第四十九話 蒼炎針架《アズール・クロス》
結界が消えた。
ノアは、その事実をすぐには理解できなかった。
祭壇。
崩れた長椅子。
ひび割れた石床。
欠けた柱。
すべてが、本来の位置へ戻っている。
引き延ばしていた距離も。
ずらしていた方向も。
重ねていた声も。
何一つ残っていない。
礼拝堂にあるすべてが、正しい場所へ収まっていた。
ノア自身も。
祭壇の前。
最初から立っていた場所に、一人で立っている。
正面では、エルネが黒い本を抱き直していた。
「見つけました」
視線が重なる。
見つかった。
ノアの居場所が、ではない。
結界の内側へ隠していた、術式の構造まで。
ノアは足元を見た。
石床には、小さな釦の形をした魔法が残っている。
磁界釦。
聞いたことがない。
見たこともない。
最初は、動かない基準点を作る魔法だと思っていた。
だが、違う。
あれは離れた場所をつなぎ、結界を支えていた四つの要を二組に束ねた。
カレンの炎を。
リシアの水を。
本来なら届かない二か所へ、同時に通した。
そして最後には、結界を構成していた接続そのものを外した。
破壊されたのではない。
強い魔力で押し負けたわけでもない。
ほどかれた。
ノアが時間をかけて組み上げた結界を、留め具でも外すように。
こんな破られ方は知らない。
結界から抜け出されたことならある。
範囲外へ逃げられたことも。
外側から強い魔法を撃ち込まれ、穴を開けられたこともある。
だが、内部から要を見つけられ、術式そのものを解体されたことはなかった。
それも。
たった今、生まれたような魔法で。
「……すごいね」
声が、少し乾いていた。
驚いている。
ノア自身、それを認めるしかなかった。
カレンがエルネの前へ出る。
杖先には、まだ炎が残っていた。
反対側では、リシアの水帯がゆっくりと持ち上がる。
三人。
正面から戦えば、不利だ。
だが、勝ち目がないわけではない。
カレンは結界の中で何度も攻撃を防いでいる。
リシアも、水を礼拝堂全体へ広げ続けていた。
エルネは結界を破るために、見たことのない術式まで使った。
三人とも、魔力と体力を削られている。
ノアも同じだった。
広域結界を失い、残った魔力は多くない。
三対一。
一度に相手をすれば勝てない。
なら。
一度に一人だけを相手にすればいい。
ノアは呼吸を整えた。
広くする必要はない。
礼拝堂全体を包む必要も。
長く維持する必要もない。
一人。
数歩。
数秒。
それだけへ絞れば、まだ使える。
「まだ続けるつもりですか」
カレンが杖を向けた。
「うん」
ノアは笑った。
いつもどおりに見えたかは、自分でも分からない。
「もう少しだけ」
杖を上げる。
カレンが即座に反応した。
整えられた炎が走る。
ノアは身を引きながら、杖先をカレンの足元へ向けた。
狙うのは攻撃ではない。
カレンの周囲。
ほんの数歩分の空間へ、残った魔力を叩き込む。
世界が、わずかにずれた。
「エルネさん!」
カレンが走る。
エルネの前へ戻ろうと、一歩踏み込む。
だが、近づかない。
二歩。
三歩。
確かに前へ進んでいる。
それでも、エルネとの距離は変わらなかった。
狭い。
カレン一人を包むだけの結界。
方向と距離だけを狂わせる。
複雑な偽景も。
重なった声も。
四つの要も必要ない。
前へ進んでいるという感覚だけを与え、同じ場所を走らせる。
「これは……!」
カレンが杖を振るう。
炎が何もない空間を薙いだ。
これで数秒。
十分だ。
リシアの水帯が動く。
床を走った水が、カレンの周囲へ伸びていった。
ノアは杖先を下げる。
水が捉える床面の位置を、わずかにずらした。
水帯はカレンのすぐ脇を通り過ぎ、崩れた長椅子へ叩きつけられる。
リシアの目が細くなった。
すぐに水の流れを修正しようとする。
だが、間に合わない。
ノアは駆け出した。
狙いは一人。
エルネ。
正確には、彼女が抱えている黒い本。
あの本が何なのか。
どこまで考えているのか。
エルネが本を使っているのか。
本がエルネを動かしているのか。
確かめたかった。
結界を破ったのは、少女か。
本か。
それとも。
二つが、もう区別できないほど混ざり始めているのか。
エルネは動かない。
黒い本を抱えたまま、ノアを見ていた。
結界を破るために、かなりの魔力を使ったはずだ。
蒼炎針は危険な魔法だ。
だが、発動には構築が必要になる。
この距離なら。
間に合わない。
「少しだけ、見せて」
ノアは黒い本へ手を伸ばした。
その時。
エルネが俯いた。
唇が小さく動く。
「……先生」
声は、ほとんど聞こえなかった。
誰かへ呼びかけている。
礼拝堂には、ノアたち以外に誰もいない。
それでも、エルネは確かに誰かと話していた。
「……今から、間に合う?」
短い沈黙。
返事をする者はいない。
だが、エルネの眉がわずかに寄った。
「そんなこと言ってる場合じゃないよ……」
また、誰かへ答えている。
黒い本の頁が開いた。
風もないのに、頁が高速でめくれ始める。
一枚。
二枚。
十枚。
文字と術式図が、目で追えない速さで流れていく。
エルネは困ったような顔をしていた。
わずかに怯えてもいる。
どこにでもいる少女の表情。
それを見て、ノアはさらに踏み込んだ。
あと二歩。
手が届く。
その瞬間。
ノアには聞こえない声が、エルネの内側へ響いた。
『蒼炎針・第二段階へ移行します』
エルネが、小さく頷く。
そして。
表情が消えた。
口元の迷いが。
眉の震えが。
黒い瞳の揺れが。
すべて、同時に消えた。
無表情。
ノアの足が止まった。
止まるつもりはなかった。
結界を解いたわけでもない。
それでも、身体が勝手に動きを止めた。
何かが違う。
目の前にいるのは、先ほどまでと同じ少女だ。
黒い本を抱え。
仲間に守られ。
誰かへ相談するように、小さく言葉をこぼしていた少女。
けれど、今は。
ノアを見ていない。
ノアの肩。
両腕。
脚。
背後。
逃げられる方向。
結界を展開できる空間。
そのすべてを、同時に見ている。
黒い本の頁が止まった。
しん、と。
礼拝堂から音が消えたように感じた。
次の瞬間。
ノアの右側へ、蒼い光が灯る。
一つ。
左側にも。
頭上。
足元。
背後。
蒼い光が、次々と増えていく。
細い針ではない。
人の腕ほどもある、巨大な蒼炎の針。
それらがノアを中心に、十字を描くように並んでいった。
右腕の先。
左腕の先。
両脚の外側。
肩。
脇腹。
背後。
逃げ道を塞ぐための配置ではない。
ノアの身体を、一つの場所へ固定するための配置。
見えない架台。
そこへ。
ノア自身を縫い止めるための針。
魔力を集めた気配はなかった。
術式を構築する時間も。
詠唱も。
杖の動きさえもない。
蒼い針が現れた時には、すでに完成していた。
ノアの喉が鳴る。
蒼炎針。
知っている。
着弾した箇所を、内側から燃やす術式。
だが、これは違う。
一本ごとに独立している。
すべてが別の場所を狙いながら。
同じ瞬間に発動しようとしている。
右へ動けば、右腕を。
左へ動けば、左肩を。
後ろへ下がれば、背後の針が待っている。
結界を作る余地もない。
魔力を練る時間も残されていない。
ノアは初めて。
エルネが抱える黒い本から目を逸らした。
目の前の少女を見る。
エルネは無表情のまま、静かに口を開いた。
「蒼炎針架」
蒼い光が消えた。
違う。
消えたのではない。
速すぎて、見えなくなった。
右。
左。
頭上。
足元。
すべての方向から、巨大な蒼炎針が同時に走る。
ノアは結界を張ろうとした。
魔力が形になるより早く。
一本目が、右腕のすぐ脇へ突き立った。
肉体には触れない。
だが、幻傷判定が赤く走る。
二本目。
左肩。
三本目。
脇腹。
両脚。
背後。
次々と蒼い針が空間へ突き立ち、ノアの身体を見えない壁へ縫い止めていく。
動けない。
右腕を上げれば針へ触れる。
足を引けば、別の針が待っている。
身体の周囲を、巨大な蒼炎針が十字に貫いていた。
まるで。
蒼い炎で作られた架台へ、磔にされたように。
カレンを閉じ込めていた狭い結界が崩れた。
もう維持する余裕はない。
リシアの水が礼拝堂を走る。
だが、助けは必要なかった。
勝負は、すでに決まっている。
赤い幻傷印が、ノアの全身へ広がった。
熱はない。
痛みも、本物ではない。
それでも。
怖かった。
結界を破られた時よりも。
見たことのない魔法を使われた時よりも。
今。
小さく誰かへ問いかけていた少女から、突然すべての迷いが消えたことが。
何かが切り替わったように。
人の判断では追いつけない術式を、平然と完成させたことが。
怖い。
ノアは、はっきりとそう思った。
エルネ・フィルが怖いのか。
黒い本が怖いのか。
もう分からない。
『幻傷判定、上限到達』
礼拝堂へ、術式音声が響く。
『聖環学院、ノア選手』
『戦闘継続不能と判定します』
転送光が、足元から昇ってくる。
蒼炎針架に縫い止められたまま、ノアの身体が淡い光へ変わっていく。
最後に見えたのは。
無表情のまま立つ、エルネ。
その腕の中で。
ひとりでに頁を閉じていく、黒い本だった。




