第三十六話 仕組まれた転送
転送位置は、完全な偶然ではなかった。
少なくとも、聖環側にとっては。
広域幻傷フィールドの転送陣には、開始前の段階で小さな細工が施されていた。
選手を好きな場所へ送るほど露骨なものではない。
そんなことをすれば、運営記録に残る。
だが、転送先の候補を偏らせる。
あるいは、誰がどこへ飛ばされるかを、事前に読みやすくする。
その程度なら可能だった。
もちろん、聖環学院だけでできることではない。
リュゼリア側の内側から、必要な情報を流した者がいる。
だから聖環側は知っていた。
誰が、おおよそどこへ飛ばされるのか。
そして、誰をどこで足止めするべきなのか。
◇
西側高所。
崩れた外壁の陰で、エリオット・ヴェインは目を閉じていた。
彼の周囲を、細い風が巡っている。
強い風ではない。
木の葉を揺らすほどでもない。
ただ、空気の中を滑り、地形の凹凸をなぞり、魔力の揺れを拾うための風だった。
「北、二名。予測範囲内」
北の森林地帯で、青い魔力反応が二つ近づいている。
大きなズレはない。
「南西。予定通り」
セレスティア・ロウ・アステリア。
「南東。予定通り」
シオン・レイヴァン。
「東湿地。予定通り」
カレン。
湿地側から中央砦跡へ向かう可能性が高い。
「礼拝堂周辺、黒い本。ジル。ノア」
そこで、エリオットは少しだけ眉を寄せた。
礼拝堂跡周辺は、古い聖術式の残滓で風の通りが悪い。
それでも、反応は拾えた。
大きなズレはない。
問題ない。
少なくとも、今のところは。
「では、合図を」
エリオットは指先を上げた。
風が、細く震える。
声を送るわけではない。
高い音。低い音。長い音。切る音。
事前に決められた合図を、風に乗せる。
北、二名。予測通り。
西渓谷、警戒対象あり。
東側、警戒対象あり。
湿地、警戒対象あり。
礼拝堂、接触開始。
砦、準備続行。
言葉にすれば長い。
だが、風に乗せれば、わずかな震えで済む。
聞き方を知らない者には、古い石壁を風が鳴らしたようにしか聞こえない。
◇
北の森林地帯で、リシア・アルヴェルトは足元の水気を確かめながら歩いていた。
高い木々が空を覆い、地面には湿った落ち葉が積もっている。
走らない。
急ぎすぎない。
森林では、焦った者から足を取られる。
その時、前方の茂みがかすかに揺れた。
リシアは即座に指先を上げる。
空気中の水分が、薄い膜となって周囲に広がった。
「待った、待った。味方だ」
茂みの向こうから、ガイウスが両手を軽く上げて姿を見せた。
その足元では、土が小さく盛り上がり、踏み場の悪い落ち葉を押しのけている。
「ガイウス先輩」
「早めに会えたな。助かった」
「こちらもです」
リシアは警戒を解かず、周囲へ視線を巡らせる。
「敵影は?」
「まだ見ていない。ただ、中央方面の土が少し荒れている。誰かが通ったか、先に入っている可能性はある」
「中央砦跡ですね」
「ああ。ここからなら、合流地点までは真っ直ぐ行くのが一番早い。森を抜けたら、砦跡の北側に出られるはずだ」
「迂回はしないのですね」
「しない。下手に回ると、かえって孤立する。今はまず、予定通り中央を目指すべきだ」
リシアは小さく頷いた。
中央砦跡は、リュゼリア側の合流地点。
先に押さえられている危険はある。
それでも、味方の位置が分からない状況で、合流地点を捨てる方が危険だった。
「急ぎましょう」
「だな。ただし、急ぎすぎない」
「ええ」
二人は並んで森の中を進み始めた。
だが、その進路はすでに読まれていた。
◇
中央砦跡の崩れた広間で、クラリス・ベルナールは風音を聞いた。
北、二名。予測通り。
「やはり来ますか」
眼鏡の奥の目は、少しも揺れない。
彼女は膝をついたまま、小さな札を石畳の隙間へ押し込んだ。
砦跡には、地下へ続く半ば壊れた階段がある。
通路は狭く、曲がり角が多い。
天井は低く、視界は悪い。
水音が反響し、足音の位置も分かりにくい。
味方と合流するには向かない場所。
だからこそ、足止めには向いている。
クラリスが作っているのは、相手を倒す罠ではなかった。
地下区画へ誘導し、足を止めるための罠だった。
正面の通路には、足元を重くする硬化符。
脇道には、視線誘導の反射片。
崩れかけた壁には、小さな落石のきっかけ。
そして地下への階段には、魔力反応を薄くする札。
危険に見えすぎない。
むしろ、一時的に身を隠せる場所のように見せる。
「倒す必要はありません」
クラリスは最後の札を押し込み、立ち上がった。
「遅らせればいいんです」
北から来るのが誰であれ、中央砦跡で足を止める。
合流を遅らせる。
援護へ向かう判断を狂わせる。
それが彼女の役目だった。
◇
西側渓谷に近い岩場で、レオン・ヴァイスハルトは白い外套を揺らして立っていた。
遠くに、光が見える。
セレスティア・ロウ・アステリア。
リュゼリアの生徒会長。
聖環側が最も警戒している相手の一人だった。
単独撃破は困難。
まずはセレスティアを西側に留める。
それが事前の打ち合わせで決められた方針だった。
もっとも、倒すことを諦めたわけではない。
レオンが時間を稼ぎ、エリオットとグレイグが合流する。
その形まで持ち込めれば、可能性はある。
一対一では届かなくても、三人なら届くかもしれない。
「では、予定通りに」
レオンは静かに呟いた。
風が細く鳴る。
エリオットからの合図。
西渓谷、警戒対象あり。
レオンは、セレスティアのいる方角へ視線を向けた。
同じ頃、東側ではグレイグ・バルトが旧街道近くに立っていた。
湿地と街道の境。
ここはカレンが中央へ向かうなら、必ず意識する位置だった。
グレイグは足元の石畳を踏みしめる。
地面を裂く。
壁を立てる。
道を荒らす。
クラリスのように誘導するのではない。
力ずくで、進みたい道を進みにくくする。
「来るなら、ここで潰す」
土の魔力が、低く広がった。
◇
東の湿地では、カレンが中央砦跡を目指していた。
足場は悪い。
泥が靴に絡み、水草が足首に触れる。
火属性術者にとって、得意な場所ではない。
だから、カレンは火を使わず、湿地の縁を選んで進んでいた。
中央へ。
まずは合流する。
それが作戦だった。
その時だった。
ぱち、と。
空気が弾けるような音が、霧の向こうから届いた。
カレンの足が止まる。
もう一度。
ぱち、と。
青白い雷鳴のような音が混じった。
方角は、礼拝堂跡。
カレンは一瞬だけ、中央砦跡の方角を見る。
合流地点へ向かうべきだ。
それが作戦だった。
だが、礼拝堂跡の方角には、エルネがいる可能性がある。
セレスティアの言葉が、脳裏をよぎる。
今回、エルネについていてあげて。
カレンは迷わなかった。
進路を変える。
湿地の水を蹴り、礼拝堂跡へ向かって走り出した。
◇
西側高所で、エリオットが目を開いた。
風が乱れた。
湿地側の火性反応が、予定進路から外れている。
中央ではない。
礼拝堂へ向かっている。
「……あれ?」
エリオットは少しだけ眉を上げた。
すぐに、風音を送る。
湿地、予定進路より逸脱。
礼拝堂方向へ移動。
その合図を受け取ったクラリスは、砦跡の広間で初めて手を止めた。
「カレンが、礼拝堂へ?」
予定では、湿地側の火属性術者は中央砦跡へ向かう。
グレイグが足場を崩し、進路を荒らし、必要なら砦側へ流す。
そういう手順だった。
だが、その手順から外れた。
「ジルさんですね」
礼拝堂方面で、すでに戦闘音が起きている。
派手な放電。
風の衝突。
それを湿地側のカレンが拾った。
「余計な音を立てましたか」
クラリスは眼鏡を押し上げた。
「……まあ、想定内の想定外です」
◇
礼拝堂跡の外周では、青白い光が何度も弾けていた。
ジルが走る。
いや、跳ぶ。
石壁を蹴り、崩れた柱を踏み、湿った石畳を滑るように移動する。
そのたびに、足元で風が鳴り、細い放電が枝のように広がった。
エルネは必死に目で追っていた。
正確には、ジルの身体ではない。
足元。
風が起こる直前の揺れ。
放電が走る前の細い線。
そこを留める。
一瞬だけ。
けれど、ジルはすぐに慣れ始めていた。
「今のは惜しい」
ジルが笑う。
「そこじゃない」
次の瞬間、彼は横へ跳んだ。
エルネが留めようとした風歩の起点は、空振りする。
(外した!)
『対象の起点変更速度が上昇しています』
(それ、慣れられてるってことよね!?)
『はい』
(嫌なはい!)
ジルが再び踏み込む。
今度は低い。
地面すれすれに放電が走り、エルネの逃げ道を削る。
エルネは横へ跳んだ。
だが、そこには崩れた塀がある。
背中が石に当たる。
「っ」
行き止まり。
ジルが目の前に着地した。
「追い詰めた」
「見れば分かるわよ」
「じゃあ終わりにするか?」
「それは嫌」
ジルの足元に、青白い光が集まる。
今度は、正面から来る。
『警告。対象、加速準備』
(分かってる)
エルネは息を詰めた。
間に合うか。
分からない。
ジルが踏み込む。
その瞬間だった。
横合いから、熱い風が走った。
湿った霧が、一気に裂ける。
ジルの進路の前に、赤い火花が散った。
「おっと」
ジルは楽しそうに笑い、すぐに後ろへ跳んだ。
石畳に、焦げ跡が一本走る。
霧の向こうから、一人の生徒が歩いてくる。
高身長。
短い赤みがかった濃茶の髪。
学院指定の制服を、隙なく着こなした姿。
風紀委員長、カレン。
「間に合ったようですね」
カレンは静かに言った。
声は落ち着いている。
だが、その足元では、抑え込まれた火の魔力が小さく揺れていた。
「エルネさん。怪我は?」
「幻傷だけ。たぶん」
「たぶん、は後で確認します」
カレンはジルへ視線を向けた。
ジルは口笛を吹いた。
「増えたな」
「二対一が不満ですか」
「いや?」
ジルは笑った。
「面白くなってきた」
礼拝堂跡の奥から、冷たい空気がまた流れてくる。
エルネはその空気に、ほんの少しだけ背筋を震わせた。
戦闘は止まっていない。
むしろ、ここからだった。




