第三話
ロゴの声は、ひどく淡々としていた。
『既存術式の構造欠陥、余剰線、魔力逃がし、不完全な接合部に、あなたの魔力が入り込んでいます。その結果、術式が安定維持できず崩壊している』
「……それって、壊してるってことじゃないの?」
『いいえ』
黒い本のページに、読めないはずの文字が走る。
けれど、意味だけは分かった。
『術式の品質が、あなたの魔力精度に耐えていません』
エルネは息を止めた。
何を言われたのか、すぐには分からなかった。
「私が、下手なんじゃなくて?」
『あなたの魔力操作は過剰に精密です』
「過剰って、褒めてる?」
『かなり褒めています』
「分かりにくい」
『改善します。あなたは魔法が使えないのではありません』
黒い本が、静かに告げる。
『雑な術式を、雑に使えないだけです』
胸の奥が、変なふうに熱くなった。
今まで、誰もそんなことを言わなかった。
発動できない。
向いていない。
余計なことをするな。
術式に逆らうな。
全部、エルネが悪いと言われてきた。
教師も、同級生も、レオルたちも。
誰も、術式の方を疑わなかった。
けれど、この本は違うと言った。
本のくせに。
禁書のくせに。
よく分からない人工知能のくせに。
「……じゃあ、どうすればいいの」
『既製術式を使用しないことを推奨します』
「それじゃ魔法使いになれないじゃない」
『否定します』
ページが淡く光った。
『一から術式を構築します』
「一から?」
『はい。あなたの魔力精度に適合する専用術式を設計します』
「そんなこと、できるの?」
『試行します』
「できるって言ってよ」
『不確実な断定は推奨しません』
「こういう時くらい、勇気づけて!」
『成功確率は、現時点で三十七パーセントです』
「低い!」
『既製術式を使用する場合の成功確率は二パーセント未満です』
「急に希望が出た!」
エルネは笑いそうになった。
怖いはずなのに。
禁書を抱えて、演習用ダンジョンの隠し部屋に閉じ込められている。
どう考えても、人生でかなり下の方の日だ。
それなのに、ほんの少しだけ、前を向けた。
『まず、火球術式を忘れてください』
「忘れるの?」
『はい。火球を出す必要はありません』
「基礎術式なのに?」
『目的は何ですか』
「出口を開くこと」
『では、火球は不要です』
それは、当たり前のことだった。
でも学院では、当たり前ではない。
火球術式を習えば、火球を出す。
水弾術式を習えば、水弾を撃つ。
風刃術式を習えば、風刃を飛ばす。
それが魔法だと教わってきた。
でも、目的が出口を開くことなら。
必要なのは、火球ではない。
『壁の封印術式に干渉します。ただし破壊ではありません。接合部を一時的に緩め、通路を再表示させます』
「えっと……ほどく?」
『近似しています。ただし、ほどいた後に結び直します』
「私、それできる?」
『私が補助します』
「先生みたい」
『私は教育機関ではありません』
「でも教えてくれるんでしょ」
『質問内容によります』
「じゃあ先生でいいじゃない」
『……呼称を記録しました』
エルネは深呼吸した。
腕の中の黒い本は重い。
けれど、さっきよりは少しだけ心強かった。
壁の術式を見る。
今度は、無理に既製の流れへ魔力を合わせない。
自分の魔力が細いなら、細いまま使えばいい。
線の隙間へ入る。
引っかかる場所を見る。
壊すのではなく、緩める。
『右下の接合部へ魔力を集中』
「ここ?」
『違います。そこは崩壊点です』
「危なっ」
『上へ三指分』
「早く言って」
『言いました』
「もっと早く!」
エルネは唇を尖らせながら、魔力を動かした。
細く。
もっと細く。
針に糸を通すように。
いつもなら、ここで術式が嫌な音を立てる。
魔力が引っかかり、線が乱れ、光が消える。
周囲から笑われる。
けれど、今は違った。
ロゴの声が、淡々と案内してくれる。
『魔力量を二割低下』
「これくらい?」
『下げすぎです。一割戻してください』
「細かい!」
『精密操作が可能な使用者には、精密指示が有効です』
「褒めてる?」
『褒めています』
「やっぱり分かりにくい!」
壁の術式が、ふわりと揺れた。
消えていた通路の輪郭が、薄く浮かぶ。
エルネは目を見開いた。
「……できた?」
『未完です。最後に維持線を結び直してください』
「どうやって?」
『あなたがほどいた線を、元の位置より半指左へ戻します』
「半指って何よ、半指って!」
『感覚換算です』
「もっと学院の先生にもそれくらい丁寧に教えてほしかったわよ!」
『学院の教育方式は、現時点で改善余地が大きいと判断します』
「それはちょっと同意する」
エルネは、ほどけた術式の線へ魔力を添えた。
力を入れすぎない。
流し込みすぎない。
今までみたいに、既製の術式へ無理に合わせようとしない。
細いなら、細いまま。
精密すぎるなら、精密なまま。
そっと、線を結び直す。
次の瞬間、壁が音もなく開いた。
青い誘導灯の光が差し込む。
演習用ダンジョンの通路だ。
「……開いた」
『成功です』
エルネは黒い本を抱きしめた。
重い。
怖い。
怪しい。
でも、今だけは。
「先生」
『はい』
「私、魔法を使えた?」
ほんの少し、間があった。
そして本は答えた。
『はい。あなた専用の術式です』
エルネは笑った。
泣きそうになるのをごまかすように、少しだけ鼻をすすった。
「そっか」
『ただし、実用には改善が必要です。発動時間、安定性、魔力効率、いずれも基準未満です』
「そこは黙って褒めて!」
『褒めています。初回としては良好です』
「最初からそれだけ言えばいいの!」
エルネは通路へ足を踏み出した。
振り返ると、石室の中で台座だけが暗く沈んでいた。
あの部屋は何だったのか。
なぜ演習用ダンジョンの奥に、あんな本があったのか。
なぜ、自分だけが開けたのか。
分からないことだらけだ。
ただ、ひとつだけ分かる。
この本を、レオルたちに渡してはいけない。
教師に正直に報告するべきかどうかは、まだ決められない。
けれど、少なくとも今は、この場から出る。
エルネは黒い本を抱え直した。
「出口まで案内できる?」
『周辺術式の一部を解析中です。推定経路を提示できます』
「頼りになるじゃない」
『評価の上昇を確認』
「ちょっと嬉しそう?」
『否定します』
また、少しだけ間があった。
エルネは口元を緩めた。
その時だった。
ごごん、と。
ダンジョンの奥で、低い音がした。
石の床がかすかに震える。
壁に刻まれた青い誘導灯が、一度だけ強く明滅した。
「……今の、何?」
『解析中』
ロゴの声が、わずかに低くなった気がした。
『補足します』
「嫌な補足じゃないでしょうね」
『先ほどの術式操作により、周辺の封印式が一部再起動しました』
「つまり?」
また、奥で音がした。
今度は一度ではない。
ごごん。
ごごん。
ごごん。
何かが、ゆっくりと動き出すような音。
『警告。未登録の魔力反応を検出』
「未登録って、学院の演習用じゃないってこと?」
『その可能性が高いです』
「何が来るの?」
『不明です』
「禁書なのに?」
『私は現在、魔法体系を学習中です』
「初心者!」
『訂正します。未知環境における初期解析段階です』
「初心者じゃない!」
通路の奥から、冷たい風が流れてきた。
その風に、土と鉄の匂いが混じっている。
エルネはゆっくり後ずさった。
「先生、推奨行動は?」
『推奨行動』
「うん」
『全力で逃走してください』
エルネは黒い本を抱え直した。
「先生、重いんだけど!」
『紙媒体です』
「知ってる!」
通路の奥で、何かがまた動いた。
青い誘導灯の光の向こうに、影が伸びる。
人ではない。
獣でもない。
古い石の関節を鳴らしながら、何かがこちらを向いた。
エルネは悲鳴を上げかけた。
しかし、今度は飲み込んだ。
悲鳴を上げるより先に、足を動かす。
エルネは走り出した。
『進行方向、右です』
「右ね!」
『訂正。左です』
「早く!」
『地図情報に欠損があります』
「本当に初心者!」
『訂正を要求します』
「あとで!」
黒い本を抱えたまま、エルネは青い光の通路を駆け抜ける。
背後で、石の足音が響いた。
落ちこぼれ魔法使いエルネ・フィルは、その日初めて自分専用の魔法を使った。
そして、その三十秒後。
初めて、自分の魔法のせいで何かを起こした。
読んでいただきありがとうございます。
新作です。
「世界を滅ぼしたAIが、異世界の禁書に宿ったら?」という話です。
重そうな設定ですが、基本は落ちこぼれ魔法使いと面倒くさい禁書AIの掛け合い多めで進めていく予定です。
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