エルネが走り出す。
ヴァレルが、その背中へ視線を向けた。
一歩、追おうとする。
カレンが正面へ立ちはだかった。
「退け」
「嫌だね」
「お前に用はない」
「こっちにはあんだよ」
カレンは荒々しく笑った。
「そいつは、アタシの後輩だ」
足を開き、深く腰を落とす。
「勝手に連れてこうとしてんじゃねえ」
火の魔力が、身体の内側へ沈んでいく。
心臓から腕へ。
背中から脚へ。
灼けるような熱が血管をなぞり、全身を一気に駆け抜けた。
骨が軋む。
筋肉が引き絞られる。
呼吸をするたび、肺の奥が熱を帯びる。
炎は、どこにも現れない。
外へ放つはずの火を、すべて自分の内側へ押し込めている。
「後輩に手ェ出そうって奴を」
拳を打ち合わせる。
乾いた音が響いた。
「ぶっ飛ばすんだよ」
ヴァレルの視線が、初めてエルネから外れた。
カレンへ向けられる。
「喧火上等」
次の瞬間。
石床が砕けた。
先ほどまでとは比べものにならない速度で。
カレンは、ヴァレルの眼前へ踏み込んでいた。
◇
少し離れた崩れた建物の陰で。
ルシアンは、そのすべてを見ていた。
姿を見せれば、カレンを援護できる。
目の前の男は明らかに危険だった。
幻傷結界は機能していない。
ここから先の傷は、すべて本物になる。
助けるべきだ。
だが。
リシアがエルネを連れて、この場を離れていく。
エルネを追わなくてよいのか。
あの男と、結界を壊した者が同一人物だという保証はない。
他にも侵入者がいる可能性は残っている。
エルネが狙われているのなら、逃げた先で別の者が待ち伏せているかもしれない。
カレンを助けるか。
エルネを追うか。
ルシアンの指先に、白い熱が灯る。
どちらを選ぶべきか。
決められない。
一瞬の迷いが、彼の足をその場へ縫い止めていた。




