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第四十三話 水は迷路を信じない

「ガイウス先輩」


 声は、すぐ近くから聞こえた。


 だが、リシアの目に映るガイウスは、通路のずっと先に立っている。


「聞こえている」


 返事は背後から届いた。


 リシアは振り返らなかった。


 振り返ったところで、そこにガイウスがいるとは限らない。


 目の前には、薄暗い地下通路が続いている。


 湿った石壁。


 低い天井。


 床に積もった土と瓦礫。


 砦跡で罠にかかり、地下へ落とされた。


 そこまでは間違いない。


 だが、その後から何かがおかしかった。


 曲がったはずの角を曲がれていない。


 進んだはずなのに、同じ場所へ戻っている。


 近くから聞こえる声の主が、遠くに見える。


 見えている壁へ手を伸ばしても、何も触れないことすらあった。


「閉じ込められているだけではありませんね」


「ああ」


 今度は右側から、ガイウスの声が聞こえた。


「距離も方向も、まともに掴めない」


 リシアは杖の先から少量の水を流した。


 水は床の傾斜に沿って進む。


 そう見えた。


 だが、魔力を通して感じる流れは、まったく別の方向へ伸びている。


 目には正面へ進んでいるように映る水が、リシアの感覚では左へ曲がり、床の亀裂へ染み込んでいた。


「水の流れと、見えている地形が一致しません」


「俺もだ。目の前は石壁に見えるが、触っているのは土だ」


 ガイウスの姿が壁へ手を当てている。


 しかし、声は反対側から聞こえた。


「感覚を狂わせる術式……」


「それも、かなり広い範囲にかかってるな」


 地下へ落とした罠だけではない。


 別の術式が、この一帯を覆っている。


 リシアは周囲へ水帯を伸ばした。


 細い帯が壁沿いに走り、通路の奥へ消えていく。


 まずは出口を探す。


 そう考えた直後だった。


 前方の石壁が音を立ててせり出した。


 水帯が押し潰される。


「下がれ!」


 ガイウスの声と同時に、土の壁がリシアの前へ立ち上がった。


 迫ってきた石壁を受け止める。


 重い衝突音が地下に響いた。


 だが、その音すら左右から重なって聞こえた。


「今のは、さっきの術式とは違いますね」


「ああ。こっちは俺たちの動きを見てから反応した」


 ガイウスが石壁を押し返す。


 土と石が擦れ合い、通路へ粉塵が舞った。


「誰かが、外から罠を動かしています」


「らしいな」


 二人は別の方向を試した。


 ガイウスが壁を崩し、通路を作る。


 その先へリシアが水を流す。


 直後、天井から瓦礫が落ちて道を塞いだ。


 別の壁を壊せば、床がせり上がった。


 上を目指せば、周囲の柱が倒れ込んでくる。


 リシアの水帯が瓦礫を払い、ガイウスが崩落を支える。


 だが、進むたびに新しい妨害が現れた。


 どれほど歩いたのか。


 そもそも、本当に歩けているのか。


 それすら分からなくなる。


「また同じ場所でしょうか」


 リシアの前には、先ほど崩したはずの石壁があった。


「さあな」


 ガイウスが壁を軽く叩く。


「同じに見せられてるだけかもしれん」


 リシアは足元へ視線を落とした。


 感覚を狂わせる術式は、途切れることなく働いている。


 だが、壁や床を動かす妨害は、二人が進もうとした時だけ発生する。


「私たちを惑わせている術者と、閉じ込めている術者は別にいるのでしょうか」


「少なくとも、同じ術式には見えないな」


 ガイウスは足元の瓦礫を蹴った。


 石が前へ転がったように見えた。


 音は背後から聞こえた。


「見えるものは使えない。音も駄目。魔力の方向も怪しい」


「はい」


「だが、確かなことはある」


 ガイウスが笑った。


「敵は、俺たちをここから出したくない」


 壊そうとした壁は塞がれた。


 進もうとした通路は潰された。


 どの道が正しいかは分からない。


 だが、敵が二人の移動を妨害していることだけは間違いない。


「あるいは、近づけたくない場所がある」


「ああ。だったら――」


「敵に教えてもらえばいい」


 リシアが続けると、ガイウスは満足そうに頷いた。


「話が早くて助かる」


 リシアは杖を床へ向けた。


 流麗水帯《アクア・リボン》を広げる。


 先ほどまでとは違い、目で道を探すためではない。


 帯状の水が床を覆い、石の隙間へ入り込む。


 細い亀裂。


 崩れた床の下。


 埋もれた通路。


 地下深くへ続く空洞。


 水そのものに魔力を通し、その流れだけを知覚する。


「覚えてるか?」


 ガイウスが言った。


「人は迷う。でも――」


「水は迷わない」


 水は低い方へ流れる。


 道を塞がれれば隙間を探す。


 曲げられても、分かれても、流れることをやめない。


 見えている方向は信用できない。


 だが、水が実際に通った場所は分かる。


 リシアは目を閉じた。


 水帯が地下を進んでいく。


 いくつもの亀裂へ分かれ、その一部がさらに深い場所へ落ちる。


 そこから、古い水路を伝う。


 やがて、複数の流れが一つの場所へ集まり始めた。


 地上から染み込んだ雨水。


 砦跡の地下を通る細い水脈。


 崩れた建物の基礎を伝う湿気。


 すべてが、同じ方角へ伸びている。


「見つけました」


「出口か?」


「いいえ」


 リシアは目を開けた。


 見えている通路とは、まったく違う方向へ杖を向ける。


「礼拝堂の地下へ続いています」


     ◇


 クラリスは、砦跡の一室で術式盤を見つめていた。


 盤上には、地下を示す細い線が幾重にも重なっている。


 その中央で、青い光が動いた。


 迷路の形に沿わず。


 偽りの出口にも向かわず。


 地下の亀裂を伝い、礼拝堂へ近づいていく。


「まずい。そちらは――」


 誰に聞かせるでもなく呟き、クラリスは術式盤へ手を伸ばした。


 地下へ張り巡らせた魔力が、一斉に動き出す。


     ◇


「来るぞ」


 ガイウスが顔を上げた。


 敵の魔力が大きく揺れた。


 それが右から来るのか。


 左から来るのか。


 どの壁に働くのか。


 感覚を狂わされたガイウスには分からない。


 だが、そんなことはどうでもよかった。


 リシアが礼拝堂へ向かおうとした。


 その直後に、敵の魔力が動いた。


 それだけで答えは出ていた。


「リシア、そのまま進め!」


 ガイウスは床へ両手を叩きつけた。


 魔力が土と石へ流れ込む。


 直後、地下全体が激しく軋んだ。


 壁が動いたのか。


 天井が崩れたのか。


 それとも床が隆起したのか。


 分からない。


 ガイウスは周囲一帯の石と土をまとめて固めた。


 通路の形を保ち、崩れようとする箇所を押さえ込む。


「ガイウス先輩!」


「合ってる!」


 ガイウスは歯を食いしばった。


 両腕へ、巨大な重さがのしかかる。


「あいつが止めようとした! つまり、そっちで正解だ!」


「ですが、このままでは先輩が――」


「二人で止まるよりましだ!」


 ガイウスがさらに魔力を注ぎ込む。


 土が盛り上がり、崩れる天井を支える。


 石壁に亀裂が走る。


 その亀裂を別の岩が埋め、強引に形を保った。


「俺が手を離せば、道ごと潰される」


 ガイウスは床から手を離せない。


 敵の妨害を防ぎながら、自分まで移動するのは不可能だった。


「水は迷わないんだろ」


 ガイウスが笑う。


「だったら、お前だけでも行け」


 リシアは唇を結んだ。


 ここで迷えば、ガイウスが作った時間を無駄にする。


「必ず戻ります」


「戻ってくる頃には、俺も外へ出てる」


「それは――」


「いいから行け!」


 地下が再び揺れた。


 ガイウスの腕が沈み、床へ細かな亀裂が走る。


 リシアは杖を握り直した。


「分かりました」


 短く答え、水帯へ足を乗せる。


「ガイウス先輩。少しだけ、お願いします」


「任せろ」


 水帯が勢いよく通路の奥へ伸びた。


 リシアは見えている道を捨てた。


 水が流れる方向へ走る。


 壁に見える場所を抜ける。


 何もないように見えた段差を飛び越える。


 背後で石が砕けた。


 ガイウスの魔力が大きく揺れる。


 それでも、リシアは足を止めない。


 水は細い亀裂を通り、古い地下水路へ流れ込んだ。


 リシアは水帯で瓦礫を押し流す。


 塞がれた通路をこじ開け、その奥へ身体を滑り込ませた。


 敵の妨害が追いかけてくる。


 壁が迫る。


 床が崩れる。


 だが、わずかに遅い。


 ガイウスが術式の動きを食い止めている。


 水の流れが上向きに変わった。


 礼拝堂の床下。


 崩れた礎石の隙間へ、細い光が差し込んでいる。


 リシアは水帯を一つに束ねた。


「流麗水帯《アクア・リボン》」


 水流が天井へ突き上がる。


 礎石の隙間を押し広げ、床を貫いた。


 リシアはその流れに乗り、一気に地上へ飛び出す。


 視界が開けた。


 崩れた柱。


 割れた祭壇。


 天井から差し込む、白い光。


 礼拝堂。


 リシアは水をまとったまま、床へ降り立った。


 少し離れた場所に、エルネとカレンの姿が見える。


 だが、その位置が正しいとは限らない。


 そして、祭壇の前に立っていた少年が、ゆっくりと振り返った。


「おや」


 ノアが、わずかに目を細める。


「お客さんだ」

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