第三十八話 ノアの領域
「みんな、待たせたね」
礼拝堂跡の奥で、ノア・ヴェイルは穏やかに微笑んだ。
白に近い淡灰色の髪。
薄い琥珀色の瞳。
その声は、戦場に似合わないほど柔らかい。
だが、その場にいた誰も、安心はしなかった。
カレンはエルネの前へ半歩出る。
エルネは黒い本を抱え直した。
ジルだけが、目に見えて顔を引きつらせていた。
「……うわ」
それまで軽薄に笑っていた口元が、ぴたりと止まる。
「パイセン、そんな時間か。忘れてたわ」
カレンが横目でジルを見る。
「聖環の代表同士では?」
「代表同士だからって、仲良しとは限らないんだよ、風紀委員長」
ジルは肩をすくめた。
さっきまでの余裕は、半分くらい消えている。
それでも、軽口だけは残っていた。
ノアは怒らない。
ただ、穏やかにジルを見る。
「ジル。もういいよ」
「はいはい。時間稼ぎはしたし、俺の仕事はここまでってことで」
言うが早いか、ジルの足元で青白い放電が弾けた。
風が巻く。
カレンが追おうと一歩踏み出しかける。
だが、その足は止まった。
ジルは礼拝堂跡の外周から一気に離脱する。
速い。
先ほどまでより、さらに速い。
追えば追えるかもしれない。
だが、その間、エルネはノアの前に残される。
「追わないんですか?」
エルネが小さく尋ねる。
「追いません」
カレンは即答した。
「逃げた相手より、残った相手の方が危険です」
ノアは、嬉しそうでも、困ったようでもない顔で笑っていた。
「ひどいな。まだ何もしていないのに」
「何もしていない相手が、一番危険なこともあります」
「そうかな」
「そうです」
カレンの火が、細く揺れた。
エルネの背中に冷たい汗が流れる。
(先生)
『警戒を推奨します』
(推奨じゃなくて、もうしてるわよ)
『追加警戒を推奨します』
(どれだけ怖いのよ)
ノアはゆっくりと一歩、前へ出た。
足音はしなかった。
代わりに、礼拝堂の床に残っていた古い紋様が、淡く光った。
光は広がらない。
沈んだ。
石畳の隙間へ。
壁の罅へ。
崩れた柱の影へ。
まるで、礼拝堂そのものが息を吸ったようだった。
「ここ、いい場所なんだ」
ノアが言う。
「古い祈りが残っている。古い術式も、少しだけね」
エルネは思わず一歩下がろうとした。
だが、足が止まる。
下がる場所がない。
さっきまで背後にあったはずの外周の石畳が、遠い。
距離が伸びたように見える。
いや、違う。
見えているのに、届かない。
(先生、これ、結界?)
『類似。ただし、外壁を形成する形式ではありません』
(どういうこと?)
『空間認識そのものが変質しています』
「下がってください」
カレンが言った。
「下がる場所、あります?」
「……ありませんね」
「ですよね!」
エルネは半泣きで突っ込んだ。
その間にも、周囲の音が薄くなっていく。
湿地の匂い。
遠くの戦闘音。
投影盤へ流れる観測魔力。
それらが、薄い膜の向こう側へ離れていく。
ノアは静かに傾いた柱へ手を置いた。
「大丈夫」
その声だけは、すぐ近くで聞こえた。
「ここなら、邪魔は入らないよ」
カレンの火線が走る。
ノアへ向けてではない。
エルネとの間に、境界線を引くように。
だが、その火は途中で歪んだ。
まっすぐ走ったはずの火線が、斜めへ逸れる。
床を焦がすはずの熱が、壁の影へ吸い込まれる。
カレンの眉がわずかに動いた。
「これは……」
『警告。隔離領域内に捕捉されました』
(捕捉って、閉じ込められたってこと!?)
『概ね同義です』
(概ねじゃなくて最悪じゃない!)
ノアは穏やかに微笑む。
「じゃあ、少しだけ話そうか」
エルネは黒い本を抱える腕に力を込めた。
カレンはその前で、火の魔力を細く絞る。
礼拝堂跡は、もう外ではなかった。
◇
中央砦跡。
崩れた門を抜け、リシアとガイウスは石造りの広間へ入った。
天井は半分ほど崩れている。
壁には古い戦傷が残り、床には長い年月で削れた石畳が続いていた。
中央砦跡は、合流地点としては分かりやすい。
だからこそ、罠がある。
ガイウスは最初からそう考えていた。
「リシア、足元に気をつけろ」
「はい」
リシアは水の魔力を薄く広げる。
罠を解除するためではない。
水分の流れを見るためだ。
乾いた石壁。
湿った地下。
空気に含まれるわずかな水分。
それらは、地形の癖を教えてくれる。
ガイウスは壁に手を当てた。
土属性の魔力が、石の奥へ染み込む。
「……正面は硬いな」
「通れないんですか?」
「通れる。けど、通らせたい道じゃない」
ガイウスの視線が、脇の通路へ動く。
そこには、崩れた瓦礫の影に細い階段があった。
地下へ続いている。
嫌なほど自然に、そこだけ通りやすくなっている。
「誘導されてますね」
リシアが言った。
「だな」
「分かっていて入るんですか?」
「中央砦を無視するわけにもいかないだろ」
ガイウスは苦笑した。
「それに、罠は踏む前に見るのが一番いい。踏んでから見るのは二番目だ」
「二番目でも見るんですね」
「見ないよりはましだ」
二人は地下階段へ足を踏み入れた。
階段の石は湿っている。
足音が、思ったよりも深く響いた。
リシアは小さく眉を寄せる。
「……水の流れが変です」
「水?」
「地下なのに、湿気が下へ落ちていません。上へ、いえ、横へ流れています」
「横?」
「礼拝堂の方角です」
ガイウスの顔つきが変わる。
彼は壁に手を当てた。
魔力を流す。
石。
土。
古い空洞。
水路。
その奥に、妙な空白がある。
「まずいな」
「何がですか?」
「これ、ただの罠じゃない」
ガイウスは顔を上げた。
「通路だ」
その言葉と同時に、壁の奥で何かが光った。
古い紋様。
砦の石材に刻まれていたはずの、役目を終えた術式。
それが、礼拝堂側から流れ込んできた魔力に反応して、淡く浮かび上がる。
リシアが杖を構えた。
水が集まる。
だが、集まった水はまっすぐ落ちず、横へ引かれた。
「ガイウス先輩!」
「壁から離れろ!」
ガイウスが土の壁を立てる。
リシアが水帯を展開する。
だが、二人の魔法はぶつかる相手を見つけられなかった。
攻撃ではない。
空間そのものが、ずれた。
階段が遠ざかる。
天井が低くなる。
壁に手が届く。
いや、届くはずの壁が、今度は遠い。
足元の石が、沈む。
リシアは息をのんだ。
「これは……」
次の瞬間、外の音が消えた。
砦の風も。
上階の瓦礫のきしみも。
遠くの戦闘音も。
すべてが薄い膜の向こうに追いやられる。
ガイウスは舌打ちした。
「やられたな」
「ここは、砦の地下……ですよね?」
「のはずだ」
「のはず、ですか」
「嫌な言い方だろ」
「はい。とても」
リシアは目を閉じる。
水の気配を探る。
そして、表情を変えた。
「多分、エルネさんがいます」
ガイウスが振り返る。
「近いのか?」
「……分かりません」
リシアは唇を結んだ。
◇
中央砦跡の上層。
割れた壁の影で、クラリス・ベルナールは小さく息を吐いた。
眼鏡の奥の瞳が、地下へ続く階段を見下ろしている。
リシアとガイウスの反応は、消えたわけではない。
沈んだ。
礼拝堂側の領域に、きちんと捕まった。
予定通り。
いや、少しだけ予定より早い。
だが、問題はない。
彼女の役割は、倒すことではない。
閉じ込めること。
逃がさないこと。
クラリスは懐から薄い札を取り出した。
札には、古い聖術式の符号を模した細い線が刻まれている。
それを、階段脇の石壁へ貼る。
ぴたり、と札が吸いついた。
地下から伝わっていた魔力の揺れが、少しだけ鈍る。
「入口、封鎖」
クラリスは淡々と呟く。
次に、反射片を二つ取り出した。
小さな鏡の欠片のような魔法具。
それを通路の角へ置く。
正しい道を、正しく見せないための道具。
出口を、出口だと認識させないための細工。
「誘導後は、維持が重要です」
クラリスは眼鏡を押し上げた。
「出られると思いましたか?」
もちろん、誰にも聞こえない。
地下の奥で、かすかに土属性の魔力が揺れた。
ガイウスだ。
壁を探っている。
構造を読もうとしている。
やはり、地形戦の術者は厄介だ。
クラリスは別の札を取り出した。
壁の反応をずらす札。
完全には騙せない。
だが、少し遅らせることはできる。
倒す必要はない。
遅らせればいい。
出さなければいい。
「ノアさん」
クラリスは小さく呟いた。
「そちらは、お任せします」
その声は、石壁に吸い込まれて消えた。
旧国境要塞跡の地下で、静かに扉が閉じていく。
礼拝堂の内側にいる者たちにも。
砦の地下にいる者たちにも。
外の戦場は、遠くなっていた。




