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第四十六話 私は一人じゃない

「私は一人じゃない」


 エルネがそう答えると、ノアは少しだけ目を細めた。


「そうだね」


 声はすぐ近くから聞こえた。


 けれど、見えているノアは祭壇の前にいる。


「じゃあ、どうするのか見せてよ」


 礼拝堂の床に打ち込まれた磁界釦《エーテル・スタッド》から、琥珀色の輪が広がっていく。


 一重。


 二重。


 三重。


 波は石床を走り、柱の根元へ触れ、崩れた長椅子の下へ潜り込んだ。


 リシアが床へ広げた水が震える。


 カレンの炎も、離れた場所で揺れた。


『反応を確認』


 ロゴスの声が、頭の内側へ響く。


『術式の維持に関与する要点を、四か所検出しました』


(四つもあるの?)


『はい』


 磁界釦から広がった波が、四つの場所で引っかかっている。


 一つは祭壇の右。


 一つは崩れた長椅子の下。


 一つは礼拝堂の左奥。


 最後の一つは、床を走る亀裂の先。


 視界はまだ歪んでいた。


 柱は斜めに傾き、祭壇は異様に遠い。


 ノアの姿は何人にも分かれている。


 それでも、磁界釦が拾った四つの反応だけは動かなかった。


(あれを止めれば、この魔法を壊せる?)


『正確には、術式を維持できなくなります』


(じゃあ、一つずつ止めればいいんだね)


『推奨しません』


(違うの?)


『四点は相互に魔力を補完しています。一点を停止させても、残る三点から再接続されます』


(全部、同時に止めないと駄目ってこと?)


『はい』


 こちらにいるのは三人。


 エルネ。


 カレン。


 リシア。


(先生、こっちは三人なんだけど)


『確認済みです』


(確認しただけで終わらないで)


 白い衝撃が、何もない場所から飛んできた。


 カレンの杖が振るわれる。


 礼拝堂の三か所で炎が膨れ上がり、見えない攻撃と衝突した。


 一つ。


 二つ。


 最後の一つが炎を抜ける。


「くっ……!」


「カレン先輩!」


「こちらは大丈夫です!」


 すぐに声が返ってくる。


「エルネさんは、解析を続けてください!」


 声は右から聞こえた。


 だが、カレンの姿は左奥に見えている。


 どちらが本当か分からない。


 それでも、彼女がまだ立っていることだけは分かった。


「カレン先輩、リシアさん!」


 エルネは声を張った。


「この魔法を支えている場所が、四つあります!」


「四つ?」


 リシアの声が返る。


「一つだけ止めても、残りから魔力が戻るみたいです!」


「では、四つを同時に止める必要があるのですね」


「はい。でも、二人からは正しい場所に見えていないかもしれません」


 エルネが祭壇の右を指す。


 けれど、リシアの顔は別の方向を向いていた。


 同じ礼拝堂に立ちながら、三人は違う景色を見せられている。


「私の水を通じて、位置を伝えられますか?」


 床には、リシアの水が広がっている。


 目に見える形ではなく、実際の石床を探るための水だ。


(先生、できる?)


『可能です』


「できます。リシアさんの水へ位置を重ねます」


「分かりました」


「カレン先輩には、示した場所へ戒炎印(ジャッジシール)をお願いします」


「承知しました」


 だが、四つある。


 カレンが一つ。


 リシアが一つ。


 エルネが一つ。


 それでも、一つ足りない。


「私が二つを受け持ちます」


 リシアが言った。


「流麗水帯(アクア・リボン)なら、二方向へ伸ばせます」


「同じ瞬間に当てられますか?」


「保証はできません」


 リシアは迷わず答えた。


「二本を同時に動かすことはできます。ただ、この干渉を受けたまま、完全に合わせるのは難しいでしょう」


「少しでもずれたら、先に止めた場所が戻ります」


「でしたら、成功率は高くありません」


 その間にも、カレンの炎が白い衝撃を受け止める。


 リシアの水帯も持ち上がり、エルネの側面へ水の壁を作った。


「四つだよ」


 ノアの声が、礼拝堂のあちこちから響く。


「一人、足りないね」


 エルネは床へ目を落とした。


 淡い琥珀色の釦。


 小さな円の中に、二つの穴が並んでいる。


(先生)


『はい』


(この固定点って、何を固定してるの?)


『質問の意図が不明です』


(地面に何かを打ち込んだわけじゃないんだよね)


『はい。石床を物理的に拘束しているわけではありません』


(じゃあ、何と何を留めてるの?)


 短い沈黙。


『現実に存在する床面座標と、ノアの術式によって変動する観測座標です』


(……二つの場所を?)


『はい』


 エルネは磁界釦を見つめた。


 この術式は、最初から一つだけを固定していたのではない。


 現実の床。


 歪められた床。


 二つの座標を重ねることで、動かない一点を作っていた。


(だったら、つなぐ相手を変えられない?)


 黒い本の頁に、細い線が走り始める。


『接続対象の変更を提案していますか』


(うん。この四つを、二つずつつなぐ)


 頁の上を無数の線が駆け抜けた。


(この二つを一緒にして、残りの二つも一緒にする)


『現在の固定点を基準に、二組の座標接続を追加するという提案ですね』


(たぶん、それ)


『曖昧です』


(今は察して!)


 白い衝撃が再び飛んだ。


 カレンの炎が割って入り、大きく揺らぐ。


 彼女の腕へ赤い幻傷印が浮かんだ。


「カレン先輩!」


「止めないでください!」


 カレンは退かない。


「まだ防げます!」


(先生、できる?)


『検証中です』


(急いで!)


『演算速度への苦情を受理しました』


(受理してないで急いで!)


『検証を完了』


 床の磁界釦が強く輝いた。


『理論上、可能です』


(本当?)


『はい』


(じゃあ最初から教えてよ!)


『接続対象を変更する必要性が、先ほどまで存在しませんでした』


(今は正しい答えいらない!)


『現在の固定点は維持します』


 床に打ち込まれた磁界釦は、そのまま現実の礼拝堂を示す基準として残る。


『そこから四つの要点へ接続し、二組に束ねます』


 磁界釦の二つの穴から、四本の細い光が伸び始めた。


 二本ずつ。


 互いに寄り添いながら。


「カレン先輩。リシアさん」


 エルネは二人へ呼びかける。


「四つを二つにします」


「二つに?」


 リシアが聞き返す。


「要を二つずつつないで、同じ場所として扱います」


 短い沈黙。


「二点への干渉を、一つにまとめるのですね」


 リシアが理解する。


「はい」


「分かりました。私は何をすれば?」


「片方の接続へ、水を流してください」


「承知しました」


「カレン先輩は、もう片方へ戒炎印をお願いします」


「エルネさん」


 カレンの声が届く。


「そこへ刻めば、二か所を同時に封じられるのですね?」


「はい。そのはずです」


「分かりました」


 カレンはそれ以上問い返さなかった。


「エルネさんを信じます」


「……はい!」


『第一組の接続を開始します』


 床の磁界釦から、二本の琥珀色の線が伸びる。


 一本は祭壇の右へ。


 もう一本は、崩れた長椅子の下へ。


 ノアの術式が位置をずらそうとする。


 祭壇が遠ざかる。


 長椅子がいくつにも増える。


(先生、ずれる!)


『視覚情報を無視してください』


(簡単に言わないで!)


『基準点は動いていません』


 エルネは、目に映る礼拝堂を追うのをやめた。


 見るのは、床にある磁界釦だけ。


 あれが現実だ。


『第一要点、接続』


 一本目が反応を捉える。


『第二要点、接続』


 二本目も固定点へつながった。


 離れていた二つの反応が重なり、一つの鼓動のように脈打つ。


「……何をしたの?」


 ノアの声から、わずかに余裕が消えた。


『第二組の接続を開始します』


 残る二本が伸びる。


 礼拝堂の左奥。


 床の亀裂の先。


 今度は、さらに強い抵抗が返ってきた。


 床が傾く。


 柱が倒れる。


 リシアの水が、天井へ向かって流れ始める。


 全部が、間違っている。


(先生、見えない!)


『見る必要はありません』


(それが難しいの!)


『魔力を細くしてください』


(これくらい?)


『さらに二割低下』


(切れそうなんだけど!)


『切断直前が、最も精密です』


(怖いこと言わないで!)


 エルネは魔力を絞った。


 細く。


 もっと細く。


『第三要点、接続』


 残る一本が激しく揺れる。


 白い衝撃が、エルネへ向かって飛んできた。


「エルネさん!」


 カレンの炎が割って入る。


 爆ぜた熱が頬を撫でた。


「続けてください!」


「でも、カレン先輩が!」


「私は平気です!」


 カレンの声が強く響く。


「今は、ご自分の魔法に集中してください!」


「……はい!」


 エルネは最後の線へ魔力を通した。


『第四要点、接続』


 磁界釦がまばゆく輝く。


 四つの要が、二組へ束ねられた。


 ノアの術式が大きく揺れる。


「そうするんだ」


 ノアの声は、もう笑っていなかった。


「カレン先輩!」


「はい!」


「右側をお願いします!」


 カレンが杖を上げる。


 杖先へ灯ったのは、形の整った静かな炎。


 相手を焼き尽くすためではなく、動きを止めるための火。


「戒炎印《ジャッジ・シール》」


 炎の印が、磁界釦から伸びる一組の接続へ刻まれた。


 その瞬間。


 祭壇の右。


 崩れた長椅子の下。


 離れた二つの要へ、同じ印が浮かび上がる。


 炎は要を焼き壊さない。


 流れ出ようとする魔力を、印の内側へ封じ込めた。


「二か所へ……」


 カレンの声が、わずかに揺れる。


「同時に届いています!」


「リシアさん!」


「はい」


 二本に分かれていた流麗水帯が、一つへ戻る。


「流麗水帯《アクア・リボン》」


 幅広い水帯が、もう一組の接続へ流れ込んだ。


 水はその先で二つに分かれる。


 礼拝堂の左奥。


 床の亀裂の先。


 二つの要へ同時に届き、流れ込んでいた魔力を包んで押し流した。


「本当に……つながっています」


 四つの要が、同じ瞬間に止まる。


 戒炎印に封じられた二点。


 流麗水帯に流れを奪われた二点。


 互いを補おうとした魔力が、行き場を失った。


『四要点の同時停止を確認』


 ロゴスが告げる。


『術式構造が露出します』


 直後。


 礼拝堂の景色が、大きく揺れた。


 空間そのものへ、亀裂が走る。


 一筋。


 二筋。


 それは瞬く間に壁を這い、柱を越え、天井まで広がっていった。


 透明な殻が、内側から割れ始める。


「これは……」


 リシアが息を呑む。


 亀裂の向こう側に、もう一つの礼拝堂が見えていた。


 傾いていない柱。


 引き延ばされていない床。


 本来あるべき位置に立つ祭壇。


 今まで見ていた景色は、現実の上へ重ねられた偽物だった。


 四つの要から、無数の魔力線が浮かび上がる。


 床を走り。


 壁へ伸び。


 柱へ巻きつき。


 礼拝堂全体を、巨大な網のように覆っていく。


 三人の位置をずらし。


 距離を引き延ばし。


 音も、光も、魔力の感覚さえ欺いていた。


 それが、ノアの結界だった。


(先生。あれ、外せる?)


『可能です』


(全部?)


『接続を解除します』


(お願い!)


『了解しました』


 床の磁界釦から、琥珀色の光が噴き上がった。


 光は四本に分かれ、露出した術式を逆流する。


 祭壇の右。


 崩れた長椅子の下。


 礼拝堂の左奥。


 床の亀裂の先。


 四つの要へ到達した瞬間。


 かちり。


 小さな音がした。


 けれど、その音は礼拝堂全体へ響いた。


 一つ目の接続が外れる。


 ばつん、と張り詰めた糸が切れた。


 床が大きく揺れる。


 二つ目。


 壁を覆っていた光の網が弾け飛ぶ。


 砕けた硝子のような光片が宙へ舞った。


 三つ目。


 傾いていた柱が二重にぶれ、本来の柱へ重なる。


 いくつにも分かれていたノアの姿が、大きく歪んだ。


 そして。


 最後の一つ。


 四本目の接続が外れる。


 その瞬間。


 礼拝堂を覆っていた結界が、内側から爆ぜた。


 轟音。


 衝撃。


 光。


 天井まで走っていた亀裂が一斉に開き、歪められた世界が巨大な破片となって崩れ落ちる。


 遠ざかっていた祭壇が砕ける。


 増えていた長椅子が光へ変わる。


 倒れかけていた柱が輪郭を失い、無数の欠片となって舞い上がった。


 床が波打つ。


 壁が折れ曲がる。


 天井が裏返る。


 その全てが現実へ触れる寸前に砕け、白い光の粒となって消えていく。


 リシアの水帯が大きく広がり、三人を衝撃から守る。


 カレンの炎が、その外側を覆った。


 水と炎。


 二つの壁の向こうで、ノアの世界が崩壊していく。


 音の位置が戻る。


 床を踏む感触が戻る。


 熱が。


 水の冷たさが。


 自分の呼吸が。


 一つずつ、正しい場所へ戻ってくる。


 最後に残った巨大な亀裂が、祭壇の前を縦に走った。


 その向こうで、何人ものノアが重なっている。


 一人。


 二人。


 十人。


 全てが光の破片となって砕け、中央へ吸い寄せられていく。


 ばらばらだった輪郭が、一つになる。


 伸ばされていた距離が縮む。


 ずらされていた位置が戻る。


 最後の光片が弾け飛んだ。


 静寂。


 礼拝堂が、本来の姿を取り戻す。


 崩れた長椅子。


 ひび割れた石床。


 欠けた柱。


 そして、祭壇の前。


 そこに、一人だけ立っていた。


 ノア。


 もう姿は増えていない。


 声もずれていない。


 魔力の気配も、目の前にある。


 カレンが杖を構え直す。


 リシアの水帯が、静かにノアを囲む。


 二人は今度こそ、同じ相手を見ていた。


 エルネは床から手を離した。


 磁界釦の光が弱まり、役目を終えたように静かになる。


 白い光片が、雪のように降っていた。


 その一片がノアの肩へ触れ、淡く消える。


 ノアは崩れ去った結界を見上げていた。


 やがて視線を下ろす。


 正面から、エルネを見る。


 エルネも黒い本を抱き直し、その視線を受け止めた。


「見つけました」


 最後の光が弾ける。


 ノアの結界は、跡形もなく消え去った。

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