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第四十四話 磁界釦《エーテル・スタッド》

「お客さんだ」


 ノアが、わずかに目を細めた。


 礼拝堂の床を突き破り、リシアが水とともに現れる。


 青い水帯が宙を舞い、砕けた石片を押し流した。


「リシアさん!」


 エルネは思わず声を上げる。


 だが、リシアの姿が見えるのは祭壇の横。


 声が聞こえたのは、礼拝堂の入口側だった。


「エルネ、聞こえますか」


「聞こえます! でも、見えている場所と声の方向が違います!」


「こちらも同じです」


 リシアはすぐに杖を床へ向けた。


 細い水流が石の上を走る。


 まっすぐ進んでいるように見えた水は、途中で揺らぎ、何もない場所へ吸い込まれるように消えた。


「ここも同じ術式の中ですね」


「ようこそ」


 ノアの声が四方から響いた。


「一人増えたところで、何も変わらないよ」


 祭壇の前に立つ少年の姿が揺れる。


 一人。


 二人。


 三人。


 ノアの姿が、礼拝堂のあちこちへ増えていく。


「見えているものも、聞こえているものも、魔力の気配も」


 複数のノアが、同時に笑った。


「どれも信用できない」


 リシアの水帯が走る。


 三人のノアへ、別々の角度から襲いかかった。


 一人目を貫き。


 二人目の目前で逸れ。


 三人目へ届く前に、床へ叩きつけられる。


「やはり、狙うのは難しいですね」


「僕の魔法は、目だけを騙しているわけじゃないからね」


 ノアの姿がさらに増えた。


「ここでは、君たちが信じたいものを信じればいい」


 礼拝堂の上空に、魔法陣が浮かんだ。


 それが本当に頭上にあるのかは分からない。


 だが、空気が重くなる。


 カレンは魔法陣を見上げなかった。


 敵の位置も、攻撃が来る方向も探さない。


 杖を振り、周囲へ炎を薄く広げた。


 熱を抑えた赤い火の粉が、礼拝堂の空気を漂っていく。


「何をしているの?」


 ノアの声が近くで聞こえた。


 次の瞬間。


 散らばった火の粉の一部が、何かに押しのけられた。


 そこで炎が自動的に膨れ上がる。


 直後、見えない何かが炎へ衝突した。


 火の壁が弾け、礼拝堂へ火の粉が降り注ぐ。


 防ぎ切れなかった衝撃が床を走り、エルネの身体を揺らした。


「カレン先輩、今のは……」


「見えたわけではありません」


 カレンは再び炎を広げる。


「私の炎へ触れたものを、燃やしているだけです」


 攻撃を見つける必要はない。


 周囲へ漂わせた炎が、外から入り込む力へ反応する。


 反応した場所だけを燃え上がらせ、攻撃を受け止める。


 ただし、どこから来るか分からない以上、炎を薄く広く展開しなければならない。


 火力は落ちる。


 衝撃も殺し切れない。


 長く続けられる方法ではなかった。


「エルネ、術式を続けてください」


「でも、カレン先輩が」


「こちらは任せてください」


 赤い火の粉が、再び礼拝堂を満たしていく。


「君が止まれば、私たちはこのままです」


「……はい!」


 エルネは床へ手をついた。


 指先から流した魔力が、石床の奥へ沈んでいく。


『地盤走査を継続します』


(リシアさんの水、使えない?)


『可能です』


 ロゴスの返答は早かった。


『水流を介して、魔力伝達範囲を拡張します』


「リシアさん!」


「聞こえています」


「床に水を広げてください! 細く、礼拝堂全体に!」


「分かりました」


 リシアは理由を聞かなかった。


 杖を振る。


 流麗水帯《アクア・リボン》が細い流れへ分かれ、礼拝堂の床を這っていく。


 石の割れ目。


 崩れた柱の根元。


 祭壇の下。


 床下へ続く亀裂。


 水は小さな隙間を探りながら、礼拝堂全体へ伸びていった。


 エルネの魔力が、その流れへ触れる。


 水の中を、琥珀色の光が走った。


『走査範囲を拡張』


 黒い本の上に、礼拝堂の形が浮かび上がる。


 壁。


 柱。


 祭壇。


 床下の空洞。


 だが、その形はすぐに歪み、崩れていく。


(まだ駄目?)


『基準となる固定点が必要です』


(固定点……)


 どれほど景色が歪んでも。


 距離が変わって見えても。


 ここだけは、本当にここにある。


 そんな場所が必要だった。


『地面への反作用を検知』


 床の奥で、小さな振動が起きた。


 誰かが踏み込んだ。


 ノアかもしれない。


 別の誰かかもしれない。


 見分ける必要はない。


 その場所で、実際に地面が踏まれた。


 それだけでいい。


『発生地点を捕捉』


 黒い本の上へ、小さな円が浮かんだ。


 中心に二つの穴を持つ、釦のような形。


 エルネは息を整える。


 ノアの姿は、礼拝堂のあちこちにある。


 どれが本物かは分からない。


 それでも。


 この術式が見ているのは、ノアではない。


 地面に残った事実だ。


 礼拝堂を漂う火の粉が、再び大きく乱れた。


 今度は一か所ではない。


 離れた三か所で、同時に炎が膨れ上がる。


 カレンが杖を握り締めた。


 三つの炎が壁となって燃え上がり、見えない攻撃と衝突する。


 一つ。


 二つ。


 最後の一つが炎を突き抜けた。


 圧力が礼拝堂を走る。


「くっ……!」


 カレンの声が漏れた。


「カレン先輩!」


「止めないでください!」


 即座に声が返ってくる。


「まだ防げます!」


 言葉とは裏腹に、礼拝堂を満たす火の粉は少なくなっていた。


 攻撃を防ぐたびに炎が削られている。


 もう時間は残されていない。


『構築進行率、九十七パーセント』


(あと少し……!)


 エルネは黒い本へ魔力を注ぎ込んだ。


 琥珀色の円が、ゆっくりと形を整えていく。


「まだ何かするつもり?」


 ノアの声が近くで聞こえた。


 姿は遠い。


 次の瞬間、床が大きく傾いた。


 そう見えただけなのか。


 本当に揺れたのか。


 エルネには分からない。


 身体がふらつく。


 黒い本を抱える腕にも力が入りにくい。


 リシアの水が、さらに広がった。


「水の流れは維持します。必要なだけ使ってください」


「ありがとうございます!」


 カレンが守る。


 リシアが道を作る。


 ならば、エルネがやることは一つだった。


 歪められたすべてを壊すのではない。


 その揺らぎを。


 魔力の流れを。


 術式そのものを。


 この場所へ留める。


 エルネは黒い本を強く抱きしめた。


 そして、無数に見えるノアへ向かって言った。


「あなたの魔法、私が留めてみせる」


 黒い本の上で、釦の形が完成した。


『お待たせしました、エルネ』


 琥珀色の光が、礼拝堂の床へ集まる。


「磁界釦《エーテル・スタッド》!」


 かちり。


 何かが噛み合う、小さな音がした。


 礼拝堂の床へ、一つの円環が刻まれる。


 円環の中心から、短い魔力の杭が床の奥へ沈み込んだ。


『固定点を取得しました』


 その瞬間。


 礼拝堂の揺らぎが、わずかに弱まった。


 エルネの視界に映るカレンの姿と、その声の方向が一瞬だけ重なる。


 リシアの水も、本来の流れを取り戻した。


 ほんの一瞬。


 だが、確かだった。


「今……」


 リシアが目を細める。


「位置が合いました」


 ノアの笑みが消えた。


「それは、何?」


 エルネは答えなかった。


 固定点に打ち込まれた釦が、淡く光る。


 そこから、琥珀色の輪が広がった。


 一重。


 少し遅れて、二重。


 さらに遠くへ、三重。


 波は礼拝堂の床を走り、柱の根元へ触れ、祭壇の下へ潜り込む。


 壁の奥。


 床下。


 礎石。


 礼拝堂につながるすべての場所へ、留める力が広がっていく。


 波が通過した場所だけ。


 揺れ続けていた魔力の流れが、一瞬止まった。


 歪んでいた光景も。


 ばらばらだった距離も。


 空間を満たす魔力の線も。


 その瞬間だけ、形を保つ。


『術式構造を捕捉』


 黒い本の上へ、複数の線が浮かんだ。


 礼拝堂の各所を巡り。


 折り返し。


 互いにつながり合う、ノアの魔力。


 固定波が進むたび、魔力の流れが一瞬ずつ露出する。


 だが。


 いくつかの場所で、琥珀色の波が乱れた。


 留めようとする力に逆らい。


 波を押し返し。


 魔力を強く循環させる場所。


『固定波への抵抗を検出』


 黒い本の上に、光点が浮かぶ。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 そして、四つ。


(あれは?)


『領域を維持する要点と推定します』


 ノアの術式は、一つの魔法陣だけで動いているのではなかった。


 複数の要が魔力を循環させ。


 互いを支え合いながら、領域を維持している。


「見つけたんだ」


 ノアの声が低くなる。


 礼拝堂の空気が大きく揺れた。


 距離が再び引き伸ばされる。


 カレンの炎が遠ざかり。


 リシアの水が逆方向へ流れて見える。


 だが、床に打ち込まれた磁界釦は動かない。


 光が歪んでも。


 見える位置が変わっても。


 固定点そのものは、そこにあり続ける。


『固定点を維持』


 そこから波を広げれば、ノアの術式を再び留めることができる。


 長くは続かない。


 それでも。


 止まった瞬間なら、要へ攻撃を届かせられる。


(この四つを壊せばいいの?)


『単一箇所への攻撃では解除できません』


(どうして?)


『要点が相互に補完しています』


 一つを壊せば、残る三つが流れを組み直す。


 二つを崩しても、残る要が術式をつなぎ直す。


(じゃあ、どうすれば)


『全要点への同時干渉が必要です』


 黒い本の上で、四つの光が同時に明滅した。


 エルネは顔を上げる。


 礼拝堂のあちこちに、ノアの姿が浮かんでいる。


 そのすべてが笑っていた。


「ふうん。分かったところで」


 ノアの声が重なる。


「同時に全部壊せるのかな?」


 一人では無理だ。


 エーテル・スタッドを維持し。


 固定波を広げ。


 さらに、四つの要へ同時に攻撃する。


 エルネ一人にはできない。


 けれど。


「できます」


 エルネは答えた。


 見えている位置は、まだ信用できない。


 それでも。


 カレンの炎は近くで燃えている。


 リシアの水も、礼拝堂の床を流れている。


「私は一人じゃない」


 ノアの笑みが、初めてわずかに揺れた。

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