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第五十一話 断界のヴァレル

 空が砕けた。


 黒い亀裂から青白い破片が降り注ぎ、砦跡の石床へ突き刺さる。


 轟音とともに足元が揺れ、クラリスは反射的に目を閉じた。


 幻傷結界を構成していた魔力が、ばらばらに崩れていく。


 防護術式。


 戦闘不能者を転送する術式。


 選手の傷を幻傷へ置き換える術式。


 そのすべてが、今の一撃で壊された。


 頬を打つ風が止む。


 クラリスが目を開こうとした、その時。


「お前が、あの男の連絡係か」


 背後から声がした。


「――っ」


 気配などなかった。


 魔力も。


 足音も。


 クラリスが振り返る。


 視界の端に、黒い長衣が映った。


 細身の男。


 灰銀色の髪。


 その右手には、一本の短剣が握られている。


 刃が、わずかに動いた。


 クラリスは杖を上げる。


 間に合わない。


「重岩壁陣《ファランクス》!」


 地面が爆ぜた。


 分厚い土壁が、クラリスと男の間へ突き上がる。


 幾重もの岩盤が噛み合い、巨大な盾を形作った。


 砦跡へ駆け込んできたガイウスが、地面へ手をついている。


 誰かが襲われているのが見えた。


 考えるより先に、魔法を放っていた。


 土壁の向こうにいる少女へ目を向ける。


 対抗戦が始まる前、一度だけ見た顔だった。


 確か、聖環の生徒。


 名前は――クラリス。


「無事か!」


 ガイウスが駆け寄る。


 重岩壁陣は無傷だった。


 亀裂一つ入っていない。


 短剣の刃も、土壁へは届いていない。


 確実に防いだ。


 そう思った。


 次の瞬間。


 クラリスの胸元から、赤い血が噴き上がった。


「え……」


 ガイウスの思考が止まる。


 眼鏡が外れ、石床へ落ちた。


 クラリスの身体が、糸を切られたように崩れる。


「おい!」


 ガイウスが寸前で抱き留めた。


 腕へ、温かい血が広がっていく。


「しっかりしろ!」


 返事はない。


 クラリスの唇が、かすかに開く。


 だが、声は出なかった。


 呼吸すら、まともにできていない。


 幻傷ではない。


 光の印も浮かばない。


 傷が消える気配もない。


 本物の血だった。


「なんで……」


 重岩壁陣は、まだ立っている。


 男は、その向こうにいる。


 攻撃が通ったはずはない。


 それなのに。


「何をした!」


 ガイウスが叫ぶ。


 返事はなかった。


 土壁の向こうで、男が短剣を下ろす。


 それ以上、攻撃する様子はない。


 やがて男は、ガイウスたちに背を向けた。


「待て!」


 ガイウスが叫ぶ。


 男の足は止まらない。


「お前、何者だ! どこへ行く!」


 追わなければならない。


 そう思った。


 だが、腕の中でクラリスの身体が小さく震えた。


 血が止まらない。


 呼吸も、今にも途切れそうだった。


「くそっ……」


 ガイウスは男の背中から目を離し、クラリスを石床へ横たえる。


 傷口を押さえた。


 両手が赤く染まっていく。


「聞こえるか。おい、目を開けろ」


 反応はない。


 男を追えば、クラリスを置いていくことになる。


 この状態で放置すれば、助からない。


 ガイウスは歯を食いしばった。


 崩れた城壁の向こうへ、黒い背中が消えていく。


 追うことはできなかった。


     ◇


 青白い結界片が、雨のように降っていた。


 エルネは黒い本を抱えたまま、砕けた空を見上げている。


「先生……?」


『解析中です』


 ロゴスの返答は、いつもよりわずかに遅かった。


『幻傷結界の主要機能が停止しています』


(主要機能って?)


『損傷置換。痛覚制限。危険時転送』


 エルネは息を呑んだ。


 試合中、どれだけ攻撃を受けても致命傷にはならなかった。


 危険と判断されれば、強制的に外へ転送される。


 その仕組みが、すべて止まっている。


「結界の光が消えています」


 リシアが、周囲へ落ちる青白い破片を見ながら言った。


「防護術式も、転送術式も作動していません」


 カレンがエルネの前へ出る。


「つまり、ここから先は試合ではない」


 その言葉に、エルネは黒い本を強く抱いた。


「誰かが、外から結界を壊したんですか?」


 リシアは砕けた空を見上げたまま答える。


「少なくとも、自然に起きたものではありません」


『警告』


 ロゴスの声が響いた。


『高密度魔力反応を検出』


(どこ?)


『近距離です』


「近距離って――」


 ざり、と。


 石を踏む音がした。


 三人が振り返る。


 礼拝堂へ続く崩れた通路。


 そこに、一人の男が立っていた。


 黒い長衣。


 灰銀色の髪。


 右手に握られた、細身の短剣。


 刃の先から、赤い雫が落ちる。


 カレンが即座に身構えた。


 リシアの周囲へ水が集まる。


 男は二人を見なかった。


 真っ直ぐに、エルネだけを見ている。


 いや。


 エルネの腕の中にある、黒い本を。


『対象から敵対反応を検出』


(見れば分かる!)


 エルネは黒い本を強く抱いた。


「誰!?」


 男の視線が、ゆっくりとエルネの顔へ上がる。


 淡い琥珀色の瞳。


 そこに怒りも、興奮もない。


 探していたものを見つけたような、静かな確認だけがあった。


「ヴァレル・ノクティス」


 男は短剣を下げたまま答えた。


「断界のヴァレル」


 降り続ける結界片の中で。


 ヴァレルは、エルネへ手を差し出した。


「迎えに来た。エルネ・フィル」

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