↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
38/111

第三十七話 みんな、待たせたね

 西側高所。


 崩れた外壁の上に、ルシアン・ベルフォードは立っていた。


 眼下には、森と湿地と旧街道が広がっている。


 中央砦跡の方角では、すでにいくつかの魔力反応が動き始めていた。


 礼拝堂跡の方角では、青白い光が時折弾けている。


 だが、ルシアンはまだ動かなかった。


 急ぐべき状況ではある。


 けれど、急げばいい状況ではない。


「こんにちは」


 背後から、柔らかな声がした。


 ルシアンは振り返らない。


 声の主は、いつの間にか崩れた外壁の反対側に立っていた。


 柔らかな髪。


 人懐っこい笑顔。


 片手には、細長い何か。


 ミレイユ・アージェント。


 聖環学院の代表の一人である。


「ねえ、こんなところで何見てるの?」


「特に何も」


 ルシアンは、ようやく振り返った。


 その顔に、驚きも警戒も浮かんでいない。


 無表情に近い、静かな顔だった。


「強いて言うなら、風景でしょうか」


「戦ってる最中に?」


「ええ。なかなか見晴らしがいいので」


「余裕だね」


「そう見えるなら、助かります」


 ミレイユはにこにこと笑う。


「本当は違うの?」


「どうでしょう」


 ルシアンは淡々と答えた。


 その視線が、ミレイユの手元で止まる。


 ミレイユが手にしているのは、杖ではない。


 細身の柄。


 丸く整えられた石突き。


 淡い色の布を閉じた、一本の傘だった。


 ルシアンは、わずかに眉をひそめる。


「これ、オシャレでしょう?」


 ミレイユは嬉しそうに傘を持ち上げた。


「雨は降っていませんが」


「うん。降ってないね」


「では、日除けでしょうか」


「それも違うかな」


 ミレイユはくすっと笑う。


「でも、かわいいでしょ」


「否定はしません」


「やった」


 彼女は本当に嬉しそうに言うと、傘の柄をくるりと回した。


 その動きは軽い。


 遊び道具を回すような仕草だった。


 けれど、ルシアンの表情は変わらない。


 傘の骨に、細い術式線が刻まれている。


 布の縁には、乾いたはずの水の気配がある。


 そして、閉じた傘の先から、一滴だけ水が落ちた。


 雨は降っていない。


 それなのに。


「なるほど」


 ルシアンは静かに言った。


「杖ではなく、魔法具ですか」


「うん」


 ミレイユは、にこにこと頷いた。


「お気に入りなんだ」


 ぱさり、と。


 傘が開いた。


 淡い布が円を描く。


 その内側に、薄い水膜が走った。


 水は、傘の布を濡らしていない。


 布の上を滑り、骨を伝い、縁へ集まっている。


 ミレイユが傘をくるりと回す。


 水膜が、光を受けて輪のように揺れた。


「ねえ、ルシアン・ベルフォード」


「はい」


「ちょっとだけ、相手してよ」


「申し訳ありません」


 ルシアンは丁寧に言った。


「今は、そういう気分ではありません」


「そういう気分じゃないんだ」


「はい」


「でも、私はそういう気分なんだよね」


「それは困りました」


「やっぱり困ってなさそう」


「顔に出にくい方なので」


 ミレイユは笑ったまま、傘をもう一度回した。


 その縁から、水滴が三つ弾ける。


 雨粒というには速すぎた。


 風に流される水ではない。


 圧を持ち、まっすぐに飛ぶ水だった。


 ルシアンは半歩だけ横へずれる。


 直後、彼の背後の石壁に、小さな穴が三つ空いた。


「……雨というより、針ですね」


「うん」


 ミレイユは傘越しに笑った。


「濡れるだけじゃ済まないよ」


 ルシアンは、外壁の端から動かない。


 ミレイユも、まだ距離を詰めない。


 だが、二人の間にあった空気だけが、静かに重くなっていた。


「やっぱり、相手してほしいな」


「なるべく短く済むと助かります」


 ルシアンは丁寧にそう言った。


 まるで、面倒な用事を早めに片づけたいと言うように。


 西側高所で、もう一つの戦いが始まろうとしていた。


     ◇


 風が、それを拾った。


 エリオット・ヴェインは高所の陰で目を開ける。


 ルシアンとミレイユが接触した。


 まだ本格的な戦闘ではない。


 だが、互いに動きを止めている。


 少なくとも、しばらくの間、ルシアンは西側高所に留まる。


「ミレイユがルシアンを抑えるなら、私もそちらに向かうよ」


 エリオットは風に声を乗せた。


 声といっても、言葉そのものではない。


 届く相手にだけ届く、細い風の震え。


 その合図を受け取ったのは、東側にいたグレイグ・バルトだった。


 グレイグは旧街道近くで、湿地側の魔力反応を追っていた。


 だが、カレンは予定進路から外れている。


 中央砦跡ではない。


 礼拝堂跡へ向かった。


 ならば、ここで待ち続ける意味は薄い。


「予定がずれるのは、いつものことか」


 グレイグは短く吐き捨てる。


 当初の方針は、セレスティアを西側に留めること。


 可能であれば、レオン、エリオット、グレイグの三人で倒すこと。


 一対一で勝てない相手でも、三人なら届くかもしれない。


 それが、聖環側の判断だった。


「合流する」


 グレイグは低く告げると、地面を蹴った。


 土が足場を押し上げる。


 荒れた旧街道を、彼は西へ向かって走り出した。


     ◇


 西側渓谷に近い岩場で、レオン・ヴァイスハルトはその合図を聞いていた。


 エリオットがこちらへ向かう。


 グレイグも動いた。


 ミレイユはルシアンを抑えている。


 カレンは礼拝堂へ逸れた。


 盤面は変わった。


 だが、最初の目的は変わらない。


 セレスティア・ロウ・アステリアを、こちら側に留める。


 遠くの岩場の上で、金色の髪が風に揺れた。


 セレスティアもまた、レオンの位置に気づいていた。


 彼女は周囲の魔力の流れを一度だけ見渡し、静かに微笑む。


「ずいぶんと念の入った隔離をしてくれたわね」


 声は遠い。


 けれど、レオンには聞こえた気がした。


 セレスティアは怒っていない。


 焦ってもいない。


 ただ、自分が盤面から切り離されようとしていることを、正確に理解していた。


 それでも、彼女は進む。


 誘われていると知りながら。


 あるいは、誘いごと踏み潰すつもりで。


 レオンは白い外套の袖を整えた。


「さすがですね」


 彼もまた、静かに前へ出た。


     ◇


 礼拝堂跡の外周では、火花と青白い放電が何度も弾けていた。


 カレンは、まだ冷静だった。


 火属性の魔力を大きく広げすぎない。


 湿地に近いこの場所では、無理に火力を上げれば、足場の水分と霧に魔力を食われる。


 だから、細く使う。


 線で切る。


 面で焼くのではなく、進路を区切る。


 ジル・レイフォードが右へ跳んだ瞬間、カレンの指先から赤い火線が走った。


 石畳の上に、細い焦げ跡が刻まれる。


 ジルはその直前で身体をひねり、崩れた柱の側面を蹴った。


 ぱち、と青白い光が弾ける。


 風歩《エア・ステップ》。


 その踏み込みに、細い放電が混ざる。


 速度よりも、止まり方と曲がり方が厄介だった。


「怖いな、風紀委員長」


 ジルは笑いながら言った。


「怖がっているようには見えませんが」


 カレンは冷静に返す。


「怖いから笑ってるんだよ」


「そうですか」


 次の火線が、ジルの着地点を塞いだ。


 ジルは一歩手前で止まり、今度は後ろへ跳ぶ。


 しかし、そこにも火の線が走る。


「おっと」


「無駄に速いですね」


「褒めてる?」


「警戒しています」


「それ、嬉しくないなあ」


「喜ばせるつもりはありません」


 カレンの声は落ち着いていた。


 だが、攻撃は確実にジルの動きを狭めている。


 倒すための火ではない。


 エルネから遠ざけるための火。


 礼拝堂の奥へ押し込ませないための火。


 ジルは笑っている。


 けれど、簡単には抜けられなくなっていた。


     ◇


 エルネは、カレンの背後で息を整えていた。


 助かった。


 それは間違いない。


 けれど、助かっただけで終わってはいけない。


(先生、援護を)


 エルネは指先に魔力を集めようとした。


 蒼炎針《アズール・ニードル》なら、ジルの進路を牽制できる。


 霧星糸《ミスト・ステラ》なら、カレンの火線と組み合わせて逃げ道を減らせる。


 だが、ロゴスの返答は違った。


『いえ、チャンスと判断します』


(チャンス?)


『カレン・ヴァーミリオンが稼いでいる時間を使って、術式を完成させます』


(術式って、さっきの?)


『はい。対象の移動補助術式、その起点に干渉するための構築です』


 エルネはジルを見る。


 正確には、ジルの足元を見た。


 風が起こる直前の一点。


 放電が走る前の細い道。


 足が地面を蹴る、その瞬間だけ生まれる支点。


 そこを留める。


 一瞬だけ。


 さっきは、偶然に近かった。


 同じやり方では、次は外される。


 その時、エルネはふと、ガイウスの言葉を思い出した。


 地形戦では、相手だけを見るな。


 相手が何を踏んでいるかを見ろ。


 地面は、ただの床ではない。


 重さを受け、力を返し、逃げ道を作る。


 走る者は、足だけで走っているのではない。


 足場に支えられて走っている。


(足元……)


 ジルの速さは、風だけではない。


 空中で方向を変えているように見えても、必ずどこかを踏んでいる。


 石畳。


 崩れた柱。


 湿った土。


 割れた壁の角。


 風歩《エア・ステップ》は、その足場を起点にしている。


 なら、見るべきなのはジルの身体ではない。


 ジルが次に踏む場所。


 そこへ魔力が流れ込む瞬間。


 地面から、風へ。


 風から、放電へ。


 放電から、踏み込みへ。


 その最初の一点。


『対象は起点の位置を連続的に変更しています』


(つまり、動きながら踏む場所を変えているってことよね)


『はい』


(嫌な器用さね)


『構築方針を変更します。対象の現在位置ではなく、次に起点となり得る候補へ干渉点を配置します』


(先回りするってこと?)


『近似します』


(近似って言い方、怖いんだけど)


『完全予測ではありません。外れる可能性があります』


(もっと怖いわよ)


 それでも、やるしかない。


 カレンが稼いでくれている。


 ジルの視線は、今はカレンに向いている。


 エルネは両手を胸の前で小さく構えた。


 魔力を広げすぎない。


 派手に光らせない。


 ジルに気づかれないように、石畳の表面へ薄く流す。


 足元の水分。


 石の中に残る鉄分。


 放電が逃げるわずかな道筋。


 そして、地面が踏み込みを受け止める点。


 それらを、ロゴスが拾い上げていく。


『干渉点、一』


 ジルが跳ぶ。


 カレンの火線が進路を切る。


『干渉点、二』


 ジルが柱を蹴る。


 青白い光が弾ける。


『干渉点、三』


(先生、さっきより多い)


『はい。単一点固定ではなく、複数候補への事前配置へ移行しています』


(完成に近づいてる?)


『前回より、構築精度は上昇しています』


 その言葉に、エルネは少しだけ息を吸った。


 できている。


 まだ名前もない。


 まだ完成形も見えていない。


 けれど、さっきより進んでいる。


 一瞬だけ足を引っかけるだけではない。


 次に踏みそうな場所へ、先に小さな点を置く。


 点を増やす。


 逃げ道を読む。


 ジルの速さそのものではなく、速さを生む足場に触れる。


(ガイウス先輩が言っていたの、こういうことだったのね)


『地形戦理解の応用として有効です』


(あとでお礼を言わないと)


『生存後を推奨します』


(それはそう)


 ジルの足元で、風が立つ。


 その直前。


 エルネが置いた見えない点のひとつが、石畳の奥でかちりと噛み合った。


 だが、その瞬間だった。


 礼拝堂の奥から、冷たい空気が流れた。


 さっきまでとは違う。


 ただ冷たいだけではない。


 空気そのものが、薄くなるような感覚。


 古い聖術式の残滓が、静かに震える。


『警告』


 ロゴスの声が、低くなった。


『礼拝堂内部より、別系統の術式反応』


 エルネは顔を上げた。


 カレンも、ジルも、ほぼ同時に動きを止める。


 礼拝堂跡の奥。


 壊れた柱の向こう。


 薄暗い空間の中に、白に近い淡灰色の髪が見えた。


 ノア・ヴェイル。


 彼は、まるで遅れて舞台に上がる役者のように、静かに歩いてきた。


 そして、柔らかく微笑む。


「みんな、待たせたね」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。