第三十九話 傘を差す追跡者
西側高所に、水の雨が降った。
ただし、それは空から落ちる雨ではない。
ミレイユ・アージェントの傘から弾けた雨だった。
淡い布を広げた傘が、くるりと回る。
その内側を滑った水膜が、骨を伝い、縁へ集まり、細い水滴となって飛び散る。
水滴、というには速すぎた。
雨粒、というには重すぎた。
ひとつひとつが圧を持ち、石壁に小さな穴を穿つ。
ルシアン・ベルフォードは、その雨の中を半歩だけ動いた。
右へ。
左へ。
時には、動かない。
水滴が外套の端をかすめ、背後の石壁を削る。
しかし、ルシアンの表情は変わらない。
無表情に近い、静かな顔のままだった。
「ねえ」
ミレイユは傘を肩に乗せ、にこにこと笑う。
「今の、もう一回やって」
「何をでしょうか」
「避け方」
「申し訳ありません」
ルシアンは丁寧に答えた。
「見世物ではありませんので」
「えー。けち」
ミレイユは不満そうに言った。
だが、本当に不満そうというより、楽しそうだった。
傘をもう一度回す。
水膜が輪になり、縁から細かな水滴が弾ける。
「じゃあ、次はいっぱい行くね」
「ご自由に」
「避けてね」
「ご忠告、ありがとうございます」
次の瞬間、傘の縁から水滴の群れが放たれた。
広く散る。
避ける場所を削るような雨。
ルシアンは、やはり大きく動かない。
外壁の上を歩くように、ほんのわずかに位置を変える。
水滴の一部が目前に迫った瞬間、空気が小さく揺れた。
じゅ、と細い音。
水滴が蒸気に変わる。
すべてを焼き払ったわけではない。
避ける必要のないものは避けず、触れる必要のあるものだけを熱でずらす。
それだけだった。
ミレイユの目が、嬉しそうに細くなる。
「すごいね」
「大したことではありません」
「ううん。大したことだよ。普通、そんな避け方しないもん」
「普通ではない相手に言われると、判断に困りますね」
「あ、それ褒めてる?」
「解釈はお任せします」
水滴が飛ぶ。
蒸気が上がる。
傘が回る。
その攻防は、見る者が見れば高度だった。
だが、ミレイユは途中でふと首をかしげた。
「ねえ」
「はい」
「あなた、私のこと見てる?」
「見ています」
「ほんと?」
「必要な範囲では」
「それ、けっこう失礼だよ」
「申し訳ありません」
謝罪は丁寧だった。
だが、反省しているようには見えなかった。
ミレイユは唇を尖らせる。
それから、すぐに笑った。
「じゃあ、もっと見てもらおうかな」
傘が半ば閉じる。
開ききった円ではなく、細い扇のような形になった。
水膜が縁へ広がらない。
骨の一本に沿って集まる。
細く。
鋭く。
先ほどまでの散る雨とは違う。
一本の水線が、傘の先端から放たれた。
石壁を削る水滴ではない。
貫くための水。
ルシアンは初めて、外壁の上で一歩下がった。
水線が彼のいた場所を通り抜け、背後の崩れた柱にまっすぐな傷を刻む。
「なるほど」
ルシアンはその傷を見る。
「散らすだけではないのですね」
「うん」
ミレイユは嬉しそうに頷く。
「こっちの方が痛いよ」
「当たりたくはありませんね」
「当たってくれてもいいんだけど」
「遠慮します」
ルシアンはそう言いながら、また半歩動いた。
ミレイユの水線が追う。
その軌道を、ルシアンはぎりぎりで外す。
だが、その足取りには違和感があった。
ただ逃げているのではない。
ただ避けているのでもない。
外壁の端。
崩れた柱の影。
観戦用の魔力線が通る節点。
ルシアンは、そこへ少しずつ近づいている。
ミレイユはそれに気づいた。
「やっぱり」
傘を回しながら、彼女は笑う。
「避けてるんじゃなくて、何か探してる?」
「避けています」
「それだけ?」
「ついでに、探してもいます」
「器用だね」
「便利ではあります」
ルシアンは無表情のまま答えた。
ミレイユの水滴が、再び広がる。
ルシアンはそのうち数粒だけを、光熱で蒸気に変えた。
白い蒸気が空中に薄く広がる。
西側高所に差し込む光が、その蒸気を照らした。
その一瞬。
空中に、細い線が浮かび上がる。
蜘蛛の糸のように細く。
だが、自然のものではない。
観戦席へ映像と魔力反応を送るため、フィールド全域に張られている観戦用の術式線。
通常、選手には見えない。
触れられない。
利用できない。
だが、光の反射と蒸気の揺らぎを通せば、ほんの一瞬だけ輪郭が出る。
ルシアンはそれを見ていた。
戦場ではなく。
水滴でもなく。
その奥を流れる、観測魔力の流れを。
礼拝堂方面の観測魔力が、沈んでいる。
外へ流れていたはずの反応が、内側へ落ちている。
映すための術式が、映したい場所を見失いかけている。
ただの戦闘ではない。
場そのものが閉じた。
ルシアンは目を細めた。
感情は出ない。
だが、判断は決まった。
「申し訳ありません」
ルシアンはミレイユへ向き直る。
「少し、移動します」
「え」
ミレイユはぱちぱちと瞬きをした。
「今?」
「はい」
「勝負の途中だよ?」
「承知しています」
「承知してるのに行くの?」
「はい」
ミレイユは数秒だけ黙った。
それから、ふっと笑う。
「それ、かなり失礼だよね」
「否定はしません」
「否定しないんだ」
「事実ですので」
「どこ行くの?」
「別件です」
「教えてくれないんだ」
「はい」
「うわ。ほんとに失礼」
「申し訳ありません」
謝罪は丁寧だった。
だが、足はもう動いていた。
ルシアンの進路は、一見すると中央砦跡へ向いていた。
ミレイユもすぐに動く。
閉じた傘を杖のように持ち、軽い足取りで後を追う。
「逃げるの?」
「移動です」
「逃げる人、だいたいそう言うよ」
「言葉の選択は大切です」
ルシアンは足を止めない。
外壁を降り、崩れた石段を抜け、砦へ続く旧道へ出る。
その途中で、彼の視線が一度だけ地面へ落ちた。
石畳の隙間。
壁に貼られた札の気配。
不自然に薄い魔力。
誘導。
「なるほど。巧みだ」
ルシアンの足が、静かに角度を変えた。
中央砦跡へ向かう道を外れる。
礼拝堂跡へ続く、崩れた外周路へ。
ミレイユは、その進路変更を見て首をかしげた。
「あれ、砦じゃないの?」
「ええ」
「どこ行くの?」
「別件です」
「別件、多いね」
「増えました」
「あなた、けっこうひどいね」
「自覚はありません」
「なおさらひどいよ」
ミレイユは笑いながら、傘をぱさりと開いた。
追う気だ。
完全に。
ルシアンはそれを見て、ほんのわずかに息を吐く。
「本当に来るのですか」
「行くよ」
「理由を聞いても?」
「教えてくれないものって、気になるでしょ」
「好奇心ですか」
「うん。あと、途中でやめられると気になる」
「お気持ちは分かりました」
「止めないの?」
「止める時間が惜しいので」
「それも失礼だよね?」
「否定はしません」
水滴が飛ぶ。
ルシアンが避ける。
避けながら、礼拝堂へ進む。
その動きは、逃亡にも見えた。
誘導にも見えた。
だが、少なくともルシアン自身は迷っていない。
礼拝堂方面の観測術式は、今も沈んでいる。
内部で何が起きているのか、外からは見えにくい。
だからこそ、外側から見る価値がある。
ルシアンは、崩れた外周路を進んだ。
背後では、傘を回す音が軽く響く。
「ねえ、ルシアン」
「はい」
「追いついたら、ちゃんと相手してくれる?」
「状況によります」
「それ、絶対しない人の答えだ」
「よくお分かりで」
「むう」
ミレイユが頬を膨らませる。
だが、次の瞬間にはまた笑っていた。
「じゃあ、逃げ切ってね」
「努力します」
ルシアンはそう答えた。
礼拝堂跡へ向かう道の先で、空気がわずかに歪んでいる。
冷たい。
静かすぎる。
そして、観戦用術式の線が、そこだけ不自然に途切れている。
ルシアン・ベルフォードは無表情のまま、歩調を少しだけ速めた。
その背後を、傘を手にしたミレイユが楽しそうに追っていった。




