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第四十七話 凍刻界《フローズン・モーメント》

 青白い雷が、地面を走った。


 ジルの姿が消える。


 直後、シオンの背後で空気が破裂した。


 雷をまとった脚が、横薙ぎに振り抜かれる。


 シオンは振り返らない。


 杖をわずかに傾けた。


 足元から薄氷がせり上がり、ジルの蹴りを受け止める。


 氷が砕けた。


 白い破片が弾け飛ぶ。


 ジルはその反動を利用して身をひねり、離れた石畳へ着地した。


 ほとんど同時に、水の弾丸がシオンへ殺到する。


 一発。


 二発。


 三発。


 シオンが半歩ずれるたび、背後の地面が弾けた。


 最後の一発だけが進路を変え、逃げた先へ回り込む。


 シオンは杖先で軽く払った。


 水弾の表面が白く染まる。


 次の瞬間には、丸い氷となって地面へ落ち、乾いた音を立てて砕けた。


「大したものだね」


 シオンが、穏やかに言った。


 驚いた様子はない。


 だが、言葉だけの賞賛でもなかった。


 灰緑の瞳は、ジルの両脚に集まる魔力を静かに追っている。


 ジルは口元を持ち上げた。


「この雷脚、普通よりだいぶ出力高いよ」


 足元で、雷が弾ける。


 青白い光が両脚へ巻きつき、その外側を圧縮された風が覆った。


 靴底の下で石畳が軋む。


「雷と風で身体を強化する。あんたんとこの会長と似たような魔法だけど」


 ジルは、わざとらしく肩をすくめる。


「俺のほうが速い」


「同じですか」


 シオンは小さく首を傾げた。


「似たようなもんだろ」


「そうかな」


 優しい声だった。


 馬鹿にしているようには聞こえない。


 だからこそ、ジルの眉がわずかに動いた。


「試してみる?」


「そのつもりだよ」


「そう」


 シオンは微笑む。


「楽しみにしているよ」


 ジルの雷脚が、さらに強く輝いた。


 風が渦を巻く。


 足元に残っていた薄氷が、放電と風圧だけで粉々に吹き飛んだ。


「ジル」


 後方から、間延びした声が届く。


 ミレイユが傘を肩へ乗せたまま、シオンの周囲を眺めていた。


 地面には水が広がっている。


 先ほど放った水弾。


 砕かれた氷から溶け出した水。


 薄く濡れた石畳。


 戦闘が続くほど、水は増えていた。


 そして、その水が端から凍り始めている。


「このまま遊んでると」


 ミレイユは楽しそうに笑った。


「ぜ~んぶ凍りついちゃいそうだから、本気でいくね」


 傘を持ち上げる。


 柄を軽くひねると、開いた傘の縁から水滴が浮かび上がった。


 一滴。


 二滴。


 やがて数え切れないほどの水滴が、ミレイユの周囲を埋め尽くす。


 地面に残っていた水も持ち上がる。


 砕けた氷の表面から水分が剥がれ、空中を滑って傘へ集まっていく。


「俺に当てんなよ」


 ジルが言った。


「そんなのろまなら、しょうがないかも」


「誰がのろまだ」


「当たらなければいいでしょ?」


「当たるわけないけどさ」


 軽口を交わしながら、二人は互いの位置を見ていなかった。


 見る必要がない。


 ジルがどこを走るのか。


 ミレイユがどこへ水を放つのか。


 事前に相談していたわけでもない。


 それでも、二人の魔力は不思議なほど重なっていた。


 ミレイユが傘を回す。


 一度。


 周囲の水滴が細長く伸びた。


 二度。


 水が湾曲し、月のような刃へ変わる。


 三度。


 幾百もの水刃が、何重もの輪となってシオンを取り囲んだ。


 前後。


 左右。


 頭上。


 足元。


 どこへ動いても、水刃の射線へ入る。


 ただ一か所。


 ジルが駆け抜ける道だけが、正確に開けられていた。


「水天傘舞《アクア・ロンド》」


 傘の表面に、青い魔法陣が広がった。


 空気が水の重みに軋む。


 シオンは周囲を見渡した。


 逃げ道を塞ぐ水刃。


 その隙間で身を沈めるジル。


 ジルの雷脚は、すでに地面へ触れているだけで石畳を焦がしていた。


 二人の本気。


 それを前にして。


 シオンは笑った。


 いつもの、穏やかな笑み。


 けれど、先ほどまでとは少し違う。


 待っていたものが、ようやく揃った。


 そんな笑みだった。


「何がおかしい?」


 ジルが低く尋ねる。


「いや」


 シオンは優しく答えた。


「二人とも、思っていた以上だったから」


「だったら」


 雷が爆ぜる。


「驚かせてやるよ」


 ジルが地面を蹴る。


 同時に、ミレイユが傘を振り下ろした。


 轟音。


 石畳が砕ける。


 青白い雷光が戦場を一直線に貫いた。


 水刃が一斉に放たれる。


 シオンへ殺到する無数の刃。


 そのわずかな隙間を縫い、ジルが駆ける。


 一歩。


 姿が消える。


 二歩。


 音を置き去りにする。


 三歩目には、シオンの死角へ入る。


 そのはずだった。


 ジルの視界の隅で、シオンの唇がわずかに動いた。


 声は聞こえない。


 水刃が空気を裂く音。


 雷脚が地面を蹴り砕く轟音。


 それらにかき消され、何を言ったのか分からなかった。


 ほんの短い言葉。


 魔法の名を告げたようにも見えた。


 だが、今さら何を唱えても遅い。


 ジルはさらに加速する。


 シオンの背後へ回り込み、踏み込む。


 雷をまとった脚を振り上げる。


 あと三歩。


 二歩。


 一歩。


 蹴りの間合いへ――


 入らない。


 ジルはもう一度、地面を蹴った。


 踏み込みは成功している。


 脚には魔力が流れている。


 風も身体を前へ押している。


 景色は後方へ吹き飛び続けていた。


 なのに。


 シオンとの距離が縮まらない。


 もう一歩。


 さらに一歩。


 雷脚の出力を上げる。


 青白い光が視界を埋める。


 それでも、辿り着かない。


 シオンは同じ場所に立ったまま。


 遠くもならず。


 近くもならず。


 同じ大きさで、ジルの前にいる。


 足元へ目を向ける。


 砕けた石。


 細い亀裂。


 その端に転がる、小さな氷片。


 見覚えがあった。


 少し前に踏み越えたものだ。


 だが、次の一歩を踏み出した先にも、同じ亀裂がある。


 さらに先にも。


 同じ石。


 同じ氷片。


 同じ亀裂。


 前へ進んでいるはずなのに、いつまでも同じ場所を踏み続けている。


 ジルは声を上げようとした。


 声が出ない。


 喉が震えない。


 口が動かない。


 それでも、叫ぼうとした言葉だけが頭の中へ響いた。


 何だ、これ。


 その時。


 青いものが、視界の端へ映った。


 水天傘舞《アクア・ロンド》。


 ミレイユの水刃。


 全方向からシオンへ殺到しているはずの無数の刃が、空中で止まっていた。


 進んでいる。


 そう見えていた。


 だが、違う。


 一枚も動いていない。


 水刃の表面を滑る水滴も。


 反射していた光も。


 何一つ変化していない。


 放たれた瞬間の姿のまま。


 世界へ貼りつけられている。


 ミレイユも止まっていた。


 傘を振り下ろした姿勢。


 風になびいた髪。


 薄く開いた唇。


 何も動かない。


 けれど。


 その瞳だけが、ゆっくりとジルを見た。


 目が合う。


 ミレイユも気づいている。


 ジルはそう理解した。


 互いの姿は見えている。


 考えることもできる。


 なのに、言葉を交わせない。


 指一本動かない。


 魔力も流れない。


 雷は脚へまとわりついたまま弾けず。


 風は押し出す形のまま止まり。


 水刃は空中に浮かんだまま、落ちることさえできない。


 動いているのは、意識だけだった。


 ジルは前へ進んでいなかった。


 シオンへ向かって走り続けてもいない。


 走り出そうとした、最後の感覚。


 地面を蹴ろうとした一瞬だけが、何度も意識の中で繰り返されていた。


 ジルの視界へ、白いものが浮かぶ。


 自分の吐息。


 違う。


 息すら吐いていない。


 白く染まっているのは、視界の端そのものだった。


 薄い霜が硝子を覆うように、世界が白く閉ざされていく。


 足元から。


 石畳を伝い。


 雷脚へまとわりつき。


 膝を越え。


 腰へ。


 胸へ。


 冷たさは感じない。


 感じるための神経さえ、すでに動いていなかった。


 視線だけを動かす。


 ミレイユの水刃が、端から白く染まっている。


 透明だった水が青白い氷へ変わる。


 一枚。


 二枚。


 百。


 シオンを囲んでいた全ての水刃が、巨大な氷の輪となった。


 ミレイユの傘にも霜が広がる。


 指先から。


 手首。


 腕。


 その身体まで、静かな氷に包まれていく。


 ミレイユは驚いていなかった。


 少しだけ困ったように、ジルを見ていた。


 いつから。


 ジルの意識に、疑問だけが浮かぶ。


 シオンが笑った時か。


 唇が動いた時か。


 それとも。


 もっと前から。


 答える声はない。


 シオンはもう何も話さなかった。


 ただ、遠くに立っている。


 杖を下ろしたまま。


 優しい笑みを消し、静かに二人を見ていた。


 その背後。


 戦場全体へ、巨大な氷の紋様が浮かび上がる。


 ジルが駆けた軌跡。


 ミレイユが水を放った場所。


 砕かれた氷。


 溶けた水。


 二人の攻撃によって広げられた全てが、一つの術式を描いていた。


 ジルの雷脚が戦場を走るたび。


 ミレイユが水を広げるたび。


 シオンの冷気もまた、二人の魔力へ入り込んでいた。


 本気を出すために魔力を集めた、その瞬間。


 ジルは両脚へ。


 ミレイユは傘と水へ。


 自ら、凍結を身体の奥まで招き入れていた。


 意識だけが残っている。


 肉体の凍結よりも。


 魔力の停止よりも。


 幻傷判定よりも速く。


 思考だけが、凍りつく直前の一瞬へ取り残されている。


 永遠にも感じられる一瞬。


 そこには音もない。


 会話もない。


 ただ。


 シオンが最後に動かした唇だけが、ジルの意識へ焼きついていた。


 何を唱えた。


 何の魔法だった。


 もう一度、その唇の形を思い出そうとする。


 最初の音。


 続く言葉。


 けれど、分からない。


 視界へ亀裂が走る。


 一本。


 もう一本。


 白く凍りついた世界が、硝子のように割れ始めた。


 ジルの雷が砕ける。


 ミレイユの水刃が砕ける。


 風が。


 水が。


 空が。


 石畳が。


 すべてが青白い破片となって崩れていく。


 最後に。


 ジル自身の意識へ亀裂が走った。


     ◇


『幻傷判定、上限到達』


 広域フィールドへ、術式音声が響いた。


『聖環学院、ジル選手』


『聖環学院、ミレイユ選手』


『戦闘継続不能と判定します』


 現実の戦場で。


 ジルは、雷脚を発動して地面を蹴る直前の姿勢で凍っていた。


 ミレイユも、傘を振り下ろす直前で止まっている。


 無数の水刃が、二人を囲む巨大な氷の花となっていた。


 二人が本気の攻撃を放ってから、ほとんど時間は経っていない。


 ジルは一歩も走っていなかった。


 ミレイユの水刃も、一枚として放たれていなかった。


 転送光が、氷の内側へ満ちていく。


 ジルの姿が淡い光へ変わる。


 続いてミレイユも、開いた傘ごと光に包まれた。


 二人の姿が、同時に戦場から消える。


 その瞬間。


 シオンは、ほんの少しだけ微笑んだ。


 誰へ見せるでもない。


 いつもの穏やかな笑みだった。


 主を失った氷へ、細い亀裂が入る。


 無数の破片となって崩れ、地面へ触れる前に白い霧へ変わった。


 戦場には、シオンだけが残される。


 杖を下ろし、二人が消えた場所を静かに見つめていた。


 先ほど。


 二人の攻撃が始まる直前。


 ジルが見た、シオンの唇。


 そこから紡がれていたのは、詠唱ではなかった。


 ただ一つ。


 シオン・レイヴァンが持つ、固有魔法の名。


「凍刻界《フローズン・モーメント》」


 勝負は。


 二人がその名を聞き取るよりも早く、終わっていた。

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