第三十五話 雷と風の遊び相手
「中央に行きたいんだろ? なら、まずは俺と遊ぼうぜ」
ジル・レイフォードは、崩れた石壁の上で笑っていた。
くすんだ金髪。
軽薄そうな笑み。
聖環学院の制服を少し崩した姿。
それだけを見れば、真面目な代表選手には見えない。
けれど、エルネは黒い本を抱えたまま、一歩も動けなかった。
空気が、弾けている。
ぱち。
ぱち、と。
小さな火花のような音が、ジルの足元で鳴っていた。
『対象、魔力上昇』
(……それは見れば少し分かるわよ)
『補足。風属性を基盤に、雷属性の微細放電を混合しています』
(そこまでは分からないわよ)
エルネは黒い本の角をぎゅっと握った。
足元は湿っている。
右手側には湿地。
左手側には崩れた塀。
正面には礼拝堂跡。
そして、中央砦跡へ向かう道は、ジルの向こう側にある。
「逃げてもいいぜ」
ジルが言った。
「追うけど」
「それ、逃げてもいいって言わないわよね」
「言えるだろ。俺は止めてない」
「追う時点で止めてるじゃない」
「細かいなあ」
「そっちが雑なのよ」
ジルが軽く膝を曲げた。
その瞬間、足元の石壁に青白い線が走る。
雷。
いや、雷というには細い。
糸のような光が、石壁の表面を這い、ジルの靴底へ吸い込まれた。
『術式展開。移動補助型と推定』
(来る?)
『来ます』
次の瞬間、ジルが消えた。
「っ」
エルネは反射的に横へ跳んだ。
湿った土に足を取られる。
その直後、さっきまでエルネの頭があった場所を、青白い閃光がかすめた。
風が遅れて来る。
頬に痛み。
幻傷。
浅い。
だが、当たれば一撃で体勢を崩される。
「お、避けた」
ジルは、いつの間にかエルネの背後側の石畳に立っていた。
「黒い本の一年って聞いてたけど、足は普通だな」
「普通よ。悪かったわね」
「普通の方が遊びやすい」
「遊ばれる予定はないんだけど」
ジルが笑う。
また、ぱち、と音が鳴った。
彼の周囲で風が巻く。
風そのものに、青白い粒が混じっている。
◇
観戦席上段の記録席では、魔導投影盤の一部が礼拝堂跡周辺を拡大していた。
映像は少し揺れている。
礼拝堂跡に残る古い聖術式の影響で、輪郭がにじむように乱れるのだ。
「接敵しました。エルネさんと、ジル・レイフォードさんです」
マルクが声を張る。
投影盤の中で、赤い光点が青い光点の周囲を素早く回り込んでいる。
「今の移動、かなり速いですね。風属性の自己強化でしょうか」
セラム教師が、光点の軌跡を目で追った。
ディル・エスパリスが静かに答える。
「ええ。風歩です。足元の空気を操作し、踏み込み、跳躍、着地を補助する風属性の自己強化魔法ですね」
「ただの移動補助にしては、切り返しが速すぎるように見えます」
「そこがジルの癖です」
ディルは、投影盤の中で弾ける青白い光を見つめた。
「風歩で動かした足元の空気を、瞬間的に放電させています。その反応を足だけに通し、踏み込みと切り返しを強引に速めている」
セラム教師が眼鏡を押し上げた。
「空気の放電を、足への限定的な自己強化に転用しているわけですか」
「はい。全身に使えば危険が大きい。ですが、足だけなら短時間の加速に使える。直線速度より、止まり方と曲がり方が厄介です」
グラント教官が短く言った。
「扱いづらそうだな」
「味方としても、少し」
ディルは表情を変えずに答えた。
◇
ジルが右手を振った。
風が鳴る。
見えない刃が、湿地の水面を裂いた。
水しぶきが上がる。
その水しぶきの中に、青白い線が走った。
「っ……!」
水を伝って、放電が広がる。
エルネは後ろへ跳んだ。
靴裏のすぐ前で、湿った土が白く弾けた。
ジルは楽しそうに口笛を吹く。
「いい反応」
「あ、どうも……って、今の褒めてる?」
「褒めてる」
「全然嬉しくないわね」
ジルが笑い、また石壁を蹴る。
右。
と思った瞬間、左。
いや、左へ行くと見せて、上。
青白い放電が、空中で尾を引いた。
速い。
まっすぐではない。
途中で軌道が変わる。
エルネは黒い本を開いた。
今のままでは、合流できない。
逃げても追いつかれる。
道を塞がれている。
なら、止めるしかない。
(先生。蒼炎針)
『起動準備可能』
黒い本のページが、ひとりでにめくれる。
エルネの周囲に、淡い蒼の火点が浮かび上がる。
蒼炎針。
小さく、鋭く、速い。
相手の動きを止めるには十分な術式。
だが、ジルは速い。
通常構築では、狙いが追いつかない。
(即時発動なら?)
『非推奨』
(早い)
『即時発動は、通常構築に比べ魔力消費が大きく増加します。対象の移動速度と軌道変更頻度を考慮すると、複数回の試行が必要となる可能性が高いです』
(つまり、外したらきついってことね)
『はい』
(嫌なはい)
ジルがまた動く。
青白い光が湿った石畳を跳ねる。
エルネは蒼い火点を向ける。
けれど、狙いが定まらない。
撃てば、外す。
外せば、次の一手が遅れる。
「撃たないのか?」
ジルが石壁の上で笑う。
「黒い本って、もっと派手なものかと思ってたけどな」
「派手ならいいってものじゃないでしょ」
「じゃあ何ならいいんだ?」
「……できれば、安全なもの」
ジルが一瞬きょとんとした。
それから、腹を抱えて笑った。
「対抗戦で安全!」
「大事よ!」
「いいな、お前。変で」
「褒め言葉として受け取るか迷うわね」
ジルの足元で、また光が弾ける。
今度は低い。
地面すれすれを走る放電が、石畳の割れ目を伝ってくる。
エルネは横へ避けた。
避けた先に、風。
頬をかすめる。
さらに、足元の水たまりが震えた。
ジルは、攻撃そのものよりも、逃げ道を削っている。
礼拝堂跡の方へ。
中央砦跡ではなく、奥へ。
『対象は、進路を制限しています』
(分かってる)
『訂正。かなり明確に誘導しています』
(分かりたくなかった)
エルネは唇を結んだ。
このまま下がれば、礼拝堂跡に近づく。
だが、前に出ればジルの間合い。
左右は湿地と崩れた塀。
地形が味方をしてくれない。
(先生。蒼炎針以外で止める方法、ある?)
『提案があります』
黒い本のページが、わずかに光る。
『対象を直接攻撃するのではなく、対象術式の一部を留めます』
(術式の一部を、留める……?)
『はい』
『対象術式は、風歩を基盤としています』
(風属性の自己強化魔法よね)
『はい。足元の空気を操作し、踏み込みと着地を補助する術式です』
(でも、さっき光ってたわよ)
『対象は二段階目として、足元の空気を放電させています。主目的は攻撃ではありません。足部への限定的な自己強化です』
(だから、あんなに変な曲がり方をするのね)
『はい。踏み込み、切り返し、着地の反応速度が上昇しています』
エルネは、ジルを見る。
彼はまた笑っていた。
こちらが狙えないと分かっている顔。
『蒼炎針による直接命中を狙うより、風歩の起点を固定する方が成功率は高いです』
(足を止めるんじゃなくて)
『正確には、足元の空気の流れです。放電に移る直前の風を留めれば、二段階目の強化は発生しません』
(魔法の、最初のところを止める)
『はい』
破壊ではない。
燃やすのでもない。
貫くのでもない。
ただ、動こうとする魔力の流れを、一瞬だけ止める。
エルネは息を吸った。
蒼い火点を消す。
代わりに、指先へ意識を集める。
見えない。
でも、感じる。
ジルが動くたび、足元で弾ける小さな魔力。
風が起こる直前の、わずかな揺れ。
放電が走る前の、細い線。
「お?」
ジルが首を傾げた。
「撃たないのか?」
「撃たない」
「じゃあ負けるぜ」
「それも嫌」
「欲張りだな」
「そうよ。勝って合流したいの」
ジルが笑い、石壁を蹴った。
青白い光が、足元に集まる。
その瞬間。
エルネは、見えない一点へ指を向けた。
(そこ)
『補助固定、試行』
蒼い火ではない。
水でも風でもない。
薄い光の糸のようなものが、湿った石畳に一瞬だけ走った。
ジルの足元で、ぱち、と鳴るはずだった音が。
鳴らなかった。
「――は?」
ジルの体が、わずかに沈む。
加速が途切れた。
完全に止まったわけではない。
だが、速さに乗るはずだった身体が、ほんの一瞬だけ遅れる。
その一瞬を、エルネは見た。
そして、ジルもまた気づいた。
目の前の一年生が、自分の動きを見切ったわけではない。
足を狙ったわけでもない。
風歩の、その起点だけを留めたのだと。
「……へえ」
ジルの笑みが、少しだけ変わった。
軽い笑みではない。
遊び相手を見つけた顔でもない。
面白いものを見つけた顔だった。
「今の、何した?」
エルネは黒い本を抱え直した。
「説明している余裕はないわ」
「あるだろ。俺、ちょっと止まってやったし」
「止めたのはこっちよ!」
言い返した瞬間、ジルの足元で再び青白い光が弾けた。
今度は、さっきより強い。
風が巻く。
湿った石畳の上で、放電が細い枝のように広がっていく。
『警告。対象術式、出力上昇』
(でしょうね!)
ジルは楽しそうに肩を回した。
「いいぜ、黒い本の一年」
その声から、軽薄さが少しだけ消えていた。
「じゃあ、次はもうちょい速く行く」
エルネは息を呑んだ。
中央砦跡へ向かう道は、まだ彼の向こう側にある。
そして、礼拝堂跡の奥からは、妙に冷たい空気が流れてきていた。




