第四十二話 当てなければいいんです
『敵を狙うという前提を破棄します』
ロゴスの声だけが、変わらずエルネの内側へ届いた。
近くて。
静かで。
方向のない声。
ノアの領域に入ってから、信用できるものはほとんどなくなった。
見えている位置はずれる。
音は違う場所から届く。
近いものが遠く、遠いものが近く感じられる。
敵へ放った蒼炎針は、カレンをかすめた。
カレンがエルネを守るために放った炎も、エルネへ向かってきた。
けれど、ロゴスの声だけは変わらない。
(敵を狙わないって、どういうこと?)
『敵の位置、距離、移動方向を、あなたが判断する方式を廃止します』
(全部じゃない)
『はい』
(それで、どうやって当てるの?)
『当てません』
(戦う気ある!?)
『あります』
ロゴスは平然と答えた。
エルネは黒い本を抱えたまま、ゆっくりと息を吐く。
少し離れた場所に、カレンの姿が見えている。
近い。
たぶん。
見えている距離が正しい保証はない。
「エルネ、聞こえますか」
「はい!」
カレンの声は左から聞こえた。
姿があるのは右だった。
エルネは声の方へ顔を向けそうになり、途中で止める。
「聞こえています。でも、先輩のいる場所と声の方向が合っていません」
「こちらも同じです。下手に動かないでください」
「はい」
「何か考えている顔ですね」
「分かります?」
「君は追い詰められると、その本を睨みますから」
「そんな癖が」
『以前から確認しています』
(先生まで知ってたの!?)
『記録済みです』
少しだけ、いつもの調子が戻った。
怖さは消えていない。
魔力も削られている。
立っているだけで、身体の奥が少しずつ重くなっていく。
それでも、ロゴスが対抗手段を口にした。
なら、まだ終わっていない。
『ジル・レイフォードとの交戦時に構築した術式を基礎とします』
(あの、地面を留めたやつ?)
『はい。問題は、あなたが相手の位置を見定めなければならないことです』
(今は何も信用できないものね)
『そのため、敵を探す工程を省きます』
黒い本のページに、淡い琥珀色の線が浮かんだ。
線は小さな円を描く。
中心には二つの穴。
(……釦?)
『形状としては近似しています』
(これで、どうするの?)
『地面に残る反応を拾います』
(反応?)
『踏み込み、着地、移動。それらは地面へ必ず伝わります』
光や音は歪められる。
見えている位置も信用できない。
けれど、誰かが地面を踏んだ事実までは消えない。
(そこに反応するようにするのね)
『はい。条件を満たした地点にのみ、術式を発生させます』
(でも、カレン先輩まで巻き込まない?)
『カレン・ヴァーミリオンの魔力波形を除外します』
(それで大丈夫?)
『理論上は』
(そこは断言して!)
『不確実な断定は推奨しません』
(今、一番聞きたくないやつ!)
琥珀色の線が、ページの途中で止まった。
『領域内の地盤情報が不足しています』
(どうすればいい?)
『あなたの魔力を、直接地面へ通してください』
(また私がやるのね)
『あなたにしかできません』
(……そう言われると、断りにくい)
エルネはしゃがみ、地面へ手を触れた。
視界では石畳に見える。
だが、指先に触れたのは湿った土だった。
エルネは目を閉じ、細く魔力を流す。
見る必要はない。
聞く必要もない。
魔力が触れた場所だけを、ロゴスが拾っていく。
『地盤走査を開始します』
琥珀色の線が、地面の奥へ沈んだ。
◇
水の刃が、旧街道の石壁へ突き刺さった。
石片が弾ける。
その直前までそこにいたルシアン・ベルフォードは、足を止めることなく身体を横へ流していた。
「また避けた」
背後から追うミレイユが、開いた傘をくるりと回す。
傘の縁から水滴が飛び散った。
粒は空中で細長く変形し、何本もの水針となってルシアンの背中を追う。
ルシアンは振り返らない。
指先を軽く動かす。
周囲の光が屈折し、走る彼の姿が左右へ分かれた。
水針は二つの残像を貫き、街道へ次々と突き刺さる。
本物のルシアンは、その間を抜けるように前へ進んでいた。
「あなた、本当に戦う気がないんだね」
「目的地が別にありますので」
「私は、あなたと戦っているんだけど」
「承知しています」
「承知していて無視するんだ」
ミレイユは怒るでもなく、楽しそうに笑った。
傘を横薙ぎに振る。
街道脇の水溜まりが一斉に浮かび上がり、ルシアンの前方で水の幕を作った。
ルシアンは速度を落とさない。
直前で像をずらし、幕の薄い箇所をすり抜ける。
濡れたのは外套の裾だけだった。
「あと少しだったのに」
「惜しかったですね」
「そういうところ、嫌いじゃないよ」
ルシアンは答えず、走りながら観戦用術式へ光を重ねた。
礼拝堂付近の像が、視界の端へ一瞬だけ浮かび上がる。
崩れた柱。
不自然に伸びる影。
正しい位置へ結ばれない人影。
領域に歪められた映像の中で。
地面に近い、ごく小さな範囲だけが、一瞬静止した。
揺れていた輪郭が、何かに留められたように。
次の瞬間には、再び歪みの中へ沈む。
ルシアンの目が、わずかに細くなった。
「よそ見?」
頭上から水の輪が落ちてくる。
ルシアンは光を屈折させ、輪の外へ滑るように抜ける。
「何かを始めましたね」
「誰が?」
ルシアンは答えなかった。
礼拝堂へ向かう足を、わずかに速める。
「待ってよ」
ミレイユの傘から、二本の水流が放たれた。
水流は街道の左右へ回り込み、挟み込むようにルシアンへ迫る。
彼が次の術式を組もうとした、その時だった。
前方から二つの気配が近づいてくる。
一つは、冷たく静かな魔力。
もう一つは、風と放電をまとった騒がしい魔力。
「お?」
崩れた石段の向こうから、ジル・レイフォードが姿を現した。
その後ろを、シオン・レイヴァンが歩いている。
ジルは、こちらへ走ってくるルシアンと、その背後から水流を放つミレイユを見比べた。
すぐに楽しそうな笑みを浮かべる。
「何その楽しそうな状況。俺も混ぜろよ」
指先で、小さな放電が弾けた。
「ちょうど二人ずつじゃん。これ、もうやる流れだろ」
本人の中では、すでに戦いが始まることになっているらしい。
ルシアンは迫る水流の間を抜け、そのままシオンたちの目前まで走り込んだ。
ミレイユも傘を開いたまま、少し遅れて足を止める。
シオンの灰緑の瞳が、ルシアンを捉えた。
味方との合流を急ぐことなく、聖環側の生徒に追われながら移動している。
しかも進行方向は、中央の砦跡ではなく礼拝堂側。
不自然な点はいくつもあった。
だが、シオンが何かを言うより早く。
ルシアンはミレイユのすぐ脇を通り過ぎながら、低く囁いた。
「あなたが戦いたかったのは、彼では?」
ミレイユの瞳が、わずかに動く。
次の瞬間。
ルシアンの輪郭が揺らいだ。
周囲の景色が屈折し、彼の像だけがその場へ残る。
「お?」
ジルが目を瞬かせた。
残像が薄い光の粒となって砕ける。
そこに、ルシアンはいなかった。
「あっ、逃げた」
ジルは礼拝堂へ続く道を見た。
次いで、面白そうに笑う。
「二対二になると思ったのに。ノリ悪いな、あいつ」
追いかける様子はない。
目の前にはシオンがいる。
戦う相手としては、十分すぎた。
「まあ、いいか」
ジルは肩を軽く回す。
「一人減ったなら、俺がその分やればいいし」
だが、ミレイユはすぐには構えなかった。
先ほどのルシアンの言葉を、頭の中でもう一度繰り返す。
あなたが戦いたかったのは、彼では?
自分がシオンと戦いたがっていることを話したのは、聖環側の作戦室だけだった。
そしてルシアンは、味方との合流を急がず、礼拝堂の様子ばかりを探っていた。
「ふーん」
ミレイユは、ルシアンが消えた方向を眺めた。
「そういうこと」
「何が?」
ジルが首を傾げる。
「教えろよ。俺だけ仲間外れみたいじゃん」
「たぶん、仲間外れだよ」
「マジかよ。傷つくわ」
まったく傷ついていない顔で、ジルは笑った。
「まあ、いいか」
ミレイユは傘を肩から下ろし、その先端をシオンへ向ける。
「あなたと戦いたかったのは、本当だし」
「お、やる?」
ジルの顔が明るくなる。
風と放電が、彼の足元で軽やかに弾けた。
「じゃあ二人で副会長を倒そうぜ。急に団体戦っぽくなってきたな」
「邪魔しないなら、いいよ」
「だから共闘だって。もうちょい仲間っぽく言えよ」
シオンは、ルシアンが消えた方向へ目を向けた。
この二人を倒してから、礼拝堂へ向かう。
それで間に合うかは分からない。
だが、いまからルシアンを追えば、目の前の二人まで連れていくことになる。
シオンは、してやられたと認めるように小さく笑った。
「仕方ないね。まずは、ここを片づけようか」
旧街道の石畳へ、薄い氷が走った。
シオンを中心として、白い冷気が地面を覆っていく。
ミレイユの傘の周囲には水滴が浮かび、ジルの身体には細い放電がまとわりつく。
その三人から遠ざかるように。
光で姿を隠したルシアンは、礼拝堂へ向かっていた。
先ほど、観戦用術式の中で起きた変化。
そして、ノアの領域の内側で始まった何か。
それを確かめるために。




