第五十話 空が砕けた
歪んでいた通路が、元へ戻った。
壁に見えていた場所が揺らぎ、その向こうから石造りの階段が現れる。
ガイウスは足を止めた。
「……消えた?」
何度進んでも同じ場所へ戻されていた。
上へ向かっていたはずが、気づけば地下へ降りている。
壁を壊しても、その先にはまた同じ壁。
そんな、ふざけた空間だった。
だが今は違う。
階段の先から、外の風が吹き込んでいた。
湿った土と、草の匂い。
正しい方向から来る風だ。
ガイウスは階段を駆け上がった。
崩れた石壁を抜ける。
遠く。
礼拝堂のある方角から、淡い転送光が昇っていた。
聖環学院の選手が退場した時に現れる光。
誰なのかまでは分からない。
だが、結界が消えた理由なら分かる。
ガイウスは拳を握った。
「あいつら、やったな!」
誰へ聞かせるでもなく、声を上げる。
エルネか。
リシアか。
カレンか。
あるいは、三人で何かをしたのか。
詳しいことは分からない。
それでも。
あの厄介な結界を破った。
ならば、自分もここで立ち止まってはいられない。
「よし!」
ガイウスは地面を蹴った。
向かう先は、砦跡。
そこにはまだ、聖環側の術者が残っている。
◇
クラリスは、杖の先に浮かぶ光を見つめていた。
七つあった反応。
それが、次々と消えていく。
ジル。
ミレイユ。
レオン。
グレイグ。
エリオット。
そして。
つい先ほど、ノアの反応まで消えた。
残っている聖環側の反応は、一つ。
自分だけ。
「まさか……」
クラリスの唇から、声が漏れた。
ノアの結界は破られない。
生徒会の三人は、セレスティアを止める。
ジルとミレイユの実力は、クラリスも認めるところだった。
そのすべてが。
ほとんど同時に、崩れた。
地下から、低い音が響く。
足音。
こちらへ近づいている。
ノアの結界が消えたことで、地下へ誘導していた相手も戻ってくる。
おそらく、ガイウス。
クラリスは目を閉じた。
この状況で、戦い続ける意味はない。
勝利の可能性が残っているなら、最後まで抗う。
だが。
自分一人で、リュゼリアの代表全員を相手にできるとは思っていなかった。
感情だけで戦いを続ける趣味もない。
クラリスは杖を下ろした。
「降参します」
退場を示す術式へ、魔力を流す。
本来なら。
その意思を幻傷結界が読み取り、転送術式が起動する。
淡い光に包まれ。
次の瞬間には、試合場の外へ移される。
だが。
何も起きなかった。
「……?」
クラリスは杖を見た。
術式は正しく発動している。
魔力も流れている。
もう一度、退場の意思を送る。
反応はない。
返ってくるはずの、幻傷結界からの応答がなかった。
クラリスの表情が変わる。
「故障……?」
あり得ない。
幻傷闘技場の安全術式は、複数の観測術式によって常時監視されている。
一部に異常が起きても、別系統へ自動的に切り替わる。
選手が自ら退場できないなど。
起きてはならない。
地下の足音が近づいてくる。
それでもクラリスは、そちらを見なかった。
杖を上げる。
幻傷結界の流れを探る。
何も感じない。
消えているのではない。
ある。
確かに、広域フィールド全体を覆っている。
だが。
応答しない。
まるで。
結界そのものが、別の何かへ意識を奪われているように。
クラリスは顔を上げた。
空。
雲一つない、薄青い空。
幻傷術式によって再現された景色。
その一部が。
わずかに、歪んでいた。
「……何?」
光ではない。
魔法陣でもない。
透明な膜へ。
外側から、何かが触れている。
指先で押されているように、空の一点がゆっくりと内側へ沈んでいた。
クラリスは目を凝らす。
歪みの向こうに。
何かがいる。
輪郭は見えない。
姿も。
ただ。
見られている。
そう感じた。
歪みが、左右へ開く。
まるで。
瞼が持ち上がるように。
クラリスの息が止まった。
「これは……」
◇
礼拝堂の近く。
崩れた石塀の陰で、ルシアンは足を止めていた。
蒼い光が消えていく。
巨大な針。
ノアを囲み。
空間へ縫い止めた、蒼炎の術式。
その中心に、エルネが立っている。
黒い本を抱いたまま。
微動だにせず。
『聖環学院、ノア選手』
『戦闘継続不能と判定します』
術式音声が響く。
ノアの身体が転送光に包まれ、消えていった。
ルシアンは動かなかった。
蒼炎針。
その名は、報告で聞いている。
着弾した箇所を内側から燃やす、危険な術式。
だが。
今、目の前で使われたものは。
報告から想像していた姿とは、まるで違った。
一本ではない。
複数の針が。
それぞれ異なる位置へ。
異なる角度から。
ほとんど同時に現れた。
構築の兆しも。
魔力を集める間も。
ルシアンには、何一つ捉えられなかった。
ただ。
エルネが術式名を告げた時には。
すべてが、完成していた。
黒い本の頁が閉じる。
ぱたり、と。
小さな音が、妙にはっきりと耳へ届いた。
ルシアンの喉が動く。
ゆっくりと。
唾を飲み込んだ。
◇
聖環学院。
礼拝室。
室内に灯りはない。
祭壇の前に浮かぶ魔導投影盤だけが、淡い光を放っていた。
映し出されているのは、礼拝堂。
ノアの結界が消え。
巨大な蒼炎針が、彼を空間へ縫い止める。
その光景を。
祭壇の前に立つ男は、黙って見つめていた。
『素晴らしい』
礼拝室に、声が響く。
遠く離れた場所から。
通信術式を通して届く、低い声。
「ええ」
男は投影盤から目を離さずに答えた。
「間違いなさそうです」
『あの本が、彼女の覚醒を促しているのか』
「術式を与えているだけではない、と?」
『そう見える』
蒼炎の針が消える。
投影盤の中で、エルネの腕に抱かれた本が閉じた。
『今は観察を続ける。彼女自身が、あの本をどこまで開くことができるのか』
「接触は?」
『まだ早い』
静かな返答。
『無理に触れれば、閉じる可能性がある』
「では、彼女自身が望むまで待つと」
『少なくとも、今はそれでいい』
男は小さく頷いた。
「今後、学院側にはどのように?」
『予定どおりだ。こちらの存在を悟らせる必要はない。まずは――』
声が止まった。
男が顔を上げる。
「どうしました?」
『……待て』
先ほどまでとは違う。
通信の向こうの声が、低くなる。
投影盤の端に。
赤い線が走った。
一度。
短く。
男はすぐに術式盤へ手を伸ばす。
「これは……」
『そちらでも見えているか』
「はい」
赤い線が、また走る。
一つ。
二つ。
幻傷闘技場を示す術式図。
その外周へ、見覚えのない反応が現れていた。
「外部からの接続です」
『経路は』
「こちらのものではありません」
赤い光が増えていく。
封印式の隙間を縫い。
監視術式を避け。
幻傷結界の中枢へ向かっている。
男は眉を寄せた。
「この術式は……」
通信の向こうで、短い沈黙が落ちる。
『……あちらが、先に動いた』
「まさか」
『間違いない』
声から、静けさが消えた。
『何をするつもりだ』
「接続先を確認します」
男が魔力を流し込む。
礼拝室の床に刻まれた魔法陣が光る。
赤い線の先。
そこにある術式を探る。
幻傷判定。
転送。
防護。
結界の中枢を通過し。
さらに奥へ。
「これは……破壊術式?」
『違う』
「では、何を――」
『待て』
遠方の声が強くなる。
『その術式に触れるな』
男の手が止まった。
「ですが、このままでは中枢へ」
『分かっている。だが、こちらから干渉すれば――』
赤い光が、一斉に広がった。
幻傷闘技場の術式図が、赤く染まる。
通信の向こうで、息を呑む音がした。
『まだ早い!』
鋭い声が礼拝室に響いた。
『接続を切れ!』
「遮断します!」
男が両手を術式盤へ叩きつける。
魔法陣が激しく明滅した。
だが。
通信経路は切れない。
赤い光も消えない。
「制御を受け付けません!」
『試合場を閉じろ! 全員を転送させろ!』
「転送術式が応答しません!」
『何だと』
投影盤の中。
広域フィールドを覆う空へ。
一本の黒い線が走った。
◇
最初に気づいたのは、クラリスだった。
空の歪み。
外側から押し開かれたような亀裂。
その向こうにある、何か。
次に。
観客席の魔導投影盤へ、激しい乱れが走った。
映像が揺れる。
音声が途切れる。
実況席にいた教官が立ち上がった。
「何が起きている!」
「幻傷結界の出力が低下しています!」
「全選手を転送しろ!」
「応答がありません!」
セラムが観測術式へ手を伸ばす。
顔色が変わった。
「違う……低下ではありません」
「何?」
「結界の外側から、術式を上書きされています!」
広域フィールド。
エルネが顔を上げる。
リシアも。
カレンも。
ルシアンも。
四人が、同じ空を見た。
青空を横切る、黒い亀裂。
それはゆっくりと伸び。
枝分かれし。
広域フィールド全体へ広がっていく。
「先生……?」
エルネが呟く。
黒い本が震えた。
次の瞬間。
轟音が響いた。
空が。
砕けた。
青白い光の破片が、雨のように降り注ぐ。
幻傷を現実の傷へ変えないための防護術式。
危険な攻撃を受けた選手を、自動的に転送する安全装置。
広域フィールドを覆っていた、そのすべてが。
轟音とともに、破壊されていく。
「いったい、何が――」
誰かの声が。
二度目の轟音に、呑み込まれた。




